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【連載小説】転送少女症候群、もしくは黍島柘十武の長い回想 #09




 大学に行っても、僕は、まるでうわの空でした。
 授業では、講師がいつもの真面目そうな顔で、この世の決まりを話し続けていました。それを真剣に聞いている学生がいました。食堂では、誰かが笑っていました。あちこちで何気ない会話が聞こえていました。皆が皆、当たり前の日常を生きていました。
 でも、僕の日常は、遊が引き裂いた。その裂け目からこの世の秘密が、暗い液体が、滝のように流れ出して、僕の身体を濡らしていました。
 日常はフィクションだった。それが単なるフィクションだったとして、僕はまだ、そのフィクションが持つ重みを知りませんでした。
 若かった。愚かだった。
 確かに世界の多くは、大きなフィクションに過ぎないのかもしれない。でも、そこに積み重ねられた、時間や、人の想いや、その数や、流されてきた血を、僕はまだ見通すことができなかった。
 この日常が、都合良く作られた誰かの創作に過ぎないということがわかったことで、僕はそれをニセモノだと感じ、無価値なものだと、断じかけていました。
……いや、元々そう思いたかったのかも知れない。
 遊はそんな時にタイミング良く現れただけなのかもしれない。
 でも、本当に、僕が生きているこの世界が、まるで空虚なハリボテのように見えて仕方が無かった。もしかしたら、それは、誰も知らない秘密に触れている特権意識、そんなようなものだったかも知れません。

 そして、ここ数日おなじみの、彼女が現れました。
 志伊理美。
 彼女は構内のベンチに座っていた僕の隣にそっと静かに腰を下ろしました。僕は、反射的に会釈はしましたが、それ以上話しかけようとは思いませんでした。彼女も、そう思っていたのかも知れない。俯いたまま、動きませんでした。
 でも、僕にとって、それはもうどうでも良いことでした。彼女が、どう演技しようと、それは大きなハリボテの中の、取るに足らないできごとでした。僕は、転送を実際に見ることで、遊の文脈に暴力的に引き込まれて、志伊理美のシナリオから、引き剥がされていたんだと思います。
 どのくらい経ったでしょう。志伊理美はぽつりと言いました。
「君、変わったね」
 ん? と顔を上げて彼女の顔を見ました。それでも彼女は俯いたまま言いました。
「わたしと同じになった」
 ふ、と鼻で笑うと、違うか、と彼女は言い直しました。
「昨日までわたしと同じだったのに、今日はもっと、何か、こう……」
 僕は、昨日まで彼女と自分の何がが同じだったのか、今日がもっと何なのか、言おうとしていることの意味が全くわかりませんでした。
 彼女は、昨日何があったのかなあ、と独り言のように呟くと、すっと立ち上がり、僕に背中を向けました。
「見えるんでしょう?」
「……」
「この世界のくだらなさが」
「……」
「ひとというものの愚かさが」
 僕は、何も応えられませんでした。
 それは後になって思うと、随分思い上がった言葉です。芝居だとしても、ありふれた陳腐なセリフです。
 でも、その時に限って言えば、彼女の言葉に同調してしまう部分があったことは間違いありません。僕はその背中をじっと見詰めていました。
「わたしたちはきっとわかり合える。そうしなきゃいけない。じゃないと……」
「……じゃないと?」
「……永遠に、孤独」
 彼女は立ち去ろうとしました。僕は、思わず、三つ目のお願いって? と訊いてしまいました。彼女は、軽く手を上げ、去って行きました。
 僕は彼女が一体何を望んでいるのか、わかりませんでした。でも、その「わからなさ」を僕に遺すことが、彼女の望みなのかもしれないと感じました。多分、氷井なら、そう言うだろうと思いました。そうして、僕を真剣にすることで、彼女にとって扱いやすく加工したのだろう、と。
 全てのひとに言えることではないかもしれませんが、人間、真剣になった時、その時こそ、一番危険な時です。今だから言えることです。僕は、真剣でした。他のことをもう考えられませんでした。
 そう、遊の物語のことしか。

 帰りの電車の中で、僕は遊が今夜どんな話をするのだろう、とぼんやり考えていました。
 傷に触れると遊は言いました。遊が、その傷を言葉にすれば、僕も、それに触れることになる。もう無責任ではいられないような気がしました。
 それにしても、と僕は苦笑しました。それに気付いて、慌てて顔を隠すように俯きました。それにしても、たった一度、それもほんの少しの「転送」があっただけで、それまで嘘にしか聞こえなかったものが、僕の中で、いきなり本当になってしまった。聴く価値のある真実の塊に。
 都合の良いものだな、と思ったんです。人間の心というものは。
 その時の僕は、それが何かのトリックとすら思いませんでした。
 例えば、こんなトリックはどうでしょう。
 長い話の中に、何か催眠術的な仕掛けが施されていたとしたら? 僕が決まって食べるカップラーメンの中に、幻覚を誘発する薬剤が忍ばせてあったなら? 長い話に疲れた僕が、ある種の変性状態に陥って勝手に見間違えただけだったとしたら? もっと単純に、ほんのちょっとうたた寝をしただけだったとしたら?
