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2.あの日の朝 その2

病院に着いて意識を失う。

どれぐらい救急車に揺られたのでしょうか。

いつも自転車で爆走していた大きな道路をノロノロと走っていたような、凄いスピードで走っていたのか全く分かりません。ただ、その内病院に到着し、ストレッチャーに移し替えられて処置室に運び込まれました。

私の記憶はここまで。鎮静剤か何かを投与されて、翌日か翌々日にICUで目覚めるまで意識を失っていました。

母からの伝聞

ここからは母の記憶です。

到着した病院はER(緊急治療室)も併設された脳神経外科クリニック。救急隊員、ピンポイントで連れて来てくれたのですね~、さすがです。

私が処置室に連れて連れて行かれて暫く経ってから、私の長年の主治医になるドクターに呼ばれたようです。その時点で父も駆け付け、連絡を受けた近所に住む親戚の叔母も付き添って3人が診察室に入りました。

「CTスキャンの結果、大脳皮質で内出血を起こしており、左脳の1/4に出血の痕跡が見られます。」

「これから命を繋ぐ手術に入ります。」

主治医は淡々とした口調で告げていたようですが、身内3人は自分の耳を疑い、母は卒倒しかけたみたいです。

主治医の見立てでは、運動機能の回復は絶望的であると、命が助かっても寝たきりになる可能性の方が高いとのこと。前日までの私の状態を知る3人は、信じられないと言った形相だったと聞きます。

両親から手術の承諾書を得て、外来で来られていた患者さん全てを帰宅させていました。また、大学病院から助手にあたる脳外科医を呼ぶ手はずを整え、緊急手術が始まろうとしていました。

私は「オバケのQちゃんのお姉ちゃん」

約10時間ほどの手術の後、私はICUに運ばれました。命は助かったようです。ただ、背中まであった髪を丸坊主にされました。

また「包帯グルグル巻き」+「カテーテル」が頭のてっぺんから3本出ていたらしいので、それを称して「オバケのQちゃんのお姉ちゃん」と称され、今でこそですが母から大笑いのネタになってしまっていました。

怒涛の日々が待っていました。

この手術によって命は助けてもらいました。

けれど、これが人生をリセットされたこととは意識がなかった私には分からなかったことであり、今後、右往左往する人生の幕開けになるとは両親ともども分かりませんでした。

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