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3.目覚め

術後、1日ないし2日経って私はICUで目覚めました。

私は自分が置かれている状況の把握が全くできずにいました。

なぜ知らないベッドの上にいるのだろう。。。

なぜ何本ものカテーテルに繋がられているのだろう。。。

なぜ息苦しいだけなのに酸素注入用のマスクをしなければならないんだろう。。。

なぜ、なぜ、なぜ。。。

そんな状態でした。

父の行動

私が目覚めたと連絡を受け、父が仕事の合間にICUにやって来ました。

その手には、当時使っていたボロボロになったSAZABYのシステム手帳がありました。

状況判断が冷酷なまでに素早く端的で、今思えば素晴らしく仕事ができた男性だと感じています。実際やり手だったとは、父の会社関係者からは伺ってはおりましたが…

ただまあ、命がギリギリのところで助かった娘との再会を、もう少しカンドーの涙で濡らして欲しかった。と贅沢なことを今は申したいです、ハイ。

父は朦朧としている私に手帳の住所欄を見せて、連絡をしないといけない人たちを指さすように指示しました。

あー、そうだった、そうだった。

そうだよね、今後の対応を考えるとキーパーソンには連絡をしないとならないよね。そこが父の偉いところだったのだろうと、そう思いました。

母と一緒にオロオロしていてはいけませんもんね。家族の有事の時に、誰か1人でも冷静に対処できる人がいないと総崩れです。

後日談ですが、私の手帳を見た父はスケジュールが真っ黒で驚いたと言います、その時点で泣いたようです。

当時の私は、30分~1時間単位で毎日スケジュールが詰まっていました。携帯やスマホがなかった時代ですから、私を捕まえることは至難の業。友人たちからは「ベルを持て。」と言われてポケベルを持っていたほど。

そんな生活を365日していたわけで、身体を壊すのも当たり前だったのかもしれません。でも、大学生の頃って無茶ぶりが一番きく頃だったし、長年スポーツをやって来たこともあって体力的に問題もなく、風邪すらひかない健康優良児だったのですから、やっちゃいますよね。

やはり言葉が出て来ない

目覚めたのは良いけれど、相変わらず言葉が出て来ませんでした。

不思議と身体が動く?動かない?とかの感覚は覚えていません。

ただ明らかに頭の中にある言葉が、音声として周りに伝えることができないことは分かりました。

でも、大きな手術の後だったから、あまり気にせず眠りにつきました。

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