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【連載小説】転送少女症候群、もしくは黍島柘十武の長い回想 #13




「仕事にはインターバルが置かれた。立て続けに重要人物が死ぬのはおかしいからね。
 わたしは、変わらずお姫様扱いだった。
 しらじらしかった。彼らがその優しさの裏に獰猛で残酷な本性を隠しているのが、わかっていたから。
 でも、そういう生活は、とても甘かった。わたしはそういうものに逆らえないように仕上げられていた。
 悲劇のお姫様気取りだった。今のわたしにはそうとしか思えない。
 ふと、彼のことを忘れることもあった。
 忘れていることの方が多かった!
 それが許せなかった。でも、どうしようもなかった。
 わたしは時折地下へ降りる扉の前に立った。でもノブを回そうとすると、そこには鍵が掛けられていた。わたしの能力はほぼ完全に把握されたんだ、と思った。わたしは、リードをかけられた犬だって。自分では何もできない。わたしはそのドアの前でただ膝を抱えて座ってたよ。
 そんなある日だった。
 ミナが、わたしの前に立った。そして、わたしを見詰めて、いたずらっぽくニコッと笑った。そんな笑顔が消えた。いや、ミナ全部が消えた。『転送』だった。
 わたしは初めて、その瞬間を見た。少し呆けてしまったよ。そして、狼狽した。
 わたしは、慌てて部屋に戻った。扉を開けると、そこにミナがいた。
 スゴイでしょ? ってミナはわたしの首に抱きついて、こう囁いた。ねえ、ユウちゃん、わたし、コントロールできるようになったのよ、これ、どういうことかわかる? わたしは、ここで一番えらくなったの、誰も、ミツウラもわたしに逆らえない、わたしは女王様になったのよ……そこまで言うと、ミナは、部屋の監視カメラに顔をばっと向け、わかった? と叫びました。当然、返答は無かったけど、それは間違い無く『連中』に伝わってたと思う。
 女王の、宣誓式だった。
 ミナは踊るようにわたしの部屋の中を歩きながら、こんなことを楽しそうに言った。
 わたしはもう何にも縛られない、誰にも命令されない、好きなように生きて、欲しいものは何でも手に入れるの、ミツウラたちはそれを聞くしかないのよ、だって、いつわたしがどこに現れて、どんないたずらするかわからないでしょ? 『任務』? ばかばかしい、でも、時々ならしてあげてもいいわ、退屈したらね、でもその時には、ミツウラのババアを裸にして頭を踏みつけてから行く事にする、ユウちゃんにもさせてあげる、で、それにも飽きたら、ここを出ましょう? 二人だけで、ねえ、わかるでしょ、ユウちゃんとわたし、二人だけよ、そう、わたしはまだここにいるわ、いてあげるわ、だって、ユウちゃんはまだこんなことできないから、わたし、ユウちゃんができるようになるまで、待っててあげる、全部ユウちゃんのため、本当よ、ユウちゃんのためだけに、わたしはここにいるの、我慢するのよ、ユウちゃんのためだけによ、そう、だから、教えてあげるわ、どうやってコントロールするか、だってユウちゃんもわたしに色々教えてくれたもの……。
 わたしは何も応えられなかった。まさか、ここを出たくないわけじゃないでしょ? とミナは眉を上げた。これも返答できなかった。
 でも、ミナは、そうよね、こんな作り物のハリボテ、わたしには何の価値も無い、欲しいものなんて何もない、ユウちゃんがいればそれでいいの、まさか、ユウちゃんも本気で甘やかされてたわけじゃないでしょ? と笑った。
 欲しいものを何でも手に入れると言いながら、欲しいものは何も無いなんて言う、その矛盾を指摘することもできなかった。
 ミナはすぐに表情を落として、わたしの前に立った。愛してる、そう言ったよ。でも、それにもわたしは何も言えなかった。
 そんなわたしの表情を見て、少し片眉をしかめると、ミナは声を潜めるように、助けたいんでしょう? あの男の子、と言って、ベッドに座った。
