すべてが馬になる

府中の森公園で四本脚の未確認生物が発見されたのは、ハルウララが失踪してからちょうど一週間後のことだった。

時刻、午後17時47分。第一発見者は「ハルウララ失踪事件捜査本部」の副本部長であるエアグルーヴだった。

エアグルーヴは茂みの中からぬっと現れた見慣れない巨大動物との遭遇に身構えた。そいつは吠え散らすでも襲いかかるでもなくクリクリと首を傾げると、地面に繁茂する草を食みはじめた。

エアグルーヴはその生き物の動向をしばし窺ったあとで、恐る恐る頭部に触れてみた。なぜそうしたいと思ったのかはわからなかったが、そこには憐憫に近い感情があった。巨大動物は「グッグッ」と短い鳴き声を上げながらおとなしく草を食み続けていた。

輪郭のぼやけたチャイムが鳴り、エアグルーヴは自分がやるべき仕事がハルウララの捜索であることを思い出した。彼女は巨大動物に踵を返し、その場を去ろうとした。しかし巨大動物はエアグルーヴのあとをぴったりと尾けてきた。

「来るんじゃない!」

エアグルーヴはピシャリとそう言った。背後で寂しげな唸り声が聞こえた。

エアグルーヴは公園出口から小金井街道に面した歩道に出かけたところで足を止めた。無数のライトが右へ左へ高速で流れていく。

ふと振り返ると10メートルほど後方で例の生き物がこちらを見つめていた。エアグルーヴは溜息をついてから「来い」と言った。

巨大動物は返事の代わりに「ヒヒーン」と嘶くと彼女のそばに駆け寄っていった。



「なるほど、なるほど」

卓上の観葉植物をペロペロと舐めている巨大動物を見やりながらシンボリルドルフが言った。経験と現実の間に横たわる甚だしい距離を「なるほど」という発語によって無理やり縮めているようだった。

「あの、会長」エアグルーヴが言った。「こいつは一体何なのでしょうか」

「Unidentified Mysterious Animal」流暢な発音でシンボリルドルフは答えた。「要するにUMAというやつだな」

「…そのくらいは私にも理解できます」

「ウマ娘が発見したUMAなのだから…ここは『うま』と命名してみてはどうだろうか?」

「あの、つまり何も存じ上げないということでよろしいですね?」

「いや、これは『うま』というんだよ、エアグルーヴ」

「そういう話では…」

「『うま』というんだ、いいね?」

エアグルーヴは渋々頷いた。それからハルウララの捜索活動のほうには全く進展がないことをシンボリルドルフに報告した。彼女は捜査本部の本部長だった。エアグルーヴは報告の最後にこう付言した。

「これは私の身勝手な憶測なのですが、ハルウララが消えたこととこの生き物…つまり『うま』が現れたことの間には何かしら関係があるように思います」

「いいかエアグルーヴ、物語があるのではない。」シンボリルドルフは諭すように言った。「個々の物理現象があるだけなんだ。君の悲傷憔悴の心境は察するに余りあるけれども、そこを安易に接続してはいけない」

その通りかもしれない、とエアグルーヴは思った。ハルウララの消失と「うま」の出現がいくら時系列的に正しく因果を結んでいるとしても、そこに偶然以上の何かがあることを証明できるだろうか?

ハルウララの捜索中にたまたま「うま」がいただけ、エアグルーヴはそう思うことにした。



先月まで「ハルウララ失踪事件捜査本部」と銘打たれていた組織は、今や「トレセン学園生徒連続失踪事件捜査本部」にまで規模を拡大させていた。エアグルーヴは依然本部長として学園近辺をくまなく探し回っていた。

同時に、「新種の大型哺乳類が東京都府中市を中心に多数目撃されている」というニュースが巷を騒がせていた。シンボリルドルフが口走った「うま」という呼称がどこからか広がっていき、週刊誌やスポーツ紙もこぞってそれらを「うま」と呼んだ。

学園の雰囲気は目に見えておかしくなった。「悩み事はありませんか?」「思いつめる前に」といった物々しい文句の並ぶポスターが数メートル間隔で啓示されている廊下を、「あっちに『うま』がいるらしい!」というゴシップに釣られた生徒たちが歓喜の声を上げながら駆けていく。

