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ありがとう習慣13万回で見えてきた景色【世界は愛情の連鎖で出来ていた!】

ありがとう習慣を始めて10ヶ月が経過。
13万回のありがとうを唱えて見えてきた景色を紹介します。

最初は何に「ありがとう」と言っているのか分からず、
意味不明すぎて何度やめようと思ったかわかりません。

しかし「ありがとう」と、ただ機械的に唱えているうちに
人生の視点が劇的に変化しました。
そして、ぼくの人生観は今こうなっています。

世界は愛の無限連環で出来ていた!

ぼくも、いつの間にか子の親になりました。
それで子供を養育しているわけですけど、
子供って本当にかわいいなって思うんです。

まぁ、はっきり言って泣いたり、わめいたり
いわゆる親を困らせるようなことも多々あります。

でも、それも含めて(なんならそれだからこそ)
子供って本当にかわいいなと思うわけです。

存在自体が奇跡というか愛の塊というのか、
親としてお金を稼いで養育しているわけですけど
むしろ子供からもらっているエネルギーの方が、
ぼくのお給料なんかより圧倒的に大きいわけです。

今ここだけの幸せが、そこには在ります。
そういう幸せを実感して、ふと思い返します。
ぼくの親にとって、ぼくもそういう存在だったのかなと。

ぼくは正直、10代の頃は「親に愛されずに育った」などと結構、本気で考えて悩んでいたこともあるクチです。
恥をしのんで白状すると、10代の半ばから後半にかけて、それで親を責めたこともありました。

「お母さんは、ぼくを愛してくれなかった!」
とかなんとか(恥ずwダサw)

人間関係の不器用さもそこに起因するかと思っています。
ぼくがアダルトチルドレンに相当するのか、あまり深掘りしたことはありませんけど、ある種の闇を抱えた少年でした。

ぼくが小学生の頃、両親の不仲な時期があり、そのストレスのはけぐちがぼくに向いたようなこともあったのが、その一因でしょう(勿論それだけではありませんが)。
親とて未熟で不完全な人間ですから、それはぼくの思い違いなどではなく、真実そういうこともあったでしょう。

しかし今、自分が親の立場になって考えてみると、
たとえそうだとしても、「子を思う親の愛」というのは、きっと間違いなくあっただろうな、と想像できます。
子供時代には全然見えていなかった景色が、
親になってみて初めて見えてきたわけです。

ぼくは、うちの子が描いたつたない絵とか見るだけで
なんかもう胸がいっぱいになってしまいます。
奇跡にふれたような気持ちになります。
この子は、ほんの数年前まで
この世にいなかったのに、
ある日ぼくたちのもとに現れて、
毎日、泣いたり笑ったりしながら、ただ生きている、
その姿を見るだけで幸福感を覚えます。
「ああ、生きててよかった」と思います。
神様を目の当たりにしたようなまばゆさすら感じます。

とすると、ぼくの親も、そのようなまなざしで子を見ることは、もちろんあったでしょう。
当の子供であるぼく自身は、そんなことまったく気づきもせず、なんならその傷つきやすさと視野の狭さで「ぼくは親に愛されずに育った子供だ」なんて本気で思ったりしながら育ったわけですが、それでも今になってみると、それが当時のぼくにとって真実だっただけで、ぼくの親の視点からしてみれば、また別の真実があっただろうことが想像できます。

さて、以上は「ありがとう習慣」を始める前から思っていたことです。
では「ありがとう習慣」を始めてみて、何が変わったのか?