 でも、そんなことも考えられないほど、アレは、現実でした。それを幻覚や夢の類のものだとは思えないほど、ハッキリと見たんです。
 そしてたった一つ、実証を得ただけで、僕の見方が全て変わる。
 いや、僕が訓練された科学者なら、そういうこともなかったかもしれませんが、僕は、凡庸な、経験の浅い、若者の一人にすぎませんでした。
 だから、すぐに結論してしまうんです。心というのは、都合良くて、容易い。恐ろしい事ですけど、滑稽なものです。そんな滑稽さが、僕を笑わせたのです。
 そして、ふと顔を上げました。サラリーマン風の男と目が合いました。相手は、まあ、普通のことですけど、すっと目を逸らしました。
 何も感じませんでした。その時、その瞬間は。
 少し、向かいの窓に流れる街の風景に目を遣りながら、ぼうっとしていました。ん? と思いました。視線を感じました。反射的に、その方向に目を向けました。さっきのサラリーマンが、すっと顔を動かしました。見てた? 自分がにやついていたことが、注目を集めたのかと、瞬間的に思いました。
 何気なく周りの乗客を見回しました。当たり前の電車内の風景で、それぞれが別々に、目を瞑ったり、本を読んだり、車内広告に目を遣ったりしていました。
 もう一度さっきのサラリーマンを見ました。今度は彼は素知らぬ風に視線を床に落としていました。気のせいか、と納得して、僕も床に目を落としました。
 そこに、笑い声がしました。若い女の子数人のものでした。僕が何気なくそちらを見ると、彼女たちの一人と目が合いました。ほんのちょっとのことです。彼女は、笑顔のまま、仲間に顔を向けると、噴き出すように、また笑いました。あ、やっぱり、僕のことを笑ったのだろうか、と不安になりました。
 僕は、無理矢理無表情を作ると、少し恥ずかしく思いながら、駅までの間を俯いていました。駅に着き、僕は降り、改札を抜け、部屋へと歩き始めました。
 しばらく歩いた後、僕は何か違和感を感じました。なんとなく振り返りました。少し後ろに、さっきのサラリーマンがいました。視線を道に落としながら、歩いていました。
 それが、何も起きていない平時のことなら、たまたま同じ方向なのだろうと結論できたのかもしれません。現に、その瞬間は、取り立てて不審にも思いませんでした。だからすぐに前を向き部屋への坂道を上り続けました。
 でも、違和感が消えませんでした。
 角を曲がり、また、僕は振り向きました。彼は、同じ角で、僕と同じように曲がって来ました。
 急激に不安になりました。もしかしたら、僕はつけられているんじゃないか? そう思ったんです。
 もう一度振り返っても、彼はやはり僕と同じ道を歩いていました。やっぱりつけられてる!? 疑問と確信がないまぜになって、僕の心臓を高鳴らせていきました。
 振り返ることができなくなりました。僕は急ぎ足になりました。でも、その気配は確実に僕を追ってくるような気がしました。
 もしかしたら……もしかしたら、遊を追っている『連中』なのではないか……。すっと汗が引くような冷たさが背中を走りました。
 遊は『連中』にケンカを売った。それで、『連中』は必死で遊を探しているのではないか。聞き込みをして、僕の特徴を掴んだ彼らは、僕が遊のいるところへ行こうとするのを追っているのではないか――少々論理性には欠けますが、そんな直感が僕の身体を硬くしました。
 僕は最大限の努力で、平然とした態度を保ち歩き続けました。やはり、気配は消えませんでした。そして、僕は次の角を、部屋とは違う方向へ曲がり、思い切り駆け出しました。そして、すぐまた次の角で曲がり、民家の塀の陰に隠れるように背中を預け、そっと今来た方向を覗きました。サラリーマンが、角まで来て、左右を見て、少し迷った風に、僕とは反対方向へと歩いて行きました。その様子は、僕を追ってきたとも、そうでないとも言えるように見えました。
