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究極の〈震災後芸術〉としての『すずめの戸締まり』

宮城県のある映画館。
数百人規模で入る比較的大きな劇場と、その座席をほぼ埋め尽くす人々。

私はそこで『すずめの戸締まり』を観た。
あのとき一緒に観ていた人は、いったい何を想い、感じていたのだろうか。

「要石」をめぐるストーリー

新海誠監督の最新作『すずめの戸締まり』。
監督のネームバリューと予告映像の画の綺麗さに興味をひかれ安直に劇場に足を運んだ私は、どこかにぶつけないと破裂してしまいそうなほどの大きな感情を抱くこととなった。

ここから先はネタバレも含む内容となってしまうので、どうか注意して読んでいただきたい。

話の内容としては、女子高生のすずめが、「閉じ師」を名乗るソウタとともに災害の発生を事前に食い止めるために奔走するというようなものである。
そこに恋愛や家族、人との絆、生死の問題、そして何よりあの東日本大震災の記憶が詰め込まれている。

映画の中では、「要石(かなめいし)」が震災の発生を食い止めるための重要なファクターとして描かれ、この要石、あるいは閉じ師が適切な処置を行わなければ「ミミズ」が地震を引きおこし多くの被害が出ると説明されている。

これは間違いなく、ナマズを押さえつける要石の信仰を基にしたものである。

鯰絵「鹿島要石真図」
( C. アウエハント著,小松和彦ほか訳『鯰絵―民俗的想像力の世界』より引用)

日本では昔から要石と地震をめぐる神話が伝えられてきた。
例えばそれは次のように語られる。

鹿島神宮にある要石は、鹿島の神が降臨のとき、この石に座し給うたという。周囲60センチメートルほどの小さな石であるが、その根は地中どこまでも深く入りこみ、極めるところを知らないという。地中の大ナマズを押さえているので、常陸地方には大きな地震がないのだといわれる。
藤田稔編著(1976)『常陸の伝説』第一法規, p. 27

この要石をタケミカヅチ、つまり茨城県にある鹿島神宮の神様が担っており、この神が要石でナマズを押さえている限りは地震が起きないとする信仰が発生した。
江戸時代末期の安政2年(1855)の大地震をきっかけにこの信仰が一気に広まり作られるようになったのが、上に挙げたような鯰絵である。

言ってしまえば『すずめの戸締まり』は、ナマズをミミズに、タケミカヅチをすずめや閉じ師であるソウタに置きかえて作られた映画なのである。

ナマズとミミズとの交替は私にとってなんとも興味深いことである。
日本や近隣地域では世界を巨大な魚が背負っており、その魚が身動きすることが地震の原因であると説明する神話が分布している。

魚をミミズと置きかえたのは、地震を発生する生物として地中をうごめく生物の方がイメージしやすいと捉えたためなのであろうか。
面白い一致であるが、村上春樹もまたミミズと地震を結びつけた小説を書いている。
「かえるくん、東京を救う」(村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』収録)でもまた地底に棲む「みみずくん」が地震の原因として登場していた。

ナマズと音の響きとしても近いがために両作品でミミズが選ばれたのか、新海誠がこの村上春樹の小説に寄せたのかはわからないが、ともかく『すずめの戸締まり』では扉から放出してしまったミミズが禍々しい形で描かれ、これが地面に着いてしまえばたちまち大きな地震となると言われていた。

東日本大震災の記憶

主人公のすずめは九州で叔母と2人暮らしをする女子高生だと紹介される。
この簡単な説明と、幼少期のすずめが不気味なほど美しい世界の中でお母さんを探し歩いているシーンが冒頭に映し出されていたことと合わせて、すずめの生い立ちに関する予感めいたものを抱くことになる。
その予感はストーリーが進行し、すずめが九州から東へ、そして北へと向かっていくにつれて強固なものになっていき、「福島」「宮城」といった地名が明確に出された時点で確信となった。

すずめは2011年3月11日に発生した東日本大震災の被災者であり、母を亡くした遺族であった。

映画のなかで、すずめは幼き頃に体験した震災と向き合うことになる。その鍵となったのが、全壊したすずめの実家で掘り出された絵日記であった。
日記のなかの3月11日は、クレヨンでひたすら黒く、黒く塗りつぶされていた。

あの震災を思い出すときに、だれしもが頭の中に浮かべるのが巨大な津波であろう。
私は現在宮城県に住んでいるといっても、海沿いに居をかまえているわけでもなければ、出身は関東であるので実際にあの日を東北で過ごしたわけでもない。
それでもテレビ画面に映っていた津波の映像はとてつもない衝撃で、あんなものが本当に人の住む地にやってきたのかと今でも現実をなかなか受け止められないでいる。

今年、私は福島県の双葉町と宮城県の気仙沼を訪れる機会があった。
原発被害により人の立ち入りが制限されたことで今でも地震発生当時の光景を色濃く残している双葉町。
今後の津波による被害を防ぐため、海と陸とを完全に分かつが如く、高く強固に見える壁がずらりと設けられていた気仙沼。
『すずめの戸締まり』を観たことで、私が実際にこれらの地で見聞きしたこともまた強烈に思い出された。

実際にあの震災の被害を受けたわけでもない私でさえ震災の記憶やそれをめぐる思いが湧きおこるのだから、2011年3月11日という日をすずめと同じような場所で過ごされていた人が映画を観てどういう感情を抱いたのかが気にかかってしまう。

〈震災後芸術〉として

以前なにかの本で読んだこんな一節が頭の片隅に残っている。

「我々は『震災後文学』というジャンルを作らなければならないほど、あの震災に呼応して生み出された文学作品が数多くある。」

いとうせいこうの『想像ラジオ』、伊与原新の『ブルーネス』、綾瀬まるの『やがて海へと届く』……。
例を挙げればキリがないほど、東日本大震災を描いた小説は世に多く出されている。
最近私が読んだ辻村深月の『傲慢と善良』もまたこの一つであろう。

あの震災は確かに人の心に影響を与え、文学作品の中でも重要な要素として表されてきた。

『すずめの戸締まり』もまた、この流れの中に位置するものといえるであろう。
圧倒的な映像美と緻密なストーリーで紡がれたこの映画は、いわば究極の〈震災後芸術〉であった。

地震やそれによる被害についての事実の記憶をどのように継承するのか。
その記憶をどのように物語に写し出し、昇華するのか。
そして人々がそうした作品をどう受け止めていくのか…。

『すずめの戸締まり』は、我々が震災で直面した問いや人々の思いにあらためて向き合う契機となる作品である。



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