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やさしさとは

やさしさってなんだろう。僕は今もわからずにいる。

僕は何度か「やさしいね。」と言われたことがある。

だが僕は自分のことをやさしいと思ったことはない。

やさしいとは辞書には、他人に対して思いやりがあることとある。そういう意味では僕には当てはまらない。

ただやさしさには色んな意味があるので、他の意味では自分に当てはまるのかなとは思うものの、どうにも僕にはそう思えない。伝えられたことを素直に受け止められないひねくれが少しばかり顔を出す。

僕は人、つまり他者だったり、対象に対して無関心なだけだ。

無関心を露骨にすることも少なくない。一方でそうした無関心を悟られまいとあからさまに興味を示すこともある。

時に身近な人のことであれば無関心ではないが、誰々が結婚したとか近くに新しいショッピングモールができたことは正直言ってしまうとどうでもいい。

我ながら自分のことをさびしい人間だと思う。あれやこれやに一喜一憂できる人間というのはもちろん短所にはなろうともそれを上回る長所になり得る。

ここでいう一喜一憂とは目の前のことに必死になれるかどうかだ。決して悪い意味ではない。

結局目の前のことに懸命に取り組むことができるかどうかにかかっている気がする。最近そう思うようになった。

終わることのない無関心は最終的に自分自身さえも傍観してしまう態度に陥る。それはあまりにも悲しい。僕は少しでもいいから今まで関心を持たなかったことに目を向けてみることにしたい。

それでもいつからか芽生えた俯瞰視点がいつも無関心を連れてくるけれども。


ただ時に過剰に相手にされない、つまり無関心も使いようによって良い方に傾くこともある。

上で言ったような誰かの結婚とかショッピングモールの新設などはどうでもよくて、単なる会話の糸口にすぎないという場合だ。

あなたと話をなんでもいいからしたくて、ただ聞いてくれるだけでいいとか。ただ私の方を向いてほしいとか。

そういうとき内容に対する無関心はむしろ好都合だといえる。

向けるべき関心は話の内容ではなく、話し手本人だからだ。


僕には話し手が内容を吟味してほしいのか、それとも話し手自身を気にかけてほしいのかを見抜く能力などはない。

けれども共通しているのは、話を聞く態度なのかな。

それでもやっぱり人の話を聞かない自分も確かにいる。

僕に言ってくれたやさしさは実際のところ僕のやさしさではなく僕の無関心で、一方でときに無関心というのも必要で、関心も場合によっては使いようで。

やさしさってなんだろう。僕にはまだちょっと難しい。

ただ僕のことを「やさしい。」と言ってくれた人たちがやさしさそのものということだけ、僕には分かっている。






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