 でも、とりあえず、僕はほっとしました。そして、彼とはもう出会わないようにと逆方向、つまり駅の方向へ一旦遠回りしてから、帰ろうと思いました。一歩歩く度緊張はほどけていきました。
 何故だか、可笑しくなりました。おいおい、もし、僕が尾行されてるくらいなら、とっくに向こうは遊の居場所だってわかってる、考えすぎだ――そんな風に僕は自分を笑いました。
 そして、僕は、ある角に出ました。身が竦みました。
 そこに、さっき電車で僕を笑った若い女の子がいたんです。彼女は僕の顔を見ました。僕はその視線に心臓を刺されたような想いがしました。
 叫び出したくなるのを必死で堪えて、彼女が一体どこに向かうのかすら確認せず、僕は駆け出しました。身体が恐怖で、勝手にそうするのを、僕は止められなかった。
 尾行されてる、尾行されてる、やばい、尾行されてる、そんな言葉が、思考より先に、僕の脳みそにあふれかえりました。
 ある日突然自殺したことにされるならまだ良い方で、生きながらこの世の地獄に落とされるかもしれない――遊のそんな言葉も、頭の何処かから聞こえました。
 僕は、恐ろしかった。この世の決まりなんて、通用しない連中がいる。僕は、そんなものと戦うことなんてできない。知らない方がいい――確かに遊が言ったことは正しかったのかもしれない。そう後悔したところで遅かった。僕はもう知ってしまった。
 そこにある種のヒーロー願望というか、ヒーロー気取りな自分がいなかったと言えば、嘘になるでしょう。僕は恐怖でどうしようもなくなっていながら、同時に、そんな特別な自分に酔っていたに違いないんです。
 まあ、そんなことを思いつつ、足がもつれそうになりながらも、駅に着くまで走ることをやめられませんでした。そこには、人びとがいました。いかにこの世の決まりが通用しない連中でもそんな人びとの前で僕をどうこうすることなんてできないだろうと安堵しました。
 すぐに、『連中』の魔の手が伸びつつあるかもしれないことを遊に伝えなきゃいけないと思いました。僕は、通報しようと葛藤したのと同じ公衆電話の前に立ち、少し息を整えてから、受話器を持ちました。
 そして部屋の番号を押しかけたその瞬間、誰かが僕の肩に手を置きました。ビクっと身体が竦み、背中が凍り、心臓が一度、破裂して止まりそうに鳴りました。錆びて軋んだ蝶番みたいにギシギシなりそうな首を動かして、僕は顔をぎこちなくそちらへ向けました。呆れた様なけだるい笑みがそこにありました。
「よう」氷井はそう言いました。
 僕の安堵のため息は震えました。なんだよ、それ、と氷井は鼻で笑いました。僕は、何ですか? と訊き返しました。
「いや、まあ……」
「何ですか? もう、僕は志伊さんのことはなんとも思ってませんよ。僕にはそんな魅力ないです。あなたの言う通りです」
「……うん」
「あ……すみません」
「ん?」
「いや、もしかして、部屋、このあたりなんですか」
「うん……いや……そういうんでもなくてさ」
「え?」
「護衛してくれって言ったじゃん?」
「……あ、ええ……でも、それは、もう」
「いや、俺、志伊のことしか考えてなかったからさ」
「はあ」
「もしかしたら、本当に、何かに追われてるとか、そういうことでもあったかもって、今になって思ってさ」
「ええ」
「あ、そうなの?」
「あ……いえ、そういうわけでも……」
「あ、そう」
「……そうです」
「……」
「……」
「っああっ……!」
「は?」
「ったく!」
「なんなんですか?」
「何でもねえよ」
 じゃな、と氷井は手を上げて、背中を向けました。
 彼が改札に消えるのを見届けることもせずに、僕は慌てて、また受話器を持ち上げました。今度は、部屋の電話番号を押し切ることができました。何度目かのコールで留守番電話に録音された自分の声が聞こえました。僕は、遊、僕だ、ツトムだ、電話に出ろ、と叫びました。メッセージが途切れました。