 その目が命令していた。言葉にすれば相反し矛盾するような想いが幾つも頭に浮かんだ。
 でも、それらが総体としてわたしに取らせた行動は、彼女にただ従うことだけだった。
 日々は過ぎた。インターバルは続いていた。でも、その『檻』はいまやミナの城だった。
 もちろん、そんなミナへの対応策は練られていたんだろうけど、誰もが下僕の振るまいを要求され、見かけ上だけかもしれないけど、それに従っていた。
 わたしも、だよ。
『眠れないの』なんて婉曲な表現はもう使われなかった。彼女の思うままに、わたしは舌を伸ばし続けた。でも、それしか、あの男の子を救う方法を思いつかなかった。この気まぐれな女王による恩赦が発令されるのをね。
 もしくは、わたしもコントロールできるようになるしかないような気がした。だけど、教えてあげると言ったミナは、いざ肝心なところになると上手く説明できなかった。もしかしたら、しなかっただけかもしれない。それはわからない。
 だーかーらー、ぱーっとやって、ギューッてやって、フっって感じだよ、みたいなね。
 いや大体、才能ってのは、他人には教えてやれないもんだよ。わたしにはそんな才能は無かった。
 相変わらず、恋しかなさそうだった。彼を文字通り傷つけてしまう恋しかなかった。
 しばらくして、食事の時、ミツウラがミナに頭を下げた。よろしければ、ひとつ仕事をしていただきたいのですが、って。嫌っ、そうミナは首を振った。ミツウラは慇懃な態度で、でも引き下がらなかった。
 この施設は、有志の皆様のご厚意の寄付で成り立っています、ご厚意とは言え、何某かの継続した成果を示すことが必要です、でなければミナ様に、お食事も、お洋服も差し上げられなくなります――。
 ミナは不愉快そうに顔を顰めた。わたしは横で見ていて、なんて都合の良い奴だろうと思った。ここを出たいんじゃなかったのか、って。
 でも、その都合良さは、わたしの中にもあった。ここを放り出されたら、どうしていいかわからなかった。だからこそ、わたしはミナのそんなところが見えたのかもしれない。
 少し、ミナは考えた。そして、何か良いことを思いついたように、ぱっと笑うと、それじゃあ、と小さな足を前に出した。わかるでしょ? って。
 ミツウラは、ひとつ小さなため息をついた。そして、這いつくばって、ミナの靴を舐めた。それを楽しそうに見ていたミナは、段々不機嫌そうな顔になっていって、ぎゅっと唇を噛みしめると、その靴の底でミツウラの顔をぐりぐりと踏みにじり、最後に蹴り飛ばした。
 ミツウラは、平然としていたよ。少なくともわたしにはそう見えた。何も無かったかのように立ち上がると、ミツウラはまた頭を下げた。
 それに目も向けずに、ミナは、じゃあ、ユウちゃんにやってもらって、と言い捨てた。
 そこで、少しミツウラが慌てたように見えた。しかし、ユウの能力では計画が――と言いかけたその言葉を、それを考えるのがあなたの『任務』でしょ? と怒鳴りつけた。ミツウラは、はい、かしこまりました、とまた頭を下げた。
 不愉快そうに立ち上がったミナは、少し目を瞑り呼吸をした。そして、それから、わたしの大事なモノを呼び捨てにするな、下僕、と言い残して消えた。はい、申し訳ございません、かしこまりました、ミツウラはとうにいなくなっていたミナに対してそんな風にみたび頭を下げた。そして、顔を上げると、ユウ様、そういうわけですので、お手を煩わせることになりますが、よろしくお願いいたします、それで、この後少々お時間をいただきたいのですが、と言った。
 声の微かな慄えを感じたのは、気のせいじゃなかったと、思う。
 車に乗るのはあのとき以来だった。大体わたしが車に乗せられるときは、ろくでもないことの前後だ。あまり良い予感はしなかった。
 後部座席に並んで座ったミツウラは、視線だけ外に向けていたよ。わたしも何を話していいのかわからなかった。まさか、アレが化け物になるとはね、と誰へでも無く呟いたミツウラは、少し身体をわたしに向けた。