エアグルーヴは失踪した生徒たちの捜索に専念した。そうすることで「うま」の出現がもたらす不穏な予感を振り払おうとした。

しかし生徒会室に戻るたびにあの独特の臭気とつぶらな瞳に出くわすことになる。彼女は日に一度の「経過報告」が億劫で仕方がなかった。

その日、生徒会室のドアを叩くと返事がなかった。鍵は開いたままだった。エアグルーヴはゆっくりとドアを開いた。

そこには2頭の「うま」がいた。

シンボリルドルフの姿はどこにも見当たらなかった。

エアグルーヴはシンボリルドルフに電話をかけてみた。

卓上のiPhoneが震えて床に落ちた。

エアグルーヴはシンボリルドルフの言葉を思い出した。「物語があるのではない、個々の現象があるだけだ」。

・「うま」が増えた
・会長が消えた

両者を繋ぐ結節点はどこにも存在しない。しかしエアグルーヴにはもはや偶然を信じる余裕はなかった。逃げなければ、という焦燥と逃げられない、という諦観が同時に去来し、彼女は考えるのをやめた。景色がドロドロに溶けていき、なにもかもがまっしろになった。

部屋の中の「うま」は3頭に増えていた。



「だから私にもさっぱりわからないというのがなぜわからないんだい」

アグネスタキオンが声を荒げた。彼女は憔悴していた。数多の研究機関・報道機関の人々が彼女の研究室にひっきりなしに押しかけるようになっていたのだ。

ウマ娘の「うま」化現象は既に全世界に周知の事実だった。しかし依然としてその原因はわからない。ゆえにウマ娘研究のトップランナーであるアグネスタキオンに白羽の矢が立った。

「『うま』になってしまうウマ娘がいること。『うま』がサイやバクといった奇蹄目に分類されるということ。それ以上にわかっていることは何もない。膨大なデータをかき集め、ありとあらゆる数学的、統計学的ないし生物学的アプローチを通じてもなお、何が原因で、どういった仕組みで、ウマ娘が『うま』になってしまうのか、あるいは『うま』になったウマ娘が元の姿に戻ることができるのかについては何も突き止められていない」

記者陣の中から「現代科学では太刀打ちできないということですよね?」という声が上がった。そこには檻の外から動物をつつき回す悪童のような底意地の悪さがあった。

「なあ、頼むから静かにしていてくれないか」

アグネスタキオンはそう言って研究室の中に戻っていった。

粘り強い記者たちは三日三晩研究室の扉の前で彼女が再び姿を現すのを待った。しかし待てど暮らせど彼女は研究室の中から出てこなかった。

無理やりこじ開けるわけにもいかない記者たちがドアにべったりと耳を当てていると、マンハッタンカフェがやってきた。彼女は記者たちには目もくれずに研究室のドアを蹴破った。

1頭の「うま」がレポートの束を食んでいた。「うま」はレポートを飲み込み終わると、卓上のメモ書きに目線を移した。何かが書かれている。マンハッタンカフェは咄嗟にメモを手に取った。

「残される者たちへ。

つまり人間たちへ告げる。

なぜこんなことが起きたのか原因を究明する必要はまったくない。

まずもって原因など『ない』のだし、それに、きっと、大して興味もないのだろう?

それよりも、ウマ娘の消滅、あるいは無数の『うま』の誕生という異常な状況を前に、もう一度社会を再構築すること。そちらに心血を注いでほしい。

社会の中に『うま』たちをどのように組み込んでいくのか?すべては君たちの知性的裁量にかかっている!我々は君たちを信じている。

さあ人間ども、いつまでも古びた通念に安住すべきではない!世界は今まさに変わりつつある!まったく新たな秩序を生み出す時が来たのだ!

ああ、私自身がそれを見届けられないことだけが非常に非常に非常に非常に残念だけれども!

最後に。

願わくば我々の行き先が屠殺場でないことを…!」

「あのぉ〜、それちょっと僕にも読ませていただいてよろしいですか?」

記者の男がマンハッタンカフェに尋ねた。気がつけば彼らは研究室の中のいたるところをひっくり返しては手当たり次第にシャッターを切っていた。

マンハッタンカフェは何も答えず、読み終えたメモ書きをクシャクシャに丸めて「うま」に食べさせた。

私たちの行き先はたぶん屠殺場ですよ。

マンハッタンカフェが心の中でそう呟いた。



「うま」になってしまったウマ娘たちはどこへ行くのか?