「何? ツトム」といつもの調子のいつもの声がしました。
「遊、僕、もしかしたら、つけられたかもしれない」
「ん?」
「『連中』だよ。お前の話に出て来た」
「ああ」
「そこはもうアブナイかもしれない」
「……いや、大丈夫」
「あ?」
「『連中』なら、ツトムに気付かれるようなヘタな尾行はしないよ」
「は?」
「警察、ってことももしかしたらあるかもしれないけどね。でもそれなら『安全』だ。比較的。少なくともわたしたちを殺したりはしない」
「でも――」
「大丈夫、ツトム。君がこういうことに不慣れなのはわかってるけど、大丈夫、安心して。今、どこ?」
「駅」
「じゃあ、すぐだね。待ってるよ」
「お前、そんな平然と……」
「いいから、早く帰っておいで。昨日の続きをしよう」
 ふふん、と笑うと遊は電話を切りました。僕は釈然とせずに受話器を置きました。遊の何てこともなさそうな声を聞いても、僕の緊張と恐怖は消えませんでした。
 でも、とりあえず、部屋に戻るしかなさそうでした。何気なく振り返ると、そこに、まだ氷井がいました。少し視線をそらして、彼は訊きました。
「『連中』って誰?」
「……い、いえ」
「つけられてるの?」
「……いえ」
「ユウってカノジョ?」
「いえ……聞いてたんですか?」
「人聞きの悪い。聞こえたんだよ。君、大声だったぜ?」
 氷井はそれまでもそうでしたが、けだるげな態度で、少し顎に手を遣ると、何かを考えるように首を傾げました。そして、少し皮肉っぽく笑うと、案外、君も、かもな、と呟きました。は? と問い返すと、いや、なんでもない、気にするな、と氷井は眉を上げ、僕の目を覗き込みました。
 何故か、彼の存在が頼もしく感じました。そのくらい僕は心細かった。
 そんな僕の心を読んだかのように、護衛、しようか? と氷井は言いました。僕は、本当に、つい、頷いてしまいました。
 僕は、それでも、尾行されていないかどうか、時折振り返りながら、歩きました。氷井はそんな僕の様子も気にならないようでした。その普通の態度に少しいらつきましたが、仕方無い、この人は何も知らない、と僕は自分に言い聞かせました。どちらにせよ、うわの空気味であったことは間違いありませんが、氷井とは道々こんな話をしました。
「君さ」
「はい」
「嫌がらないね」
「はい?」
「あんなことされてさ」
「は?」
「だから、キスされてさ」
「……あ、はい」
「どうして?」
「……いえ……わかりません」
「そう」
「……そうです」
「うん」
「ええ」
「昔、さ」
「はい」
「凄く好きだったひとがいてさ」
「……サークルのひとですか」
「いや、もっとずっと前」
「はい」
「凄く、凄く、好きでさ」
「はい」
「どうしても触れたくて」
「はい」
「キスしたくて」
「はい」
「一応、親友だったから」
「はい」
「一緒に雑魚寝することもあって」
「はい」
「そいつの寝顔見てたらさ、もう、どうしても我慢できなくなって」
「はい」
「キス、したんだ」
「はい」
「でも、その途中で、そいつの目が覚めてさ」
「はい」
「まあ、怒るとかは無かったんだけど」
「はい」
「でも、もう二度と一緒につるんでくれなくなった」
「はい」
「本当は、同じ趣味のひとが集まる所に行けばいいんだろうけど」
「はい」
「でも、俺が欲しいのは、そういうのとちょっと違う」
「はい」
「こういう人間だからと言って、誰とでもって訳でもないんだ」
「はい」
「だから、俺の恋は、いつも、大体、そんな感じ」
「はい」
「傷つけて、傷ついて、終わり」
「はい」
「でも」
「はい」
「君は、違うな」
「は?」
「君は、俺を避けない」
 氷井が僕を見詰めていました。僕は気もそぞろで、目を合わせた訳じゃないですけど、それでも判るくらい氷井の視線は強く注がれていました。僕は言いました。