 プランが三つあるわ、そう言った。ひとつは、あくまでもミナにやらせること、ふたつめは、あの子の言う通り、あなたが代わりに行くこと、でもこれはとても難しい、元々ミナ向けに作った計画にどうしても狙って飛ばなきゃいけない部分があるから、これはどんなに脅してもあなたにはできない、相手が変態だったら、どうにでもしてやるのに……ミツウラはそういうとわたしの手に自分の手をのせた。
 そして、ねえ、あなた、ミナを説得してくれないかしら? となにげなく言った。わたしは、できないよ、たぶん、と応えた。握られた手に痛みが走った。
 わたしたちはもう戻れないのよ、別の計画を立てるには時間がかかる、年単位で、そうすれば状況が変わってしまう、わたしたちはこんなことをしていられなくなる、またどこかに深く潜らなければならなくなる、けれど、わたしたちがここまで来るのに幾ら掛かったと思う? いえ、金は良いわ、どうせろくでもない金よ、でも、何年かかったと思う? そして、再びコレを再構築するのに何年? その時、同じ好機が起こる可能性は? それまであなたたちの能力が続くという保障は? 今を逃すことはできないのよ、絶対に――ミツウラは、感情を滲ませた。
 彼女らしからぬ焦りを、ね。
 でも、それに自分でも気付いたのか、慌てて表情を柔らかなものに変えると座席に深く凭れた。
 そうね、約束をしたわね、とミツウラはわたしを見た。彼を解放してあげる――。わたしの身体が、その言葉に反応して、ミツウラを向いた。ミナをその気にさせてくれるわよね? と問われた。
 そうするしかない、と思った。瞬間的に。直感的に。
 頷いたわけじゃないけど、ミツウラはわたしの頭の中を読み取ったみたいに、あなたは特別だわ、と微笑んだ。
『檻』に戻り、車を降りたとき、わたしはふと思い出して訊いた。みっつめのプランって? って。ミツウラは、あなたがうまくやったら、必要ないことよ、と応えた。わたしはミツウラが何を意図していたかわからなかったけど、そんなことは、すぐにどうでもよくなった。
 わたしは考えた。でも、どうやってミナを動かすか、全く見当がつかなかった。ミナはわたしに、愛してる、と何度も言ったけど、そんな深いものを、その態度から感じることはできなかったから。わたしはただお気に入りの玩具だった。それにしか過ぎなかった。
 でも、もう言ってみるしかなかったよ、ストレートに。
 ミナは無表情だった。何の返答もなかった。ただ目だけで命令していた。わたしはそれを読み取らなきゃいけなかった。いつものように、わたしはひざまずいて舌を伸ばそうとした。それをミナは鼻で笑った。
 でも、わたしにできることなんて、それしかなかった。
 更に、近づこうとしたわたしの頬をミナが強く打った。わたしは、縋るようにしがみつきながら、お願い、と何度も叫んだ。その度にビンタが飛んだ。
 何度も、何度も、何度も、何度も。
 痛みなんて、感じなかった。
 わたしは、悲劇のヒロインだった。そんなものになっていることに、無自覚だった。
 酔っていた。
“このくらい、彼の苦痛に比べたら、彼を救えることができるなら、なんてことない――”。
 ミナがその力を込めるほど、わたしは、そんな物語に陶酔できた。最後に蹴り飛ばされて、横になったわたしを、ミナは冷たい目で見下ろした。
 ミツウラのお願いなんでしょ? と言った。わたしは返答できなかった。こんなにユウちゃんのことが好きなわたしのキモチなんかより、ミツウラのお願いの方が、ユウちゃんは大事なんだ? やっぱり応えられないわたしの目を、ふうん、とミナは覗き込んだ。そして、口元だけで笑うと、こう言った。
 もう、飽きた。
 そしてミナは、あの指輪を外して、すうっと息をした。そして、それをぽとりと床に落とすと、そのまま消えた。
 何故か、猛烈に嫌な予感がした。わたしはその部屋を慌てて飛び出し駆けた。追わなきゃいけない、と思った。
 まあ、追えるわけもないんだけど。
