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ありがとう習慣1年継続で芽生えた人生観【光の玉として生きる】

「ありがとう習慣」を始めて1年と1ヶ月ほどが経過。
回数はカウンターで数えただけで16万回を超えました。

これ、実は言うほど多くはありません。
ぼくは今、在宅勤務でして、ほぼ家から出ないので、100回も言わない日はざらにあります。でも外出するとマスクの下で「ありがとう、ありがとう…」と密かにつぶやいているキケン人物(笑)なので、一気に数を稼いでしまいます。

平均すると1日に約438回。そう聞くと、そこそこ多い気もしますね(たぶん5分もかからず言えるけど)。
ただ日によって回数の変動はあれど、この1年間1日たりとも欠かさず続けました。
もう習慣なので、ほぼ自動操縦です。

ありがとう習慣によって感じた変化と、芽生えた人生観、世界観(宇宙観?)を紹介します。

一応「ただの個人的人生観ですよ」と前置きしておきます。

科学的にどうかは知りませんし、実際証明のしようもないでしょう(でもチマチマ数学を学んだりはしてます笑)。

◆ありがとう習慣による効果
よく誤解がある気がするので明言しておきます。

「ありがとう習慣」をしたら巨万の富を引き寄せるとか、チャネリングできるとか、そういうことはありませんよ!!


(久しぶりに大きな文字を使ってしまった笑)

おそらく「ありがとう習慣」のメイン提唱者になると思われる小林正観さんもそんなことを言ってはなかったんじゃないですようか。
ただ「ありがとう2万回で起きた奇跡」の記事で書いたような幸運、ビギナーズラック??ふしぎな体験があったことは事実です。だからといって、

『ありがとう習慣』で欲しいものを引き寄せられる!

みたいなことを、ぼくは言いません。
だって、この前もロト7、ハズレたもん(笑)
(はい、いまだに宝くじとかたまに買っちゃうぼくです。だって宝くじって楽しいじゃないですか〜)

どちらかというと「ありがとう習慣」の本質は、
「いま満たされていたことに気づく」こと
です。

そして「いま満たされていたことに気づく」とは
すべてが愛おしく思えるようになる、ということ
です。

例えばですよ、道路を歩いててワンちゃんのプッポさんを踏んだり、自己嫌悪に陥る失敗をしでかしたり、うまくいかないことがあったり、うえー辛いなコレみたいなことがあったとするじゃないですか。
そしたら「ありがとう習慣開始前」は、もうそのまま辛いわけです。「ツイてないなー」とか「もうやだな」とか。

でも「ありがとう習慣」をしてると
「うわー辛いな、あはは」とか
「やっちまったなぁ…あーやだなぁ…ふふふ」となります。

要するに何が起きても楽しいに着地します。

そういう体験ができてありがたいなに着地できます。

なぜなら自分の本質とは光の玉だから

ぼくは、これを最近「光の玉として生きる」と言い始めました。

「ありがとう」をずーっと言ってると、
「あ、そうか、自分は光の玉だったのか」
と思い始めます。

そして「あ、そうか、世界も全部、光の玉だったのか」
と思い始めます。

つまり、自分も世界も全部、光の玉です。

(大丈夫ですか〜? ついてこれていますか〜? まぁ、ぼくの記事をいつも読みにきてくださる奇特な方々なら大丈夫でしょう笑)

そして「自分」とは「自分だけじゃない」と思い始めます。

「結集した無数の光の玉ちゃんたちがワッショイワッショイと担ぐ御神輿の上にいるのが、この僕なんだな〜」

などと思い始めます。

例えば身体の働きに特にそれらを強く感じます。
(心臓を動かそうと思って自分で動かしている人はいませんからね。そこに無数の光の玉ちゃんたちの愛があります

また、何か楽しい出来事があったとしましょう。
(駄菓子屋さんでうまい棒を買ってきて食べたとか)
それもまた駄菓子屋さんが存在し、それらを成立させる社会の仕組みが存在し、空気と大地と宇宙そのほか諸々が存在するために「あー、うまい棒ってうまいなぁ」を体験できた訳です。
つまり、無数の光の玉ちゃんたちの協力があってこそ成立している楽しみです。
そこに愛があるわけです。
ありがたいなぁ、嬉しいなぁ、というわけです

つまり目の前に見えている物も人も景色も全部、光の玉ちゃんたちで、それらがこの世界の楽しみを作り出すべく、それぞれの役割をワッショイワッショイと担ってるんだな、と思い始めます。