「でも僕には魅力はない、あなたがそう言った」
「ん」
「……誰とでも良いってわけじゃないんでしょ?」
「うん、その通りだ」
 ははは、と可笑しそうに氷井は笑いました。僕も、おつきあいで、笑いました。
 そして、しばらく沈黙すると、もう一度、呟くように、誰とでも良いってわけじゃない、と彼は言いました。僕がその意味を了解するまで、あとしばらくかかることになるんですが、その時は、そこまでで部屋の前につきました。
 僕たちはなんとなく見つめ合いました。
「今日はお茶を提案してくれないのか?」と氷井は言いました。
「……すみません」と僕は応えました。
 ここまでで結構です、ありがとうございました、と頭を下げて僕は背中を向けました。
 我ながら、尾行を警戒しているとは思えないくらい不注意でした。僕が扉を開けて部屋に入ろうとしたとき、不意に身体を覆うものがありました。
 氷井でした。
 彼は抱きかかえるように素早く僕を部屋の中へ押し入れると、そのまま自分も狭い玄関へと上がり込み、僕を壁に押しつけ、そして、再び僕の唇を奪いました。今度は、舌が、ぼくの舌に触れました。
 軽いパニックになっていたのか、瞬間的に、「捕食」されてしまったことに全てを諦めてしまっていたのか、わかりません。
 その僕の口の中を、何かを探し求めるように動くものに逆らえませんでした。でも、すぐに、そこに遊がいることを思い出しました。横目で、部屋の中を見ました。確かに遊はそこにいて、僕を見詰め返していました。ちょっと呆けたような驚きの表情で。でも、それは一瞬のことでした。
 氷井の手が、僕の身体をまさぐり、臍の下へと動いていきました。僕は慌ててそれを抑えました。それでも構わず、氷井の唇は耳元へと動き耳朶を味わうように舌が動きました。
「ちょ、ちょっと待って」
「……」
「やめて」
 そんなことを言っても、氷井の手は何かを確信しているかのように、僕のその部分をめざしていました。僕は、とにかく、それを止めなければならないと、叫びました。
「遊、助けて! 氷井さん、ひとがいます!」
 少し、彼の力は緩みました。そして、すっと横目で部屋の中を見ると、誰も、いないじゃん、と呟きました。
 え? と思い、僕も彼の手を防ぎながら、部屋を見ました。
 いませんでした。「転送」? 僕は少し呆然としました。
 その間にも彼の手は僕のベルトを容易く外し、ジッパーを下ろし、トランクスのゴムをすり抜けて行きました。まるで慣れた手品師の所行でした。いいか、君は無理矢理されたんだ、誰かに訊かれるようなことがあったら、そう言えば良い……そんな声がしました。指が、僕の最も敏感な部分に触れました。もう何も彼は言いませんでした。だって、また唇を塞いでたんですから。でも、彼の手は動き続けていました。まるで自分でしている時のように、それは僕の全てを知っていました。
 僕は、彼の言っていた言葉を思い出しました。気持ち良いのは女だけじゃないって。僕はそのままトランクスの中に、全てを放出させられました。
 膝がその場にかくんと落ちました。彼はそれを見下ろすと、何も言わず、出て行きました。
 僕のその時の気持ち? 言わせないでください。でも、誰もいない部屋で、僕は、パンツ替えなきゃ、と呟くしかありませんでした。

<#09終わり、#10に続く


 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2016年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版と大筋において変更はありません。

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