 建物の部屋の扉という扉を開けた。いくつかの部屋で、見慣れたオトナたちが倒れていた。確認するまでもなく、死んでいたし、推理する必要もなく、ミナのしわざだとわかった。
 ねえ、わたしたちは、転送して任務を確実に遂行する犬じゃなきゃならなかった。そんな風に訓練された。そういうことに支障を出さないために、ある種の薬も使われなかった。だからこそ、わたしたちを縛るために、ここは天国のように仕組まれていた。
 でも、全部裏目に出た。
 後悔しただろうね。そこにいたオトナたちは。そんな暇があったかどうかもわからないけど。
 悪い予感の通り、その日そこにいたオトナたちの殆どの死体を見つけたよ。ミツウラ以外のね。
 わたしはミツウラのオフィスに走った。いたよ、二人が。
 ミツウラは、ミナに押さえ込まれていた。遅いわ、とミナは言った。やめて、と声が出た。あら、庇うんだ? とミナは笑ったよ。もう一度、やめて、と言った。
 この女は、簡単には殺さない、じっくり痛めつけようと思ってたの、ミナはそういうと、多分、厨房で手に入れただろう包丁の刃を、ミツウラの首筋に当てた。やめなさい、とわたしの声は低くなった。どうして? ユウちゃんだって、この女に酷いことされたじゃない? こんなトコにつれてこられて、閉じ込められて、やりたくもないことさせられて、この女が憎くない? それともわたしとなんかよりキモチ良かった?
 わたしは応えられなかった。
 ただ、はっきりわかったのは、わたしと、ミナは、全く別の人間であるということだけだった。
 違う思惑でもって、生きていたんだということだけだった。
 そんなわたしたちの会話を抑えつけられながら聞いていたミツウラが、く、と笑った。何? とミナが冷たい視線を落とした。まったく、これだからガキは、とミツウラは言った。ミナが、そのガキのけつの穴舐めてたのは誰だよ、と応えた。また、くくく、とミツウラは笑った。その横っ面をミナは包丁の柄で殴りつけた。一瞬、声が掠れたけど、それでもミツウラは笑い続けた。眉をしかめたミナは、そんな薄気味悪い笑いが止まるまで、ミツウラを殴りつけた。
 それでも、ミツウラは、ねえ、ユウ、と言った。何? とわたしは応えた。あなたは世界とうまくやれないの、ここを出ても、あなたは行くところが無い、だから、わたしが守る、そう言ったわよね? とミツウラは言った。わたしは、はい、と応えた。これからも、守ってあげる、心配しないで、今までのように、優しくしてあげる、そう、約束したわね、彼を解放してあげる、だから……だから、ミナを殺しなさいっ!
 ミナがそれを聞いて、鼻で笑った。ユウちゃんにわたしを殺せるはずないじゃない? 馬鹿じゃないの? だって、こんなこともできないのよ、ミナは体勢を変え、ミツウラの脚の腱に渾身で刃を突き立てた。ぶつん、ぶつん、って嫌な音がしたような気がした。
 でも、ミツウラって女は、スゴイよ。初めてそう思った。わたしは見てるだけで、悲鳴を上げてしまったけど、ミツウラは唇を噛みしめて、うめき一つ上げなかった。
 そのミツウラの上から、ミナは立ち上がった。そして、わたしに向き直り、その手に持った包丁を突き出した。動けずにいると、ミナは言った。
 ユウちゃんが殺して。
 え? と言うしかなかった。ミナは腹を立てた子供みたいに床を踏みつけるようにしてわたしに近づくと、その血のついた包丁をわたしに押しつけた。わたしは、それを受け取って、でも、動けなかった。ミナが耳元で囁いた。ねえ、わたしはユウちゃんが一番大事、これも全部ユウちゃんのため、ねえ、この女を殺すことができたら、これからはわたしがユウちゃんを守ってあげる、だから、一緒に出ましょう? 二人だけで生きていきましょうよ――。
 悪魔が囁いていた。わたしの弱さを量りながら。
 わたしは首を横に振った。それがただの反射運動みたいなものに過ぎないと見透かしたかのように、ミナはまた言った。
 ねえ、地下にはもう一人、いるわよね?