一般的に、それらは単なる物理的で無機質な「働き」だと思われてることでしょう(ぼくもつい最近までそのように思っていました)。
でも、それは違いますよ。大きな見落としです。

そこに愛があるわけです。

それは子に対する親、あるいは祖父母のような愛です。
見返りを求めるわけでもなく陰ながら支える愛です。

光の玉ちゃんたちとは、一種の思いの顕れです。
そう考えなくては、科学の辻褄は合わないでしょう。
ある日の朝、プレゼントが枕元に置いてあったのは決して偶然ではないわけです。

それをいつまでも「偶然だ」と思っていてもいいのですか?
というわけです。

いや、人間の独善や恣意的な誘導を排除するための「科学的視点」としてはそれでいいと思います。
(宗教者が神の名を借りて横暴を働きがちな歴史から必要性をもって生まれた視点でしょう)

でも逆に科学的視点を徹底すると「他人に意識が在るかないかについては何も言えない」ということにもなるわけです。客観的には他人の意識の存在を証明できないために。

でもそんな世界観に縛られて生きるのは馬鹿馬鹿しいって思いませんか?(まぁそこまで極端な人は実際皆無でしょうけど、無機質で乾いた世界観に落ち込んでいる人は少なからずいると思う。ぼくもかつてはそうだった)

そのような視点を何も人生全部に広げることはないわけです。
だってそんなことしたら世界の愛を見落としてしまいますからね。それを感じられないなんて、もったいないなぁ、と僕は自分が親になって個人的人生観として思うわけです。

つまり科学的視点と非科学的人生観は両立します。
もっと言うと、両立させるからこそ更に楽しく生きられるのではないですか?

例えば「他人に意識が在るかどうか分からない」という科学的観点は、ひるがえってひとつの可能性を示唆してくれます。

つまり他人にさえ意識が在るかどうか分からないならば、物体や空気にも意識が在るかどうか分からない(在るかもしれない!)わけですね。

むしろ「在る」と言い切ることができたなら、今の科学の様々な分野に散在する行き詰まりは一本のひもで見事につながっていくことでしょうね。

(もっとも「科学」という枠組みはそれを容易に許しません。だからこそ個人が主体的にそれを見出していくことが必要なのです。最後は人間が自らの信念でもって立ち上がらなければならないわけです。なんて上手い仕組みなんでしょうか。神シナリオとはまさにこれです!)

そしてぼくは、そこに意識の存在を主体的、個人的に見出すようになりました
(別に個人的な人生観を定めるために、科学的な証明を待つ必要はありませんからね)
だからありがたいなぁ、と日々思うこともできるわけです。

「いただきます」と心を込めていうことができるし「食べ物を粗末にしてはいけませんよ」と子供に教えることができます。
世の中で昔からよく言われていることが、やっとストンと腑に落ちました。

以前、ゲーム会社に勤めていまして、オンラインゲームを作る日々を送っていたんですね。
ゲーム制作とはユーザに対する愛ですよ。

キャラクターの活躍するフィールドも物理法則もすべて制作者たちの愛を源泉として出来ています。

ゲーム世界に登場するどんな悪人や絶望的なシナリオですらも愛を源泉として生み出されているわけです

だったら、この世界自体もそのような愛から構築されているとみなす方が合理的ではありませんか?
というわけです。

そういう経験もこの気づきに関与しているかもしれません。

いま全世界、全宇宙に存在している全てが、ただ愛と楽しみによって編み上げられている結果です。

これが光の玉ちゃんたちにとっての、もっとも確かな現実なのです。

ありがたいではありませんか。嬉しいじゃありませんか。楽しいではありませんか。

そして無数の光の玉ちゃんたちが今、
同じく一介の光の玉に過ぎないぼくを
お神輿の上に担ぎ上げてくれているのです。

なんと幸運なことでしょう。
ロト7が当たることより、よほど幸運なことではないですか。

今すでに"ロト7"に当たっていたからこそ

「うわー、またロト7はずれたか〜。よーし今度こそ!」

などと言ったりする楽しい思いができるわけです。
だから、ぼくは懲りずにロト7を買っちゃうわけです笑

喜びも楽しみも
不足感も達成感も
努力も怠惰も失敗も喧嘩も
貧困も富も世界の課題も怒りもお笑いもある、この世界、
なんてありがたくて
楽しくて満ち足りているのでしょうか。



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