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「仮面ライダーに原点も頂点もない!」をどう解釈するか

「仮面ライダー・令和、ザ・ファーストジェネレーション」
怪作、元号の私物化などと名高いOver Quartzerのようなはちゃめちゃ度は鳴りを潜めゼロワンのはじまりをジオウを混ぜることで手堅く、そして上手く描いた作品だが、既に鑑賞した人なら劇中とんでもない台詞が出てきたことを知っているだろう。

「仮面ライダーに原点も頂点もない!!!」

ジオウでなければこんなこと言い切れないだろう、暴力的ですらある台詞である。
タイムジャッカー、フィーニアスがライダーの力を奪い取り、原点であるアナザー1号に変身し自分が仮面ライダーの頂点に立つという流れを受けての台詞だった(はず)

この過激な台詞をどう解釈するか、2つほどあると思う

1、その人その人に(視聴者にとって)原点(はじめて触れる仮面ライダー)や頂点(最も好きな仮面ライダー)は違う。だから仮面ライダーに(単一の)原点も頂点も無い。人の数だけ原点があり頂点がある。
という解釈
Over Quartzerでメタの領域に足を突っ込んだジオウならたしかにこれを言うのは特におかしな部分はない。

2、作中を生きている人々(ここではソウゴ、或人、他これまでの仮面ライダー作品の主役)にとって自分たちこそ仮面ライダーなのだから原点も頂点も存在などしない。という解釈。
そもそも作中世界からすれば作品としての仮面ライダーというメタ視点など無い、それこそジオウかディケイドでもなければ踏み込めない領域だが、この作品はゼロワンとジオウの映画なのでジオウに啖呵を切らせることでギリギリ踏み込んで良いラインにかかっていると思う

台詞自体の解釈としてはこのどちらかだろう。
しかしこのセリフがここまで言われているのはその言葉自体以上に間違いなく数年前に公開されたこの映画のキャッチコピーが原因だ。

「原点にして頂点。爆音をあげて蘇れ!」

………………いるじゃん。原点も頂点も。
アナザー1号に変身しているのもあって、このセリフを聞いた時この映画のことを思い浮かべた人は少なくないはずだ。原点にして頂点という言葉を掲げた映画を作っておきながら原点も頂点も無いとは何事だ。瞬間瞬間を必死で生きてるってレベルじゃねーぞと言いたくなってしまうし私も思ってしまった。

このことについて頭を悩ませていたら、あるときこう考えた。仮面ライダー1号で「原点にして頂点」というを済ませたことで令ジェネで「原点も頂点も無い」と言えるようになったのではないかと。
本郷猛の「ライダーはいつも君たちのそばにいる。何があっても君たちと一緒だ。生きて生きて生き抜け。ライダーは君たちと共にある」というラストの台詞は我々視聴者へのエールでもあり仮面ライダーをこれから作っていく若者へのエールでもあるのだと思う。
原点にして頂点を振り返り
平成ライダーという歴史を総括し
次の時代への向かうために一度過去を破壊する
破壊したっていい。なぜならライダーは何があっても君たちと一緒なのだから。

己の意義を或人の乗り越えるべき壁と再設定した父、其雄(1型)との闘い(父を倒すことで001からゼロワンに戻れるようになる)も、ラストのソウゴとのやや唐突感あるバトルも新時代への覚悟を説いているのだろう。

これを書きながらそういえばオダギリジョーがクウガについて語った高寺Pとのラジオで「特撮は好きではなかったが製作陣のクウガで新しいことをやろうとしているというその熱意を感じていてそれに共感して参加した」といった話をしていたのを思い出した。
仮面ライダーのチャレンジ精神、良くも悪くも過去にとらわれないその姿勢はクウガのころから確かに受け継がれているのだ。仮面ライダークウガ20周年、本当におめでとうございます。

仮面ライダーに原点も頂点も無いをどう解釈するか考えていたら私の原点であるクウガ20周年を祝っていた。おあとがよろしいようで。


余談:最近勝手に感じていることなのだが、仮面ライダー1号が今後映像作品に出ることはもう無いのでは?という気がするのだ。仮面ライダー1号であの姿が変わった1号(ネオ1号)が出たわけだが今後春映画に1号が出る時はネオ1号か旧来の1号なのかどっちなのか、と友人と冗談めかして話しあったりしたことがあったが、超スーパーヒーロー大戦には1号は登場せず、ビルド以降春映画自体が作られなくなった。来年は仮面ライダー生誕50周年、さてどうなるか?


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