見出し画像

花とは何か? 自然はなぜ存在するのか?

我が家の百日草がついに咲きました!
うわぁって、うちの子も喜んで
幸せがふわぁって花のように広がりましたね。
ふしぎなものです。
花が咲くと、こっちもふわあって花のように咲くんです。
花の波動が人間に伝わって共鳴が起きたってことでしょうか。

花を見て「暗鬱さ」を感じる人は、まぁいませんよね。
花は「明るさ」だったり「美しさ」そのものです。
魅力的な笑顔が人の心をほっとさせたりするのと同様、
花という形自体が、すでに感情表現になっています。

それで花って何だろうって考えました。
どうして花が咲くのでしょう?

人間を喜ばせるためでしょうか?
だからあんなにも美しく咲くのでしょうか?
(そもそも美しく感じるのはなぜかもありますけど)

植物学者あたりだったら甘い蜜と花粉で昆虫をひきつけて受粉のチャンスを増やすためなどと言うのかもしれません。
(でもそれなら昆虫を引き付けなくても受粉できるように進化すればいーじゃんって思いませんかね??いや、むしろそれが動物とか人間だったりするのかな???)

もしかすると自然とは人間の教師なのではないでしょうか。

毎日コツコツとお水を上げていけば、花が咲くよ。
土とお日さまと鉢植えのおかげでもあるよ、
泰平の世であること、水を毎日あげられる生活のおかげでもあるよと教えてくれているのではないでしょうか。

そのような視点で考えてみると
自然とは万国共通の言語であることに気がつきます。

花は積み上げの先によいことがあると教えてくれます。
そよ風の心地よさやお日さまのあたたかさは、人もそのような態度でありたいと思わせてくれます。
自分も恵みを惜しみなく分け与えられる存在でありたいと思わせてくれます。
花を育てられる平穏な生活こそ理想と思わせてくれます。
花の美しさや自然の在り方そのものが平和と幸せへのいざないになっているわけです。

では、なぜ花は、そして自然はしゃべらないのか?

しゃべらないほうが伝わるからではないでしょうか。
彼らは「経験」として自己表現しているわけです。
言語ではなく身をもって伝えているわけです。
ぼくが、いくら「花は平和と幸せへのいざないです」なんて理屈を言ったところで、

「はー? なに言ってんだ?」

となってしまう可能性はそこそこ高いですが、

誰でも花の成長を見守った上で開花の美しさを目の当たりにすれば、

「うわー、きれいだなぁ。すごいなぁ!」

心が動き、そこに物言わず花のような世界への憧れが生まれてしまうというわけです

こうして人は勝手に平和と幸せへいざなわれます。
「どっちが伝わるか選手権 テッコ VS 花」は花の圧勝です。
これが語らぬ言語の強さです。

人間は言語を使って、思いや考えを伝えます。
だからこそ緻密なコミュニケーションが可能となって、素早く発展を遂げてきたのも事実ですが、
同時に言葉は争いや不和の火種ともなってきました。

これは、どちらが偉いとかいう話ではありません。
方向性やパラメータの振り分け方の違いです。

人間は口から言葉を発する道を選び、
植物は背中で語る道を選んだわけです。

親は子供に「あいつは言っても聞かない。一度自分で痛い目に遭わないとかわからないんだ」といいます。
植物はこの事をよくわかっているのかもしれません。
だから最初から何もいわない。
ただ身を差し出して、さまざまな経験をさせるだけです。
それがもっとも伝わるとよく分かっているのでしょう。

もちろん時間はかかります。しかし植物にとって効率的に早く伝えることは重要ではありません。
土に染み込んだ水が根から芯へ吸収されて生きるチカラとなるように深く確かに伝わることの方が大切なのでしょう。

だから植物は語りません。
語らずして、ただそう在るだけです。
そう在ることをもって語るといってもいいかもしれません。

とすると世界とは、人間なる私と、自然なるあなたの対話の場だったのではないでしょうか。

石に最初、石という名前はついていなかったことでしょう。
しかし人間は地面に落ちている硬い物体から
硬い意志というものを教わりました。

どんな衝撃を与えても決して砕けない強固な信念。
それを地に落ちていた名もなき硬い物体から学んだわけです。

だから意志と石は同じ呼び名となったに違いありません。

花と華やかも同様な語源でしょう。
自然とは人間の教師です。

とすると、
自然とは目に見える神の言語と呼んでもよいかもしれない。

なにも「口から発して空気を振動させて考えを伝達すること」だけを言語とみなす必要はないはずです。
そんなの誰かが勝手に決めた定義に過ぎません。

空気の振動が言語なら身を持って伝えること、つまり自己組織化された素粒子たちの振動で伝えるさまを言語とみなしたってよいでしょう。
(手話は限りなくこれに近いわけですし)

であるとするならば
自然とは神からの語りかけ、あるいは神そのものです。

樹木は神の手足。
大地は神の胴体。
風は神の息吹。
雨は神の恵み。
光は神の奉仕。
森羅万象とはすべて神の語りかけやふるまいの一部分が形質化したものであるのかもしれない。

そんなふうに考えたって筋が通らない話ではありません。

神はどこにいるのか、なんてセリフたまに聞きますけど
「え、目の前にずっといますけど」ということです。

もし知性的なミジンコが人間の体表で生きていたらどうでしょう?
人間の髪はそびえたつような暗黒の森に見え、
目玉は泉、
鼻は洞窟、
背中は無限の荒野に見えるかもしれません。
でもそれって全部、同じ人間の一部ですよね。
それと同じことです。

汎神論的なことは脇に置いとくとしても
人間も自然の大切さ自体には気づき始めて、地球環境を守らんとする向きはあります。

ただ人が勝手に自然から様々なことを学んだ、と考えることも出来ますし、その方が現代感覚には合うかもしれません。
しかし僕は、自然の中に立つと、どうしても思ってしまいます。
自然が偶然このような美しく崇高な姿で存在しているとは思えないと。

さて以上は、人間の側から見たときの解釈でした。
では植物の側から考えたとき、どうなるでしょうか?

序盤で「昆虫を使って受粉するなら自分で受粉出来るように進化すればいーじゃん」と口走りました。

でも、ここでひとつ大きな疑問が浮かびます。

植物の中で、
植物としての「私」と、
昆虫としての「あなた」は分別されているのでしょうか?

わたしは植物、
あなたは昆虫、
そんな区別する意識を植物は持っているのでしょうか?

①植物に意識などない。ただ決められたコードの通り反応しているだけで、有機的な物質として存在しているだけ。

②植物にも植物なりの意識があり、植物は植物としての私と、昆虫や外界としてのあなたを区別している。

③意識はあるが、植物と昆虫を区別していない。

さて正解はどれでしょう。
僕もどれが真実なのかは知りません。

誰か植物とお話できるお客さまはいらっしゃいませんか〜?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?