 それは、明らかに脅しだった。わたしがミツウラを殺さなければ、次は彼を殺すと言外に伝えてきた。『課題』でも、『ゲーム』でも、『任務』でもない緊張が、わたしの身体を震わせた。
 でも、脚が勝手に動いた。一歩、一歩、葛藤を踏みしめるように。わたしはその身体を跨ぐように、ミツウラを見下ろした。
『さあ』、天使のような少女の声がした。わたしは包丁を振り上げた。ミツウラは、また、く、と笑った。ガキは本当に馬鹿ね、自分たちが何にケンカを売ったのか、わからないんだか……そこまでしか言わせなかった。
 ただ嫌な感触がした。世界が、粘度の高い液体に浸ったような気がした。
 そんな液体の中で、微かな笑い声が響いた。
 結局、ユウちゃんは、わたしのためには何もしてくれなかった。そう声がした。
 こんな時に、こんなことをさせておいて何を言ってるんだろう、と思った。わたしは冷静を保っていたつもりだったけど、実は興奮状態にあったのかもしれない。ものすごい怒りがわき上がった。でも、声はぐっと低く沈み込んで、何も? と出て行った。
 だって、それだって、あの男の子を救うためじゃないか、そう脅したからしたんじゃないか! とミナは呟いた。それまで、ミツウラの背中に刺さった包丁から動かせなかった視線を、ミナに向けた。
 ミナは、泣いていた。泣きながら、言った。
 わたしのためじゃない、あの子のために、自分の世界を壊したんでしょう?
 何を言っているかわからなかった。そのままを、言った。
 わたしは独り、ずっと、ずっと独り……ミナのそんな少女趣味な言葉にわたしは苛立った。
 多分、そんなものが、自分にもあるのが許せなかった。
 もう一度、ミナは、わたしのためじゃない、と呟いて、大きく息を吸った。やばい、と直感した。身体は動いたよ。手を伸ばした。でも、届かなかった。最後にミナが叫んだ、自分のためじゃないかっ! という言葉だけが、空振りした掌の中にあった。
 でも、そんな失敗を噛みしめる余裕は無かった。ミツウラの死体のポケットから、鍵の束を取り出した。間違い無くそれが必要な場所にミナは飛んだはずだから。部屋を出、階段を飛び降り、廊下を駆け抜けて、わたしはその扉の前に立った。
 地下への階段。どの鍵かわからなかった。何度か挿し直すことになったけど、わたしはその間に呼吸を整えた。
 恋を、消さなければならなかったから。彼を救うために。
 遅すぎるかもしれない。でも、まだ、できるかもしれない。わたしはまた階段を飛び降りて、その通路の入り口に立った。遠くにあの牢があった。ミナが鉄格子に彼を抑えつけているのが見えた。危機に瀕しても、彼の顔は生気無かった。
 心が、チクリとした。でも、わたしは一歩を出した。
 ミナが叫んだ。ねえ、こんなのが良かったの? 通路に反響した声が、わたしを非難していた。ただ男ってだけじゃないの。笑い声が続いた。
 ユウちゃん、ここまで来れる? 来れないよねえ、だって、飛んじゃうもんね――。
 今思うと、本当に、何か方策があったような気がしてならない。そこに、ナイフを持っていけば、ユウの眉間に投げ刺すことができたのかもしれない、もっと呼吸を整えて冷静であるべきだったのかもしれない、いや、その前に、わたしがもっと上手くミナを説得できていたら、わたしの能力がミナほどにあったなら、わたしがミナを抱かなかったなら、わたしがそこにいかなかったなら、わたしが転送なんてしなかったなら、わたしがあの公園で恋をしなかったなら、わたしが恋をしなかったなら!