ひとことで言えば、この「自分が親になってみて初めて分かる、あのときの親の気持ち」的な俯瞰視点を、また別のレベルで獲得しました。

では、もう一度、図を出して簡単に解説しましょう。

第1段階「子から社会へありがとう」
(こんな面白い漫画ありがとう、ドラゴンボールありがとうetc)

第2段階「親から子へありがとう」
(ぼくを親にしてくれてありがとう、生まれてきてくれてありがとう)

もともと「子」だったぼくにとって、生活していけるくらいのお金が家にあるのは当たり前で、そこに伴う親の苦労とか、「この子のためになんとかしてやろう」などという親の心血注ぐ気持ちなど、ほぼ想像の埒外でした。
親への感謝も薄い子供で、誕生日プレゼントは親に要求するばかりで、あげたことなんて幼児のときくらいでしょう。

しかし自分が「親」になってみて新たな視点を獲得しました。ぼくは「子」に愛情を注ぐなかで、今までは見えていなかった自分の親の愛にも気づいたのです。
親に対する感謝の念を、より確かに抱けるようになったのは、つい最近のことのようにも思えます。

そういう中で「ありがとう習慣」を始めてみると、そのような「親から子への愛」に相当する愛が、自分の中に潜在していたことに気がつきました。
それが上図でいうところの「遺伝子」。
これは、もっとニュアンスを正確に伝えるなら「身体の働き」「生体恒常性」などと言った方がよいでしょう。

身体の働きなんてものは別にあって当たり前ですよね。
でも、よく考えてみると、心臓なんて、ぼくが意識もしないのに、ずっとずっとずっと年中無休で動き続けているわけです。
そんなの当たり前ですよね。
だって、それが「心臓の機能」なんだから。

と、ほぼそのような気持ちで、ずっと生きてきました。
しかし「ありがとう習慣」を始めると、こういった身体の機能を「機能」というよりは「一種の人格」としてみなすようになってきます。

「身体ってすごいな。心臓も肺も目玉も耳も脳も、それらの土台となる遺伝子も、すべてがありがたいな。彼らの愛情ゆえに、おれは今、こうして生きていられるんだな

と、このように実感として思い始めます。
頭で考えて理解するのではなく、全身を貫く感覚として感謝が見出せるようになってきます。
これが「遺伝子さんありがとう」「身体さんありがとう」の段階。

第3段階「遺伝子さん身体さん、ありがとう」
第4段階「社会や世界、ありがとう」

第5段階「素粒子さん、ありがとう」

すると次の段階として「素粒子さん、ありがとう」が始まります。
この遺伝子や身体が、その働きをまっとうできているのは、そもそも素粒子が自己組織化されているためです。
この素粒子に対する感謝の念が芽生えてきます。

すると、ここで起きるのが「物質」に対する感謝です。
今、目に見えるもの、いや空気など見えないものも全てが素粒子です。
この素粒子たちの働きがあるから今、この自分が存在できている。自分のみならず、この世界がこの世界として成立できているのは、素粒子さんたちのおかげだったのかと思えてきます。

本当は、この前段として「社会に対する感謝」「世界に対する感謝」も同時並行しています。むしろ、こちらの方が先でしょう。
「ああ、この本が読めるのは、出版社や筆者、物流の人々や原材料のおかげだな」みたいな感謝が始まり、
それがやがて「素粒子ありがとう」の流れに合流します。

すると、ここで世界観がスパークします。
これは生きながら天国へ入る体験といってもよいでしょう。
ぼくは、ありがとう習慣を始めて1ヶ月以上した頃、今年の三月くらいは、如実にこの状況でした。

なにしろ見えるものすべてが感謝の対象だったことに気づいてしまうのです。世界はすべて愛からできていたことに気づいてしまうのです。

これはもうただ息をしているだけで幸せ、という世界です。

道路が、ただ道路として存在していることに愛を感じるわけです。
「道路さん、ありがとう!」と思えて仕方ないわけです。
こうして改めて文字にしてみると
マジやばいですね、この人w
いや、ある意味、狂人ww

第5段階「素粒子さん、ありがとう」
(例「道路さんありがとう」「建物さんありがとう」)
※景色が天国や神に見えてくる。汎神論的世界観への入城。

そして、この狂人的感謝の段階に来ると、
いよいよ「情報場」ってやつが見えてきます。
巷で言うところの「ゼロポイントフィールド」とか「アカシックレコード(アカシックフィールド)」ですね。
素粒子が片足突っ込んでいる高次の場が情報場、いわゆるゼロポイントフィールドです。
この場の力によって、すべてが編み上げられていたのか、ということに直感として気づいてしまいます。