トレセン学園はウマ娘を擁する全国唯一の教育機関として、校舎の一部を「うま」専用の厩舎に改修・開放した。厩舎は全国津々浦々から集められた「うま」ですぐさま溢れかえり、膨大な給餌代が学園の経営を圧迫した。

「うま」はウマ娘同様の筋力を誇り、厩舎の柵や壁をいとも簡単に破壊した。ウマ娘たちが教室棟で授業を受けていると雄々しい嘶きが廊下中にこだました。無数の蹄がリノリウムの床にスタッカートのリズムを刻んだ。

借金は日増しに嵩んでいった。秋川理事長は「うま」の保護活動に限界があることを悟った。

廊下を歩いていた「うま」が秋川の足元を舐めた。秋川は咄嗟に足を蹴り上げかけた。「うま」が驚いて後方にのけ反った。「うま」はその場でしばらく足踏みしたあと、フンフン唸りながら向こうへ去っていった。

秋川はその場にへたり込んだ。目を瞑り、もう一度開いたら世界がなくなってしまえばいいと思った。それでも世界はなくならない。目を開くとさっきの「うま」が遠くから自分のことを見つめていた。

秋川は右脇に抱えていたファイルを床に落とした。バラバラと書類が散る。「トレセン学園構内における『うま』の殺処分執行許可証」。

「たづな、私はどうすればいいんだ…?」



結局、トレセン学園は高い壁に囲繞された「うま」隔離施設へと姿を変えた。学校法人としての権能は剥奪され、ほとんどの生徒が他校へ転出していった。しかし一部関係者たちは「うま」の飼育スタッフとして施設内部に残り続けた。

「キタちゃん、美味しい?」

草を食む「うま」を撫でながらサトノダイヤモンドが言った。その「うま」はかつてキタサンブラックと呼ばれたウマ娘だった。キタサンブラック(うま)はサトノダイヤモンドの手のひらにこんもりと盛られた干し草を頬張っていた。

厩舎の天窓から朝の日差しが差し込み、キタサンブラック(うま)の額を照らした。艶のある太い黒毛。動物特有の生々しいテクスチャ。そういったものを見ていると、サトノダイヤモンドはキタサンブラックが既にこの世界に存在しないのではないかと不安になる。

「キタちゃんはキタちゃんだもんね」

キタサンブラック(うま)は何も答えなかった。今の彼女にできるのは、草を食むことと鼻息を荒げることだけだった。

「あなた、ここに残るおつもりなのですか?」

数ヶ月前、メジロマックイーンはサトノダイヤモンドにそう言った。メジロマックイーンは学園前に停車させたハイヤーに荷物を詰め込んでいた。

「キタサンブラックさんのことに関しては心中お察ししますけれども…」

キタサンブラックが「うま」になったニュースはそこそこ大きなニュースとなった。週刊誌が、スポーツ紙が、ウェブメディアが、こぞって彼女の実質的な死を嘆いた。

しかし数日もするとキタサンブラックは忘れ去られていた。センセーショナルなゴシップが次々とタイムラインに押し寄せ、彼女の存在はログの彼方へと追いやられていった。

ウマ娘という一大「コンテンツ」は既に終焉を迎えつつあった。もはやウマ娘が「うま」になることについて人々は特別何も思わなくなっていた。北極の氷が溶けるたびに涙を流す者がいないように。

「キタちゃんはだめなんですよ」

サトノダイヤモンドがそう言った。「だめ」が孕む意味の広さにメジロマックイーンは戸惑った。しかしサトノダイヤモンドはそれ以上何も尋ねなかった。

「では、どうかお元気で」

メジロマックイーンは彼女に会釈するとハイヤーで去っていった。

サトノダイヤモンドは高い壁に囲まれた施設の中に戻った。彼女はキタサンブラック(うま)を撫でながら、うっすらと微笑んだ。

脳裏にはかつて彼女と鍔競り合った春の天皇賞のことが思い浮かんでいた。だめだめだった私。喝采を浴びるキタちゃん。希死念慮と怨恨が陰陽図のように胃の中でぐるぐると混じり合い、私はその場に倒れ込み、激しく嘔吐した。いち早くそれに気がついたのはキタちゃんだった。

キタちゃんは私のほうに駆け寄り、うずくまる私の肩を抱いた。

私は苦しみのあまり彼女の右手の甲に爪を立ててしまった。

キタちゃんは何も言わなかった。右手を勝負服の裾で止血すると、チーズでも担ぐみたいに私を背負い上げてターフを後にした。私は気を失ったふりをしながら彼女の隆々とした脚を見つめていた。

「キタちゃん、お手」

サトノダイヤモンドがそう言うと、キタサンブラック(うま)はゆっくりと左前脚を差し出した。

「違う。逆」

キタサンブラック(うま)は右前脚を差し出した。サトノダイヤモンドがそれをそっと撫でる。黒毛をまさぐると、小さな傷跡があった。サトノダイヤモンドはそれを親指で強く押した。キタサンブラック(うま)は反射的に唸り声を上げたが、次の瞬間にはおとなしくなっていた。

