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私の過去:闘病生活とその中での気付き

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大病をしたころから現時点までのことを、ツラツラと書き起こしています。書き出すことで、今まで受け入れられなかった部分が受け入れられるかも…といった気持ちで書いています。
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#エッセイ

44.装具を外すとき

私は麻痺した足に装具を着けて歩いていました。 この記事にあるレベルの装具ではなかったにせよ、フラットな病院内の廊下ではなく凸凹、傾斜がある一般道では装具を装着しないと怪我をしてしまうため、外すことは叶いませんでした。 そうなると履く靴には限りがあります。 「装具 靴」で検索をすれば分かりますが、靴でのお洒落が出来なくなります。今現在は装具を装着していてもお洒落な靴を履けるように、当事者さんが開発して販売している靴はあります。けれど、当時は開発されてもいなく、私自身も当事

43.車いす生活から突然立ち上がって歩き出すと皆が驚く

翌日、車いす生活の人は病室で食事を取るのですが、歩行できる人はラウンジを兼ねた食堂に集まります。 昨日まで私は車いす生活をしていたことを入院患者の皆さんは知っているわけで、その私がスタスタと歩いて食堂に現れたことにドン引きされまして。 「あー、初めての入院じゃないことを知らない人が大半だった。」 この病院は、脳内出血等の脳障害を負った人が中心だから1日で車いす生活からの脱却は不可能なんですよね。 私も1度目の入院の時は、3か月かかって歩くことができ、食堂に1人で行くこ

37.退院、そしてまた大学病院へ入院

東北での治療は一旦終了したので、退院し地元に戻りました。 けれど、治療の甲斐がなく装具を外して歩いていると足の捻挫が頻発することが発覚、古傷の影響をモロに受けており、その傷を治療するために地元の大学病院を訪れました。 ⁂ 私が東北で受けていた治療自体、日本では当たり前のように周知されていた方法ではなかったので、例え町医者で大きなクリニックを構えていても対応することは難しいだろうと考え、結局大学病院でないと太刀打ちできないと判断されました。 古傷の方は足首の剥離骨折とじ

36.同期の卒業式

話が前後しますが、その年の3月に私の同期が卒業しました。 私の退院は5月なので、外泊許可をもらい一旦東北から戻りました。 我がままを聞いてもらって、同期と同じ卒業アルバムに掲載してもらいました。 やっぱり、途中で死ぬかもしれない病気になったことは、私にとっても同期たちにとっても強烈な印象を残しましたから。 他学科の友達らとは卒業してしまうとナカナカ会えるチャンスがなくなるので、卒業式への出席は切望しました。 大学側も病院側も快諾してもらえ、保護者席に座り、式を見学す

35.手術

麻痺した手足の筋肉に電極を埋め込む手術を受けました。 現在でいえばシックスパッドに代表されるEMS(神経筋電気刺激療法)に近いものとなります。 今は皮膚表面からの電気刺激で麻痺した筋肉をコントロールするリハビリがあるようですが、当時は体内の筋肉に直接細いコイルというか針金を埋め込み、肩に近い腕と太腿の真ん中から電気信号を送る機械に接続するコネクターが体表に出ているという形のものでした。 最終段階では、そのコネクターも体内に埋め込み、無線でコントロールを行う形を目指してい

31.2週間の教育実習

事前実習の後、てんかん発作が引き起こされたハプニングはありましたが、何とか無事に教育実習にこぎつけました。 ⁂ 流石は附属校の生徒、実習慣れしていることは想定内ですが、超進学校ということもあって、中学生の頃から東大・京大を目指す子が多くて、実習生の私たちがオドオドしてしまいました。 それでも私は体育の先生だったので、他の教科を教える学生に比べてプレッシャーは少なかったんですけどね。 ええ、当初通り、保健体育での卒業を目指しました。教養課程の単位は全て取得出来ていた、且

30.「がんばれ!」という言葉

この言葉はエールになる言葉だとは思います。 でも、時には残酷な言葉だとも思います。 頑張ることで達成可能なモノなら、いくらだって頑張れると思います。 でも、頑張っても達成不可能なモノの場合、これは無責任な言葉に変化します。 ⁂ 手術を行った病院にいた頃、大勢の人がお見舞いに来てくれました。 嬉しかったです。 でも、年配の方々が特に仰っていたのです「頑張ってね。」と。 あの頃は、リハビリをしても機能回復がどこまで出来るか未知数で、また、手足の重さに辛い思いをして

