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97歳、人生最後の旅

緊急事態宣言が明けた初めての週末なのになんだかもやもやする気分なのは、2020年5月31日という今日が祖母を散骨するはずの日だったからかもしれない。

2019年9月に97歳で祖母が他界した。

その3か月前に、祖母と旅をした。

ずっと書きためていた、97歳で祖母が人生最後の旅をした祖母の話をいつ外に出そうか、いや出すまいかと思いながらタイミングを伺っていたら長々とここまで引っ張ってしまったけど、今日がラストチャンスと思いアウトプットしておこうと思う。長くなりますがあしからず。

人生最後の旅に出たいと言い出した日

95歳を超えて、祖母が人生最後の旅に出たいと言い出したのは2017年のこと。それまで母(祖母の次女)と父、叔母(祖母の三女)とその夫とともに、主に車で九州などに定期的に連れて行っていたのだが、「飛行機に乗らないと旅した気にならない」と言い出したと相談を受けた。
グアムやサイパンはどうか、いや私の個人的な趣味からパラオはどうかと思案し、さすがに海外へのフライトには不安が残るということで東京から一番遠い日本のフライト=八重山諸島を選択した。

96歳人生最後の旅で小浜島へ(2018年6月)

東京から一番遠くて1フライトで行ける空港は石垣島だ。家系はみな川崎に住んでいるが我々の家族が長い間北海道に転勤しており、私も幼少期から中学1年生まで札幌で育った。私の出自は北海道だと思っているし、今でも札幌出身をアイデンティティとしている。
先日久しぶりに佐賀で会った弟は0歳から北海道にいたのに、小学校2年生から川崎にいたので彼は神奈川出身だと言っていることに衝撃を受けたというのは余談。

その頃に祖母や叔母らも北海道へ来ていたし、なにより両親がアウトドア好きで出会って結婚していることもあって、私たち家族はその頃に北海道中へ旅をしていたし、行先が北海道では新鮮みがないというのも沖縄を選んだ理由であった。(北海道中を旅し続けた数奇な幼少期が、今の私を作り上げている、という話はまた別の機会にしたい。)

年4回沖縄を訪れていた視点から選んだ、96歳・人生最後の旅の目的地

私は7年ほど前からダイビングを嗜んでおり、年間40~50本ほどではあるが、年4回の沖縄遠征とその他海外遠征もしていた。その経験値から、沖縄に行くなら台風が直撃する可能性が極めて少ないが、既に梅雨が明けている5月末~6月に行くのがベストであることを知っていた。その時期であれば水温は27~28度前後、陸の気温は30度を優に超えているし晴れ間も多い。
自分が行くときはダイビングショップ併設の安宿に泊まることが多かったが、会社の同期が小浜島のはいむるぶしの改修に携わっておりかねてから訪れてみたかったのだが、ダイビング目的で行くには高価でダイバーが望む海へのアクセシビリティも悪かった。けれども96歳の祖母と60代の両親や叔父叔母を連れていくには最適の環境であると思ったのも、小浜島を目的地にした理由だ。

小浜島で撮影した写真が遺影になった

結局その選択は100%正しかった。石垣島で泊まる高級リゾートホテルよりもこじんまりとしているし、祖母と両親・叔母のみ泊まったスーペリアルームからの景色は絶景に他ならなかった。(私は弟や従妹とともに別棟のスタンダードツインに泊まった。)
棟どうしを移動するためには多少距離があるが、スーペリア宿泊者はカートも無料でついてきて運転好きの父がどこまでも送迎してくれた。徒歩3分で着くような入浴施設にも父が意気揚々と送迎してくれて、久しぶりに2人きりになった気恥ずかしさもあったがそうでもなければ2人の時間はそうそう作れるものではないので、そんなことも全部含めて良い時間を過ごせた思っている。

孫やひ孫世代は別棟に泊まっていたが祖母の部屋が一番広くて皆が集まれる環境だったため、毎晩祖母の部屋に自然と全員が集まった。
テラスからサンセットがとても美しく、八重山の海が真っ赤に染まった瞬間にその夕陽を背景にフォロワー数6万人のインスタグラマーである兄が撮影した祖母の写真は、結果的に祖母の遺影になった。
お気に入りのヒョウ柄の肌着で、通夜の会場で仏壇に飾られたその遺影を見て私たちは大いに笑った。