ちなみに、ぼくは「ゼロポイントフィールド」とかいう言葉や概念をちゃんと認識したのは、つい最近のことです。
(ことばを聞いたことくらいはあったと思うのですが、たいして興味もないのでその意味も知りませんでした)
むしろこの「情報場」的な概念を実際に身をもって体感しはじめて、その直感をこちらの記事などにしたためたあとに初めて、その言葉を明確に意識し始めたくらいです。

「あれ、おれが直感してたのと同じこと言ってる人たち、いるじゃん。ゼロポイントフィールドって、そういう意味だったの」という感じですね。

なので、そういうトンデモと揶揄されかねない知識を仕入れて傾倒しちゃって、それで言い出しているわけではないことは明言しておきます。

で、ここまでくると、すべての点が円環上につながります。

第6段階「情報場ありがとう」
(「情報場」というのは表現として固すぎるので、
「アマノミナカヌシありがとう」とか思うことにしている。
神道のことはよく知らないけど、おそらく情報場の別名だろう)

つまり世界は「食物連鎖」なのではなく、むしろ「愛情連鎖」そのものだったことに気づいてしまいます。
ヒトの親は遺伝子(身体の働き)であり、
その親は素粒子、その親は情報場です。
情報場や素粒子や身体の献身によって、今の僕らの生活や世界が成り立っていたことに気づいてしまいます。

ぼくは最初「なにがありがたいのか、さっぱりわからん」
と首を傾げながら「ありがとう、ありがとう」と機会的に唱えていたわけです。

ところが、これを10ヶ月間13万回続けてみたら、
「そうか、情報場や素粒子や身体さんのおかげだったのか! うおー、そうだったのか、ありがたい、ありがたい」
と骨身に染みて、そのありがたさを実感するようになったのです。
これは「世界がただ存在しているだけ」でありがたい状態です。
「存在が存在していること」それがありがたい状態です。
こうなってしまうと、本当に気分が良いですよ。
(まぁ、文字にしてみると、かなりクレイジーで、ばかっぽく見えるでしょうけども笑)

今までぼくは「人生って楽しいこともあるけど、大体しんどいことの方が多いな〜。はぁ」といった、ごく当たり前の人生観で生きてきたわけです。

ところがそれが、
「なんと、この世界が愛そのものだったのか! 愛はどこかに在るんじゃなくて、ずっと目の前に在ったのか! なんと、ありがたいことなんだ。ありがたや、ありがたや」
と思うようになったんですから我ながらびっくりですよ。

さて最後に、ひとつ。

第7段階「世界をありがとう」で満たしたい!!

情報場の親とは誰か?
それは、おそらく僕ら全員です。
僕ら全員の意識進化が情報場を進化させる力になるのです。
僕らの世界が「ありがとう」で満ちれば満ちるほど
情報場もバージョンアップして連環の中で一巡し、
より「ありがとう」が飛び交う社会を形成するでしょう。

情報場の視点に立てば「戦争」すらありがたみではあります。血湧き肉躍る戦、それはそれで魅力でしょう。
しかし「戦争ばかり」の世界に住みたい人はいないはず。
戦争は漫画の中だけで充分です。
もう戦争は卒業し、人類は「ありがとう」の時代に突入していい頃合いだと思うのです。
これらの話の科学的真偽がどうかではなく、
ただそういう人生観を生きていい頃です。

だから、こうして思いを記してみました。
こんな人生観で生きてる人間が実際いるんだ、と知ってほしくて書きました。

あなたは今、戦争をしていませんか?
では戦争のやめ方を知っていますか?
それはまず自分から武器を捨てることです。
そして、ただ笑顔と感謝と愛で生きることです。

なにより重要なのは
これが今すぐ自分一人でできるということです。
戦争の相手がどうかは一切関係ないのです。
自ら愛と感謝として生きることが、
この人生ゲームのゴールなのですから。

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