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Xジェンダーを自認した時

30代になってから、自分の性に対してモヤモヤすることが多くなってきた。
灰色のどんよりした雲がかかっていたように感じていた。

あるときに自分はXジェンダーというもので、
それもGender Neutral(中性)というものに分類されると自認した。

その時の話。

ジェンダー・ニュートラルといもの

一般論的に正しくないのかもしれないけれど、私が感じている感覚を表現してみる。あくまで個人的な主観なので、一直線上に示すものではないかもしれないけれども、分かりやすいのでひとまず。

100%女性らしい女性を1とし、100%男性らしい男性を100としたとき、普段の私は、『50』というラインに乗っているのだと思う。
まさにこれが、Neutral(中性)と言っている理由。
両性や無性、アセクシャル他にも多くの分類があるらしいのだけど、それら全部しっくりこない。まさに中性が適切な言葉だ。

それは、身を置く業界のせいかもしれないし、育ってきた環境も大いに関係していると思うのだけれども。普段私と接している人は、違和感なく理解してもらえるのではないだろうか。(試しに少数の知り合いに話してみても、すんなり受け入れてもらえることが多かった。)

そして、どうも「男性らしい男性」に対して、必要以上の恐怖心を感じる傾向がある。人としてニュートラルに接していた男性が、突然異性としての顔を見せた時に、とんでもない警戒心を持つことがあった。
中性的な男性を好んでいたし、背が低い人の方がプロポーションがいい、という謎のロジックを持っていたこともあった。
「私は人間対人間でいたい、そういう人間なのだ。」
「異性より先に人間として付き合ってしまうからだ。」
そう決めつけていたのだけれど、どうやら違うかもしれなかった。

そんな中で夫の存在というのはとても特別なものだった。
背は高いけれども体重は同じくらいで、相撲を取ったら勝てそう。不慮の事故や病気で、夫を担いで運ばなければならない場面がもし訪れたとしても、たぶん一人で担いで運べると思う。
一緒に暮らしてみて分かったのだけれど、私よりもよほど入念にお肌の手入れをしているし、細やかできれい好きだ。
そんな夫といると、『50』という狭い城壁の上から、『49』くらいの位置に、すとっと落ちる。そんな感覚があった。

二人でいると、49と57くらいの間で、お互いに自分を解放して踊れる。
城壁の上よりも、平面的にフラットなダンスフロアに降りれるのだ。
そして一番大切なことは、その感覚について、夫がきちんと理解してくれているということだ。

思い返せばあの頃から

そうだ。思い返せば、あの頃からだったのではないか。

少学3年生の時に習字の授業のためにクラス全員が習字道具を買った。私が小学生だった四半世紀前は今のようなカラフルなランドセルなどはなくて、ランドセルの色というものは、一律で、男子は黒・女子は赤だった。

それと同様に習字道具も、男子は黒いケース、女子は赤いケースを買わなければならなかったのだ。しかし、どうしても黒いものが欲しくて母親にお願いをして、クラスで唯一、女子で黒いケースの習字道具を所有していた。

赤い色が嫌だったのか、その既定路線というか、同調圧力のようなものに10歳ながらに嫌悪感を持ったからなのか。今では記憶は定かではないが、黒いケースの習字道具を嬉々として愛でていたのは確かだ。

兄と弟を持つ3人兄弟の中間子として、兄からおさがりがもらえるのも、弟へ渡せるのも両親としては合理的と感じたのかもしれないが、10歳にして黒い習字道具をねだる我が娘に、一抹の不安を覚えただろうことは想像にたやすい。よくぞ買い与えてくれたと思う。

学生時代のジェンダー環境

その後、中学~高校とバスケ部に所属していた私は、「部活中に頭から水をかぶってもすぐ乾く。」といういかにも自分らしい合理的な理由で、常にベリーショートにしていた。我ながら、似合っていたとも思っている。

