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松本人志監督が世界とつながろうとした『しんぼる』

以前、『電波少年』で自分の笑いが世界に通用するのかを試した松本人志。あの企画が成功したかどうかはわからないが、『HITOSI MATUMOTO VISUALBUM』のオーディオコメンタリーかなにかで、松本の下ネタのコントを見たアメリカ人の親子がかんかんに怒って帰っていった、というエピソードを語っていたと記憶している。
 
そんな「世界」との相性がよくなかったはずの松本人志監督は、『大日本人』を引っ提げて、カンヌ映画祭で「世界」と直面した。おそらく、上々の反応だったのだろう。この作品のメイキングでカンヌでの様子が見られるが、松本人志自身も上機嫌のようだった。


世界とつながろうとする『しんぼる』


だから、松本人志は映画で世界とつながれると思ったのではないだろうか? 次作『しんぼる』は、まさに松本人志が世界とつながろうとした作品だ。だから、自分はどうやったら世界とつながれるのかを突き詰めた、内省的な映画といってもいいだろう。
 
全体として並行モンタージュで構成されている。なんだかグリフィスの『イントレランス』みたいな感じだが、松本さんは見たことあるのかしら? まあこのテクニック自体は古くからあるものである。
 
物語は、ある空間に閉じ込められた男と、メキシコのルチャリブレのレスラーというまったく別の場所にいる二人が、あるところでスパークして、文字通り「つながる」。そのあと、このつながりは世界のいろんなところへも連鎖していく。

『しんぼる』とモンタージュ


モンタージュは松本人志の笑いの根本にあるテクニックだ。異なるふたつの要素をつないで、新しい笑いを作り出すのである。「面雀」は典型的な事例ですよね。
 
『しんぼる』は、並行モンタージュを使っているわけですから、こうした松本おなじみのテクニックを映画的に表現したともいえる。
 
でも、『しんぼる』にあるのは、閉じ込められた空間で脱出の失敗を繰り返すとかである。これは何を意味しているのか? この失敗の連続は、もしかしたら松本人志の自画像かもしれない。
 
ギャグを生み出すときの、何をやってもうまくいかない苦悩というか。でも、この失敗が、これまで松本人志がコントで表現してきたような笑い、すなわち「トカゲのおっさん」のような松本得意の「哀愁笑い」にはどうもつながらない。松本自身の苦悩は、私たちには見慣れない光景である。
 
『しんぼる』は、松本人志が世界とつながれたという「感激」、世界とつながりたいという「欲望」から生まれた。でも、それは唐突だった。もっとギャグ映画で遊んでもよかったのではないか? もっとくだらない映画でよかったのではないか?
 
松本さんは真面目なんだろうな、やっぱり。『しんぼる』は早く作り過ぎたんだよ…。早く「世界のキタノ」に追いつきたかったのかな…。
 
続きはまた次回。(梅)

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