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「福島」と12年、写真家として向き合って

2011年の東日本大震災以降、福島の写真を撮ってきました。これまでに4つのシリーズを制作、発表しています。写真家としての活動の中では、長いプロジェクトになりました。震災から12年目を迎えるにあたって、何を考えながら作品をつくってきたかを振り返りたいと思います。

なお、写真はすべてCONTAX645で撮影、フィルムはカラーはFUJI PRO400、モノクロはKodak TMAX400、上川崎和紙に乳剤を塗布してプリントしています。

東京から「自分に何が撮れる?」

2011年3月11日午後2時46分、私は東京の自宅にいました。やがてテレビやネットで情報がどんどん入ってきて、その様子に目が釘付けになりました。とっさに「撮りにいかなければ」という気持ちが起こりました。「写真家ならば、記録しなければ」と思ったのです。

でも、実際に現地に入ったのは1カ月くらいたってからです。すぐに行かなかった最大の理由は「迷い」です。記録しなければと思ったものの、それは自分でなければいけないのか。すでに膨大な写真や動画がネット上にあふれ、その量は増える一方でしたから、記録としては十分にあるのです。そこで報道写真家でもない自分に何が撮れるのか、撮って何になるのか。そもそも「撮らなければ」などと使命感めいたことを口にしても、じつは「撮りたい」という勝手な欲望ではないのか。福島とはそれまで何の縁もなかったことも、一種のうしろめたさを強めます。好奇心、興味本位、もしかしたら「すごい写真が撮れるかも」という下心すらあるのではないか。そんな気持ちがぐるぐる渦巻いていました。そもそも写真なんて、音楽のようにその場で人を勇気づけられるわけでも、慰められるわけでもない。

それでも、気持ちは「やめる」という方向には向きませんでした。そこで、とにかく一度行ってみることにしました。何にもならなくても、わがままでも、好奇心でもいい。とにかく地元の方たちの生活のじゃまはしないことだけ気をつけて、こっそり行ってみよう。そして実際に行って撮ってみると、「もう傍観者ではない」という勝手な意気込みが生まれてしまいました。シャッターを切った瞬間に、何か、自分の手で、意味のあるものが残せそうな気がしてきます。これはきっと自己満足だ、それでも、もう一度、もう一度と通っているうちに知り合いもできて、他の写真家といっしょに、2年間は福島県立博物館の記録プロジェクトにも参加するようになりました。

2011年、相馬港。大潮の早朝。
2011年、南相馬市。
2012年、葛尾村。昔ながらの森の神さま。


撮影しながら自分に「何様だよ」

被災地の中でも撮影は福島と決めていました。それは津波、地震に加えて、原子力発電所事故の被害を受けた場所だったからです。特別に何か活動をしていたわけではなかったものの、かねてから原発には疑問を持っていました。かつてドイツに住んでいたことがあって、そのころチェルノブイリからすでに8年くらいたっていたのですが、それでもドイツ人が日常会話で頻繁に原子力発電反対の話をしていたのが印象的でした。そういうふうに一般の人たちが声を上げ、関心を持ち続けていたことが、最終的には脱原発につながったのだと思います。日本は、私たちはどう対応していくのだろう。そこで、福島では、沿岸地域のほか、風向きで放射性物質が流れ、降り注いだために避難を余儀なくされた山間地域にもよく通いました。

撮影先では、いつも胸が押しつぶされそうでした。悲しみも怒りも突き抜けて、無力感に襲われます。同時に分裂気味にそういうものに惹かれる自分もいます。でも、そう思いながら撮ると、そういう写真になってしまう。被災した方のことを思うと不遜でしかない。直接お話をうかがったみなさんの顔が頭に浮かび、思わず自分に言いたくなるのは「何様だよ」です。謙虚になれよ。でも、謙虚だったら、こんなところにいないのか。逡巡した挙句、構えたカメラを下ろしたこともありました。とはいえ、正直に言えば、無遠慮にシャッターを切ったことの方が多いでしょう。

もっと人に寄り添った写真が撮れる人がいます。あるいはもっと政治的意図の明確な写真が撮れる人がいます。内面を探るにしても、私が見逃すようなところで、もっと深く、優しくすくい上げるがいます。写真を撮ることは、自分の未熟さ、あさましさを突きつけられることでもあります。

2014年、南相馬市。海沿いに遊歩道があった。
2013年、浪江町。避難した方たちはすぐに帰ってこられると信じていた。
2013年、南相馬市。地域の墓地を守っているような桜。


展示17回、撮影者を超える「写真の力」

これまで、個展、合同展を合わせて、福島で撮影した写真で17回、展示を行ってきました。そのうち、海外での展示は5回です。でも、展示をする時も葛藤があります。地元の方のなかには「福島を忘れないでほしい、福島だけのことにしないでほしい、撮って見せてくれてかまわない」と言ってくださる方もいれば、「もうやめてほしい」という方もいらっしゃいます。風評被害につながらないともかぎらない。すべての人に納得してもらうことは無理だとしても、写真にはそれだけ残酷な性質があります。

それでも展示をしてきたのはなぜかと自問すると、写真には残酷な性質があると同時に、撮影者の意図を超えて、何かを伝える力も持っていると思っているからです。自分がくよくよ思案する以上に、何か人の心に残るもの、訴えるものがあるのではないかと。そういう写真の力を信じたい。実際に会場で、思いもよらなかった感想を聞いて、自分の写真の見方が変わることもあります。

私は写真を撮る時、できるだけ自分の存在を消そうと思っています。「写真を通して何が伝えたいのか」と聞かれて、答えに窮しつつ願うのは、「写っているものが伝えたかったことが伝わること」です。たまたまであっても、その場に居合わせ、その声を引き受けた者の務めでもあります。表現者という言葉をかぶせられると、ぶかぶかの服を着た時のように戸惑ってしまう。伝達者になれれば本望です。

大熊町、2019年。かつては子どもたちが集まる広場だったとおぼしき場所には草やつる性の植物が大人の背の高さを超えて生い茂っていて、どこに何があるのかさっぱりわからなかった。それでも、わずかに隙間があるところから分け入っていくと、シンボルツリーの紅葉とその土台にたどりついた。丸っこい形のクルマの遊具がその傍らに佇んでいる。最初にこの遊具を見たのは夏だった。その時は青々とした葉の間から差し込む夏の光を浴びていた。やがて秋には紅葉に染まり、冬は枯葉をまとい、春は桜が背景を飾った。いくつもの季節がめぐってなお、このクルマはぎゅっと握る小さな手の感触を覚えている。
大熊町、2020年。大熊町の人たちに「お花見の名所はどこですか」と尋ねると、「どこだったかねえ?」という答えしか返ってこない。忘れたのかと思ったら、そうではなかった。桜の季節に来て、その理由がよくわかった。普通の道沿いに、川沿いに、どこにでも花はたっぷりと咲いていて、日々通りかかるだけでお花見なのだった。今年もまた、人の姿が消えたこの町にも、桜の季節がやってくる。


大地の記憶、風の祈り

作曲家の中島まさるさんが私の写真に美しい音楽を合わせてくれました。地元の方に唄っていただいた力強い手踊り唄が心にしみます。
震災12年目を迎える朝に。祈りをこめて。


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