高校の制服は、女子はブレザーだったのだが、男子の制服である学ランを着ている女子の同級生が一人だけいた。
ジャージや私服での登下校も、なんなら他校の制服も認められていた私の高校では、ほとんど制服を着るタイミングがない。
けれども、合唱コンクールや入学・卒業式のイベントなどの皆がそろって制服を着るタイミングに、学ランを着て異彩を放つ彼女の凛とした出で立ちには、心からかっこよいと思っていた。

それから、その高校の1学年上の先輩には女性野球部員がいた。
ソフトボールではなく硬式野球部の、マネージャーではなく選手としてその先輩は、グラウンドの遠目から眺めているだけだったが、とても真剣に部活に取り組んでいるように見えた。
部活ごとに部室は1室しかないが、彼女は別の女子部の部室を間借りするでもなく、彼女が着替えをするタイミングだけ男子部員が外へ出る、という利用の仕方を3年間続けて卒業していった。なんて愛のあふれた世界だと思っていた。

私の性自認を遅らせた理由

大学に入ってからも「工学部」という属性から男社会であることは明白だ。アイデアやセンスで成績をつけられる建築学科という特殊環境から、男だから・女だからなんてことを言われることはなく、あの作品をつくった人、という視点で見られてしまう。そんな学生時代だった。

それは会社に入ってからも、より一層顕著にその傾向は現れ、女性だからこの仕事を、男性だからこの研修をという区別はなかった。

ゆえに自分の性に関して自らに問う状況に追い込まれることが、あの黒の習字道具を何とかして買ってもらった10歳以降、なかったのだ。
幸福にも、世間の「当たり前」や「性による同調圧力」に抗う必要がなかった。一見幸せの象徴である結婚というハードルにあたるまでは。

それが私の性自認を30代半ばまで遅らせた理由のひとつでもあると、分析している。

「あなた、どっち!?」の一言で世界が変わった

何の予兆もなく、自認するタイミングは訪れる。
まだ何十人単位での懇親会が出来ていた時代。50人ほどがいた社外送別会にて、私が少し挨拶をさせてもらうことがあった。
一次会を締めて店から出て、二次会に行く人ーという、今では懐かしくも愛おしいあの光景の中で、酔っぱらった知らないお姉さんに突然聞かれた。

「あなた、どっち!?」

しばらく理解が出来なかったのだけれども、何ターンかしていると、私が女なのか男なのかを聞いているらしかった。私の短い挨拶を聞いて、こいつは仲間かもしれない、とそう思ったそうなのだ。

それまでは疑いもなく、生物学的に女性なのだから、女性である。そう思っていたのだけれども、たしかにちょっと真ん中くらいかもしれませんね。と、少し考えてそう答えた。

そうすると、「いつ?」とまた酔っぱらったお姉さんが聞いてきた。
これまた何のことが分からなかったのだが、また何ターンかしていると、いつから中性であることを自認したのか、そう聞いているようだった。

「うーん、たぶん、1年くらい前ですかね。」そう言うと、「おっそ!」と言って、プイッとそっぽを向いて行ってしまった。

それが、色々と調べて自問自答していくいくきっかけになった。

ジェンダーのリトマス試験紙はない

自分なりに調べたり心の奥底に問うたりして分かったことがある。
自分の性に対して、なんの属性なのかを判断する、リトマス試験紙のようなものはない。ということだ。

ただ、事象を整理していったときに、前述の『49↔50理論』を仮説として立てた時に、スッと腑に落ちる感覚があった。これまで感じたことのない安堵だった。だから、ひとつだけジェンダーの判断基準があるのだとすれば、これではないかと仮説を持った時に、「じんわりと温かい安堵を伴う腹落ち感」が生まれたのならば、それがきっとあなたの性だと言えそうだ。

結構ね、スキーの後に入る温泉くらい、自分の境界が解けた気がした。

そんなことで、建築界きってのジェンダーフリーの象徴、ジェフリー・バワの写真をどうぞ。(だいぶ前に書いた記事です。)

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本記事は、ディスタンスを取りながら結婚報告を行い、参加型ハネムーンと選べる内祝いをお届けする「投げ銭ハネムーン」に関する内容です。

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