 ああ、まだ、悲劇のヒロイン癖が抜けない。あの時の陶酔がまだ残ってる。
 あら、指が九本しかない、わざとらしくミナが叫んだ。一本だけ無いなんて、格好が悪いわ、全部、取り外してあげる、そんな声がしてすぐ、ぎゃあ、と悲鳴が響いた。やめろ! と声が出た。わたしの冷静が揺らいだ。
 脚は前に出続けていた。
 いいよ、でも、この男の子のこと嫌いになるならね、ミナはそう言った。そんなことどうやってわかる? とわたしは叫んだ。だって、嫌いになったら、ここまで近づけるじゃない? 本当に楽しそうな天使の声だった。ああ、そうする、ミナ、お前だけだ、その子はもうどうでもいい、お前だけに従う、約束する、一生そばに居る、一緒にここを出よう、二人だけで暮らそう、わたしの口から、勝手にそんな言葉が漏れ出ていった。
 でも、また、冷たい声がした。嘘ばっかり……それにしても、随分長い通路みたいね。
 わたしも気付いていた。それがどういう皮肉かを。
 わたしは、一歩も進んでなかった。
 いや、一歩進む度に、一歩分後ろに転送されていた。
 また、ぎゅえ、という悲鳴が響いた。また彼から指がもがれたのがわかった。ほら、早くしないと、全部無くなっちゃうよ?
 そんな言葉がわたしの呼吸を乱した。脚は動いていた。でも、どうやってもその先にいかなかった。
 彼の悲鳴が聞こえる度に、わたしは速度を上げるのに、その分だけ戻される距離が大きくなっていった。
 まるでジャンプカットかルームランナーみたい、それともハムスターかしら、ってミナの笑い声がしてた。
 悪い夢のようだった。でも、現実だった。ただ張り裂けそうだった。
 何も、わたしにはできなかった。全力で走るしかなかった。走り続けた。
 そして、虚しく戻り続けた。
 もう、その彼の悲鳴も九度目の痛みに掠れきったとき、ああ、全部なくなっちゃった、ってミナは言った。わたしの呼吸はもう限界だった。脚がもつれて、わたしは、通路に倒れ込んだ。
 見上げた先に、彼の首に刃物を立てるミナがいた。
 やめて、やめて、やめてやめてやめてやめてやめて、そんな言葉は乱れきった呼吸に揉まれて声にならなかった。
 ユウちゃん、さよなら、ミナの手が動くのが見えた。噴き出したものの赤が、わたしの心を染めた。
 そして、わたしは知らない街にいた。
 飛ぶ前にあげた筈の絶叫に、皆が振り返った。わたしは、それでも、身体の底から噴き上がる叫びを抑えることができなかった。
 ただ、ひたすら叫び続けた。
 何も考えなくていいように。
 何も汚いものが頭に浮かばないように。
 その悲しみが自分のためじゃないと訴えかけるように。
……そして、わたしの頭にひとつの言葉が浮かんだ。
『ミナを、殺そう――』
 方法も、理由も、わからなかった。ただ、そうするしかないような気がした。
 ふら、と立ち上がった。
 もの珍しげにわたしを見ているひとたちがいた。
 カップルがいた。
 親子づれがいた。
 わたしはぐるりと辺りを見回し、いかにも独り者という男を見つけて、そばに近寄った。
 彼は、少し戸惑った様子だった。
 そんなことどうでも良かった。
 わたしは、そして、訊いた。
――君に、恋をしてもいいかな?」

<#13終わり、#14に続く


 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2016年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版と大筋において変更はありません。

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