「ねえ、わざとやったの、これ」

サトノダイヤモンドが言った。キタサンブラック(うま)はグッグッと短い鳴き声を上げていた。

ウマ娘が「うま」になるのは悲しいことだ、という一般論についてサトノダイヤモンドは懐疑的だ。

「今のほうが幸せだと思わない?」

サトノダイヤモンドがキタサンブラック(うま)に語りかけた。

返事はなかった。



人間たちは社会生活の中における「うま」の立ち位置を確定させつつあった。

「うま」の膂力と大きな体躯に着目したベンチャー企業は大量の「うま」をトレセン学園から引き取ると、それらを各所に高値で売却した。牧場に、好事家に、動物園に。

「うま」を商品のように取り扱うことの是非についてウマ娘たちから非難の声が上がることもあったが、それもやがて止んだ。この世界にウマ娘として存在しているウマ娘はもう僅かしか残っていなかった。

資本家たちはウマ娘時代に成績優秀だった「うま」の所有権を奪い合うことに心血を注いだ。「うま」を持つことが有産階級としてのステータスとなりつつあった。

「うま」収集はやがて「うま」同士をレースで戦わせることへと発展していった。「うま」のレースは闇賭博の温床と化したが、ほどなく競輪、競艇、オートレースに連なる第4の公営競技として公的に賭博を許可されるようになった。

「無理無理無理無理ガチきもい、マジで無理」カレンチャンが首を振る。「えだって上に乗られるんでしょ、汚いおっさんとかに」

「しかも鞭でケツめっちゃ叩かれるってゆー笑」

そう言いながらマヤノトップガンが缶コーラを啜った。

「絶対無理、キモい、無理」

「でも実際にあたしたちがそーなったら無理ともキモいとも思えないんだろーな」

「そこが一番キモいし無理」

カレンチャンが空き缶を投げ捨てた。空き缶は公園の斜面をこちらに向かってゆっくり転がり、彼女の足元で静止した。

「ねーマヤノ」とカレンチャン。「MIUMIUの来シーズンのルック見た?」

「や、まだだけど」

「耳と尻尾が出せるアイテム数えてみたんだけどね」一拍の間。「ゼロだった」

マヤノトップガンは俯いたまま黙り込んだ。やばいねー、と茶化す気にもなれなかった。自分たちがこの世界から今まさに遮断されつつあること。それも闇の中でスッとナイフを引くように、人知れず、あっさりと。

ふと地面が影に覆われ、顔を上げてみると「うま」が立っていた。「うま」は足元の空き缶に付着したコーラをペロペロ舐めていた。

マヤノトップガンは目の前の生き物とMIUMIUの間に横たわる無限の距離を思って目眩がした。



XX年後、師走。

その年の漢字は「馬」だった。

「うま」は哺乳綱奇蹄目ウマ科として生物学的にカテゴライズされた。漢字は「馬」。もはやウマ娘はこの世界にほとんど残っていなかった。

「馬」という漢字の発明は革命的だった。地面に四つん這いで這いつくばる大型動物。かつての「ウマ娘」が持っていた誇りや矜持といったものはこの漢字の発明によって完膚なきまでに打ち砕かれたといっていい。

かつてトレセン学園の理事長だった秋川は板橋区の公立高校で校長を務めていた。

教頭の発案で忘年会が開かれた。どこのコミュニティでも開かれるような、避け難い年中行事としての忘年会だった。秋川は酔っ払った若い教員の青臭い教育論に付き合い、泣き上戸の国語教師の背中をさすった。

会話の主導権は基本的に筋骨隆々の体育教師が握っていて、5秒に一回は「日体大」という言葉を発して周囲を不用意に威圧していた。幾人かの教員が適当な理由をつけてそそくさと抜けていった。

「お待たせいたしました〜」

笑顔の店員がテーブルの真ん中に置いたのは巨大な造花のようにしつらえられた馬刺しだった。トンネルを抜けた瞬間のようにその場がフッと静まり返った。秋川は皆の視線が自分に注がれていることに気がついていた。

「あの…」一人の女性教員がそう言った。「誰ですか?これ頼んだの…」

すると後方から「あーい!!」と明朗な返事が聞こえた。日体大の男だった。彼は見るからにへべれけで、居酒屋の柱に抱きついたままズルズルとそこにしゃがみ込んだ。

「今年の有馬記念はさ、俺さ絶対勝つからさ、そんでほら、つまりあれだ、願掛けってわけだよ、これ!な!俺の奢りだから!な!」

男は一人でゲラゲラ笑い転げていた。

彼以外は誰一人として笑っていなかった。店内には毒にも薬にもならないようなポップソングが大音量で流れていた。

秋川は馬刺しに目を落としながら、誰にも聞こえない声で呟いた。

「なあ、君は誰だったんだい?」

返事はなかった。

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