ひとり出版社創業日記⑦潮目が変わり、職業人生ラストフェイズへ
こんにちは、UMA(ゆま)です。「来年、ひとり出版社を立ち上げることが目標です」と昨年、2023年の春にnoteで宣言してからの2024年。自分に言い聞かせるように周囲に伝えてきたのがよかったのか、年明けからわりにせっせと動いて、3月に無事に合同会社 Studio K を設立しました。その経緯の記録、第7回、たぶん最終回です。
あらためて、なぜ、創業しようと思ったのかをもう一度振り返っておきたいと思います。
人に聞かれて、よく言っていたのは、こんなことです。
子どものころから本、とくに美しい本が好きだったから。
これまで本に関わるいろいろな仕事をしてきて、最後はぜんぶやってみたかったから。
甥っ子アーティストの画集を作りたいと思ったから。
これらの理由はぜんぶほんとうです。
でも、どれも「それだけではそのままで終わってしまいそう」な話です。
そうならなかったのは、自分の職業人生で「潮目が変わった」のを感じたことでした。
そういう「潮目」ってあると思います。「ここだ」みたいなもの。40代までなら、突然訪れるというものもあったけれど、それ以降になると、ちょっとした違和感とか予感のようなものが続いて、ある時点で腰を上げざるを得なくさせるような力、といえばいいでしょうか。
これまでにも何度か、そういう潮目はありました。実務翻訳から出版翻訳に手を広げた時、翻訳業にライター業も加わった時、写真を始めた時、製本に興味を持った時ーー。
この数年、なんとなく感じていたことがあります。
いまの仕事(生活を支えているクライアントワークの方)は好きですが、ここから先、たぶん、今年60歳になるという年齢でいえば、最後の10年とか15年とか、このまま続けることが、どうしても思い描けない。
状況も変化していました。コロナの影響に加えて、自分の体力の低下もいなめません。
そして、私に長いあいだ、仕事をくれていた人たちが現場を離れるようになって、思いました。
もう、私もここにいてはいけないのだな。
後任の若い担当者には、彼らのやり方があるでしょう。制作スタッフも変わったほうがいいのです。私もそうやって経験を積ませてもらったのですから。
しがみつくのは、よくない。
そうして、私は腹を決めました。
仕事をもらう側ではなく、つくる側になろう。
チャンスを作ってあげようとか、そんなだいそれた気持ちではありません。素敵な人たちに自分から声をかけて、一緒にいいものを作りたい、その方がおもしろそうだと思ったのです。
かつて有限会社を立ち上げた時は、うまくできなかったけれど、あれからまた20年たっています。
当時は、自分を前に出しすぎだったかもしれません。でも、私も人として、あれから多少はやわらかくなったかも。ちょっと期待。
かくして、合同会社Studio Kはできました。
会社を立ち上げてから、諸々の手続きがあったり、会計処理が今まで以上にややこしかったり、お役所から「なんとか番号」をつけられたりして、正直なところ、めんどうな気分におちいることもあります。
なにしろ、いままで、「大海でひよひよしている笹舟」を通してきたので、いくら一番小さいやつといっても、モーターのついたボートに乗りかえたら、あたふたします。
といっても、同じ創業でも、物理的に店舗を構える人、社員を雇う人、材料の仕入れや機械の導入などがある人にくらべれば、昔から「机ひとつあればできる」と言われている出版業、極めてシンプルなはずなんですけどね。
まだ、右も左もわかっていません。やりながら人に教わり、失敗しながら覚えていこうと思っています。また、そんなことは「創業一年目日記」として書いていければ。
そういえば先日、印刷や製本の相談をしていて「見積もり出します」と言われて、「あ、そういうことか」と思いました。私にとって見積もりというのは、こちらから出すことはあっても、出されるものではなかったのです。
発注者ってこういうことなの?!
……笑えますが、こんな感じです。
とりあえずは今年中に甥っ子アーティスト、木下晃希の画集を作ることを目指します。
職業人生ラストフェイズでしょう。最後に「おもしろかった」と言えたらいいな。
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