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人はどう変わるかで評価できる

コロナ以降、終始インフルエンザと比較して、コロナとどのように向き合い、また対策はどうあるべきかを論じて来られた氏だが氏のインフルエンザへの見方とコロナの見方、そして態度の変化を見ていくと非常に面白い。

氏にとってインフルエンザは、仕事を奪う大変迷惑な病であり、何としてでも、最低自分は感染せずに済むようにと、新型コロナなんて言葉が出てくる遥か以前から、徹底して消毒やワクチンを他者に強制してこられた。

身勝手極まりないが、自身はワクチンは打たず、その他の対策はしっかりとやっていたが、ワクチンは不安だから他者にだけ打たせていたのだ。

実に身勝手極まりない。

そんな氏はコロナが流行り出したとメディアが騒ぎ出した時、真っ先に「じゃあインフルは?」と疑問に思い、調べてみると、毎年直接死で3千、間接死で1万程度が死んでいることに着目し、コロナが本当に恐ろしい病かどうかを、このラインを超えるかどうかで判断しようと考えられた。

実に常識的だろう。

まず類似する感染症に着目し、それを許容してきた過去、事実をまずは肯定し、前例として特別な対策を実施するか否かの「閾値(いきち、しきいち)」を設け、それを超えて初めて、これまでにないものであるとの判断のもと、新しい、そして強力な対応を求めると、しかもその場合でも憲法の範囲を逸脱しないことを前提に考えるとの姿勢なのだ。

確かにそこには専門的知識と言われるものはないだろう。一般的、教養、常識、と呼ぶものの範囲内だろう。だがそれこそが今の世の中完全に無視されているから恐ろしいのだ。

氏は、定期的にゲストを呼んだりして講演会的イベントを実施されているが、その中で出会った「萬田緑平」氏の影響もあり、また世間の異常な対策とそこから見える醜い生への執着への嫌悪感から、氏は今の感染対策への熱を、圧力とその原因(執着)の異常さを警戒すべきものと判断し、徹底して批判しておられる。

そのような変遷を踏まえた上で冒頭のブログを読むと面白い。

氏は、己のビジネスの為に、コロナ以前は対策を徹底し(させ)、コロナ以降は国家、社会の為に対策が過剰であると唱えるようになり、

逆に世間の空気と言うものは、コロナ以前は感染症なんて全く気にもせず、コロナ以降は変な知識を得たせいで、勉強もせずにコロナ恐怖の空気を作り、そこに埋没してきたのだ。

君子豹変すとは言うが、人がどんな時に、どんな状況で、どのように変わるのか、と言うのはやはりその変容に至るまでの思考にこそ価値があると言えるだろう。

果たして我々はどのように変化し、あるいは変化せず、今を過ごしているだろうか。

そこに思考はあるだろうか。

それを説明できるようになって初めて一人前だと俺は思う。

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