「グローバル化」といふ言葉について思ふ事

始めに

新聞や雑誌、或はウェブ上の記事を見てゐる時、屢々目にする言葉といふものは色々あると思ふ。「グローバル化」と言ふ言葉は、その代表例である。この言葉について思ふ事を、以下に書きつけてみたい。

1 日本に於ける「グローバル化」といふ言葉:その使はれ方と現れ方

「グローバル化」といふ言葉は、近30年間、絶えず叫ばれてをり、もはや標語となつてゐる。同じくここ30年に亙って叫ばれてゐる標語の一つに、「改革」がある。そして、「改革」の名の下で発案・実施される種々の試みの中身は「グローバル化」である、と言つても殆ど差し支へがない程である。

「グローバル化」とは、人、物、金(即ち労働力、商品、資本)が国境を越えて移動する事を指すのだといふ。この説明は、市場経済といふ文脈から与へられたものである。また、日本で「グローバル化」と言はれる時、多くの場合、”海外へ打つて出る”とか、”「グローバル・スタンダード(国際標準)」に追ひつく”といつた意味を含んでゐる。従つて日本では、外に打つて出てゐる感じがする事を「グローバル化」と呼んでゐるのである。

尤も、日本で「グローバル化」といふ言葉が使はれる光景を見ると、話は上に述べた事だけに止まるものではないらしい。日本で「グローバル化」といふ言葉が用ゐられる時、それは一種の抗し難い圧力として現れてくる。日本では、「グローバル化」といふ言葉が錦の御旗として機能してゐる、と言つても過言ではない。

2 「グローバル化」のモデル、及びその点に関する疑問

ところで、さうした光景を見る時、次の様な疑問が浮ぶ。人々は「グローバル化」と言ふ時、その脳裏に何を思ひ浮べてゐるのだらうか。換言すると、人々は何を「グローバル化」のモデルとしてゐるのだらうか。

尤も、この疑問は殆ど悩む必要がない。人々は「グローバル化」と言ふ時、欧米諸国を――殊にアメリカを――モデルとしてゐる。かうした状況は、中華人民共和国が存在感を強めてきた現在に於ても変つてゐない。否、話は「グローバル化」に限らない。日本は明治期以来、常にさうだつたと言へる。

そこで第二の疑問が生じる。日本人が「グローバル化」のモデルとしてゐる欧米諸国の人々は、我々が「グローバル化」と呼んでゐる種々の現象と向合ふ時、”外に打つて出る”といふ形で考へてゐるのだらうか。

3 外に向う事と内に向ふ事と

確かに、GoogleやAppleといつたIT系の巨大企業は、地球上の至る所で事業を行つてゐる。他の業種でも、GoogleやAppleなどに相当する様な企業が欧米諸国にはあるのだらう。物理的に見ると、欧米諸国の活動は外に向つてゐる様に見える。

しかし外に向つて広がるだけでは、遠心力が働くばかりで、外に向はうとする主体そのものが分裂し、消滅してしまふ。そこで、或る主体が外に向ふ時には、求心的な力が同時に働き、主体そのものの分裂を防がなければならない。

そして、我々が「グローバル化」と呼んでゐる現象は実際のところ、恰も磁石が砂鉄を引寄せる如く、欧米諸国が磁力の発生源となる形で展開してゐる。かかる「グローバル化」の在り方は次の事を暗示する。欧米諸国は「グローバル化」と呼ばれてゐる事と向合ふ時、外に打つて出るといふよりも、むしろ磁力の発生源としての自己を如何に維持するかといふ、保守的な方向性で物事を考へてゐるのではないか。近代史を一瞥しても、その様に見るのが妥当な事と考へられる。

4 モデル視する側とモデル視される側の擦違ひ

然りとすれば、日本と欧米諸国とは、「グローバル化」といふものと向合ふ時の考へ方が正反対といふ事になる。そして、これは日本にとつて困つた事になりはしないだらうか。その様に考へる理由は二つある。

第一に、日本と欧米諸国は、「グローバル化」について話をする過程で、擦違ひを起す事が考へられるからである。それはかういふ事である。両者が同じ単語——英語のglobalization——を使ひ、同じ様な論調——何かが外に向つて拡散していく様な感じ――の議論をし、一応の結論に達したとする。しかし、「グローバル化」に向合ふ時の考へ方が、二者の間で異るとすれば、たとへ表面的には話が纏つた様に見えてゐても、その裏に擦違ひが潜んでゐる可能性がある。日本は欧米諸国をモデル視してゐるだけに、かうした可能性に気付き辛い状況に置かれてゐるのではないだらうか。

そして第一の理由と表裏一体の形で、第二の理由が出てくる。即ち、欧米諸国で行はれてゐる事が、日本でも上手くいくとは限らない事に気付き辛くなる、と考へられるからである。

前章に於て、欧米諸国は如何に磁力の発生源としてあり続けるかといふ方向性で物事を考へてゐるのではないか、と述べた。それは言ひ換へると、欧米諸国は良くも悪くも、過去を継承しつつ物事に取組んでゐるといふ事、或は自らの好みや都合に照し合せる形で、物事に取組んでゐるといふ事である。その結果は次の様な形として現れる事になると思ふ。日本がモデル視してゐる欧米諸国は、自らの長所がそのまま短所に通じる事をどこかで感じつつ、その弱点との付合ひ方を模索する。その試みを通じて、短所を長所へと転化させ得る様な回路を、自分に適した形で組上げる。

しかし日本が欧米諸国の試みをモデルとし、類似の試みを行ふ段になると、行はれる事の性格は、往々にして変つてゐる様に見える。それは過去の継承といふよりも、短所を抱へる過去の否定として現れる。古いものは悪いものとされるのである。その結果は次の様な形として現れる事になると思ふ。日本は”古いもの=悪いもの”と見る態度の下、弱点のない状態を求めて、欧米諸国に倣つた「改革」を推進する。ところが、それによつて却つて自らの弱点の所在やその形が見え辛くなり、弱点との付合ひ方の見通しをつけられなくなるといふ、より深刻な弱点を生み出してしまふのである。

終りに

「グローバル化」や「改革」が叫ばれてゐる今日、上に述べた様な傾向が、種々の分野で見られるのではないだらうか。尤も、かかる傾向は、「グローバル化」といふ言葉が錦の御旗として通用してゐる以上、ブレーキを利かせられる様な状態ではないのかもしれない。










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