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【世界の朝ごはん】 #3 カナダ


「カナダで留学してました。」

アメリカでの1年間の留学を終えて日本に帰ってきた私に、その言葉は突然降ってきた。



「アメリカで留学してました。」っていうのが、私のその時のステータスだった。

私を「普通」とは違う、何者かを示してくれるものだった。

今になってみれば、「普通」でいることを求められる窮屈な社会での、高校生なりの最大限の抵抗だったんだと思う。


だからこそ、(私の中で)それを上回ったインパクトのある経験をした人が現れた時、私の中の創り上げたステータスがガラガラと崩れ落ちた。

そして初めて、創り上げたつもりになっていた「自分」の脆さを思い知った。


そもそも私の中には英語=アメリカという固定概念が刻み込まれていて、だからアメリカ以外の国で留学していた人々はそれだけでなんか特別な人に分類される。


小学校でスライムが流行った時、みんながノーマルスライムを持っていたのに一人だけラメ入りのスライムを持っていて、それがすごくかっこよく見えたのと同じ原理だと思う。


「カナダ」を前に崩れ去った私の創り上げた「私」を再建する方法を、見つけなければならなかった。

普通とは違う何者かである私を、他の何かで創り上げなければいけなかった。



だけど一方で、私は私以上にはなれないことも気づいていた。

SFC生です。だけどキャンパスには他の数千人もいるし。
英語が話せます。珍しいことでもないし、大事なのは話せるマインドがあるかどうか、なんだなあ。

そういう風に他のいろんな人と自分を比較することで自分を創り上げようとし続けて、何者にもなれない自分と、そんな自分を認めたいと思う自分がいることに気づけた。



大学に入ってから、本当にたくさんの人に出会った。大学、一人旅、ゲストハウス、ヒッチハイク、サークル、ひとり旅。たくさんの人と出会うことで、私は私であることがすでに何者かであるということを学んだ。

突出した特技がなくても、特別な経験がなくても、一人ひとり違うから人間って面白いし、それぞれが特別である。


お釈迦様は生まれた時、「天上天下唯我独尊」と言われたらしい。

よく誤解されてしまうようだけど、この言葉はうぬぼれでもなんでもなく、「天上天下で、私は誰とも代われることのない、何も加えることもなく唯一無二の尊い存在である」という意味である。

肩書きや学歴、経験で壁を創り上げなくても、私は私で、他の何者でもない。


そう知れたことは、私の大学生活での一番大きな学びかもしれない。


「カナダ」という言葉は、その国は、私にそんなことを思い出させてくれるおまじないのような存在だ。


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今日の朝ごはんは、カナダの朝ごはんモンティクリスト。

カナダに住んでいる友達によるとほとんど食べたことがないらしいから、日本でいうご飯と焼き魚とお味噌汁と納豆みたいな伝統的な朝ごはんなのかも。


フレンチトーストにパンとチーズを焼くだけで幸福度がマシマシになるのでぜひ。




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