29.今思い出したこと

昨日のポストで救急車のことを書いていた部分を読み返していたら、ある出来事を思い出しました。それはリハビリ病院の退院時にさかのぼります。 ⁂ 退院した朝、両親が迎えに来てくれ父が運転する車に乗りました。 おもむろに父が「消防署に寄るから。」といい、自宅周辺を管轄している署に向かいました。 「何をするんだろう」と思ったのですが、消防署に到着後、父が署員のどなたかに声を掛け、署に残っていた方々が私たち家族の突然の訪問にも関わらず、快く受けてくださいました。 ⁂ 5,6人

26.同期と一緒には卒業できない

病気になった初期のころから、私は「同期たちと一緒に卒業をする」と決めて入院中からゼミに通ったりしていました。 でも、不可能だったんですよね。 1年、2年生の段階で9割がたの講義単位を取り終えていたので、あと1年半で卒業しようとすれば単位的には問題がありませんでした。 教育実習がネックだったのです。 私の所属していた学部は教育学部の教員養成課程だったので、当然卒業には教育実習が不可欠になります。しかも、その数年前から4年生の時に実習に行く制度が3年生、4年生と2期に分け

25.怪我をしても元に戻るよね

大学に復学して数日後、ある男子学生、女子学生(それぞれ同期)に声を掛けられました。 男子学生「膝のボルトを今度抜くんだよ。」 女子学生「膝のじん帯を切ってしまって装具状態、松葉状態。不自由な気持ち分かる。」 みんなスポーツばかりしていたから、怪我は付きもの。 私も、かっては怪我ばかりしていました。 でも、この身体になってからは「怪我は治れば元の身体に戻るよね、良いよね。」と浅ましく考えるようになってしまって。 怪我で再起不能になる人もいるから、そんなことを思っては

23.他人の視線は、時に無言の刃になる

病院にいる時には気づきませんでしたが、退院後、駅のホームに連れて行かれた時に感じたこと。。。 「他人の視線は時に無言の刃になる」 大都会のど真ん中で、若い子が装具を付けてスカート履いてエッチラ、オッチラと歩いていることが珍しかったのでしょう、老若男女、様々な人に頭のてっぺんから足先まで浴びせされた視線。 その視線は刃になって襲って来ました。 今は当時の私のような人も街でよく見かけるようになりましたが、あの頃は障害者の社会進出も今ほど進んでいなく、多くの障害者の方々は家

22.退院して先ず母が私を連れて行ったところ

退院した翌日、私は母に連れて行かれたところがあります。 私が住まいは、それなりに大きな都市で、交通網が発達しています。その都市のど真ん中にあるプラットホームに連れて行かれました。 お昼間でも沢山の人出でにぎわっているので、プラットホームも人・人・人。 そんな混雑したところに、私を連れて行った理由を母はこう言いました。 「これからラッシュの時間に電車に乗らないといけないから、昼間のここで慣れさせる。」 「都会に出ても自分を卑下しないで、お化粧してお洒落して歩こう。」

【不自由な身体を持つこと】19.歩くようになって装具を付けた

装具って知っていますか? 例えばスポーツで膝のじん帯を切ったり、アキレス腱を断裂したりする大けが等を負った場合、歩行をサポートするための器具です。 当然私のような病気になった人にも装具を付けて歩き、日常生活に戻れるよう訓練をしていきます。 多くの人は、上記のサイトにあるような大型の装具を付けています。また、装具に関しては上記サイトが詳しいので良ければお読みください。 私も作りました。でも、膝下までの長さではなく、足首までの、丁度足首のサポーター程度の長さのゴム製でした

18.障害者手帳を取得すること

病院のソーシャルワーカーから度々提案されていたこと。 「障害者手帳を取得した方が良い。」 病気になるまでの自分の印象が強くて、私自身は頭の中は「健常者」と思いこんでいました。 でも、世の中的には私は「障害者」なのですよ。 手帳を取るともれなく様々な恩恵が受けられます。 でも、障害者という烙印を背負うということ。 私の身体は徐々に機能回復傾向にはあるけれど、100%元の身体には戻りません。だから、この先の長い人生のことを考えれば手帳と取って、日本の福祉のお世話になる