20年ぶりの再会

祖母の次女(母)と三女(叔母)の家族はそれぞれ3人の子供がおり、次女(母)の子はは兄・私・弟の3人兄弟。三女のところの子は3人とも男という超男家系である。その中で唯一の生物学的女性として位置づけられた私だが、幼少期に海に行ったときは女用の水着がないと言って海パンを履かされ海に突っ込まれたし、幼少期はレゴかかまくらづくりににいそしんでいたため、自分が女だと意識するにはいささか不便な環境にもあった。私の性自認に影響があったことはまた別の機会に述べることとする。

96歳人生最後の旅を終え、味をしめる

96歳で石垣島への3時間超のフライト&1時間の高速船へ見事に適応をし小浜島への旅を果たした祖母は、味をしめた。薬剤師の弟から見ても今これだけ元気であればまだまだ生きる、人生100年時代の化身として扱うべきという意見まで出た。
その予想は正しく祖母は小浜島旅行以降さらにエネルギーを増し、味をしめたように来年も旅へ出たいと言った。いやもしかしたら味をしめたのは親世代かもしれないが、そんなことはどうでも良いから2019年もまた行こうということになった。

フライトはそれぞれの持ち出しだが、宿代は出してくれるというので孫世代の我々はそれに嬉々として乗っかった。なにより両親や叔母叔父が楽しんでいたため、それを無下にするわけにもいかないという謎の理論で我々孫も97歳・人生最後の旅にお供することになった。

97歳・人生最後の旅は宮古島へ(2019年6月)

96歳で石垣島へ行っていたため、97歳では少しだけフライトの短い目的地を選択する必要があり、自動的に宮古島が選択された。
1年前と同様に祖母は上機嫌で宮古牛をペロリとたいらげて、伊良部島のシーカヤックのツアーでは「これまでで最高齢を樹立した!」とツアー会社に喜ばれた。私はダイビングライセンスを持っていない弟を連れて伊良部島へ二人でダイビングに行き、叔父はなぜか1人でパラセーリングに行くなど個人行動だらけの極めて自由な時間を過ごした。

結果的に人生最後の旅の3か月後、祖母は旅立った

宮古牛をペロリとたいらげる祖母を見て、薬剤師の弟は「この感じだと来年も生きている」と言った。バックパッカーはみな食が細くなるように私も1日2食で長年暮らしていたため、宮古牛の店で肉を平らげる祖母を見て、私よりも食欲があるとも感じた。

ウィーンで受けた余命宣告の一報

祖母が余命宣告を受けた日、私は「旅をしながら働く」実証実験として1ヶ月間の東欧旅をしていた。お盆を間に挟む8月は絶好の機会であるため多分に漏れず海外に身を置き、その旅の終着点であるウィーンで祖母が危篤であるという情報が届いた。こんな形で宮古島の時に作っていたグループLINEが役に立つとは思ってもみなかった。すい臓がんだった。10年越しのムージクフェラインザールで生音を浴びながら、祖母の人生の終わりに思いを馳せた。

準備が整っていないのは私の方だった

結果的に、私が帰国した直後に祖母は亡くなった。両親と叔母叔父は祖母の人生の終わり方を終始考えて、自宅で看取る方針で状況を整えていた。
両親を含めてわりかし慌てふためく人種が家系に多いと思っていたので、終わりのタイミングでは私がなんらか対応に加勢すべきではと思っていたが、そんなことはなかった。
祖母が亡くなったときたまたま横浜にいてすぐに駆け付けられる状態にあった私にも、「こなくて大丈夫だよー」とわりかし普段通りのテンションで電話越しに言った。川崎市では火葬場が1か所しかなく順番待ちになり、葬儀は1週間後になってしまうのですぐに葬儀屋に引き取られ冷凍保存された。

宮古島グループLINEには、通夜の後に二次会やりまーす!みんな奮ってご参加くださーい!というあっぱれというべき連絡まで投稿された。

祖母の遺骨はとんでもなく軽かったが、重かった

2019年9月、私がウィーンから帰国して2週間後に祖母は亡くなった。すい臓がんで余命宣告をされたというのは帰国2日前にウィーンにて聞いていたので覚悟していたことでもあった。川崎北部唯一の葬祭場で拾った祖母の骨はとんでもなく軽かったが、20年も会っていなかった全国津々浦々に散らばっている親戚一同を集めた祖母の力は偉大過ぎてこの先の人生をかけても、勝てる気がしないとも思った。

遺影の前でピースサイン

仲の良かった三女の孫らとも20年ぶり、疎遠だった長女の孫らとは30年ぶりに葬儀で再会した。全員で祖母の遺体の前でピースをしたし、生前の遺言であった「千の風になって」が葬儀中延々と流れていた。実家に住んでいる兄が諸々の面倒な役割を押し付けられた結果、ネットからDVDに落としたらしいものであった。
我々は理解した。「私の墓場の前で泣かないでください」ってことは、散骨してくださいってことですよね?と。

墓に入る選択肢はあるか

私が小学4年生の時に亡くなった祖父の墓が足利にあった。当時私は北海道に住んでいたため、なんで羽田まで飛んだ挙句にこの片田舎までこなければいけないのかと不満さえ感じていた。とはいえ祖父の吸っていたセブンスターの香りとくゆらす煙のゆらぎが好きだったのもまた事実である。
私は共働き夫婦の3人兄弟の中間子で母親の原付の足元に乗せられて保育園に送られて、帰りは祖母が迎えに来ていた記憶も残っている。祖父が亡くなったのは小学4~5年生だったので、祖母は配偶者を亡くしてから四半世紀を生きたことになる。四半世紀遅れで足利の墓に入るらしいがそれはいつか墓じまいされるとのこと。
馬鹿にならないな、人生の終わり方。

祖母が97歳で亡くなって気づいた「人生の終わり方」について

小浜島で撮影した遺影の前で、ピースサインをした集合写真を撮った。たぶん次に全員が集まるのは、次の誰かが死んだ時になるだろう。

私が97歳で死んだとしたらあと60年後。子や孫が私の遺影の前でピースサインをしてくれるのだとしたら、なんて素晴らしい人生だろうと思った。このことをきっかけに私の人生は少し変わった。今はその少しベクトルを変えた道を地に足つけて歩いているし、楽しんでいる。

旅先から送り続けたハガキ

旅先で必ず祖母にハガキを送っていて、それらを棺に入れてもらった。棺の中央にはヒョウ柄の肌着が堂々と鎮座していて、最後のお別れなのになんだか笑えた。
祖母の家の電話台の引き出しに私が送ったハガキが仕舞われていたのだが、電話中にメモが近くになかったのか、見知らぬ人の電話番号やメモ書きがされていて、そのぞんざいな扱いにも笑けた。

(メモ書きが書かれたのは燃やしてしまった)

祖母の願いだった98歳・人生最後の旅はかなわなかったけれども、祖母の遺言は「千の風になって」だし、遺骨を振りまくために祖母の遺産で沖縄トリップすることは問題ないだろうと、散骨旅の企画を立てた。

海で散骨する方法

散骨するには分骨などの法的な手続きがいるのではないかと通夜の場でみなでググったが行き過ぎた量でなければ問題ない。海にまくのも見ている人が引くような喪服の団体で仰々しく船に乗るなどしなければ良いとのこと。すべては程度問題だ、ということを初めて知った。(本当に正しい情報なのかは不明なのであしからず。)

なので2020年5月末、つまり今日に散骨する予定だったが言わずもがなその計画は崩れることになった。いまは祖母の家の食器棚にあった梅干を保存する小さなツボの中にささやかな祖母の骨が保管されている。

人生最後の旅のつづき

2021年5月末に必ず散骨しようと思う。それで我々の家族旅行はいったん終了とする。
もしかしたら次集まるのは両親世代の誰かの葬儀かもしれないけれども、その時も笑って遺影の前でピース出来るような人生を両親には送ってほしい。私もそうなりたいと思っている。

あー、はやく海に行きたい。

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