最近調子が戻ってきた話

 最近、調子が良いとまでは言わずとも、まずまずだ。調子の悪さはやはり、世間一般では良いとされていたとしても、自分には決して合わないものを暗示をかけるように執着する事で生まれる。そんなことを実感した。

自分に合わなかったもの、それは抽象的には「べき思考」であり、具体的には「キリスト教会」である。

 自分は宗教2世だ。親はさほど有名でもない仏教系新宗教で出会った。私も幼い頃から度々集会やらに参加してきた。小学校高学年になると、その度合いは一気に増した。とはいえ、月一で近場の宗教施設に行き、数時間拘束される程度で、話題のカルトよりはまだマシだろうけど。

 自分はキリスト教幼稚園の出身でもある。なぜ仏教徒にも関わらず入れたのか。親曰く、「道徳性が身につくと思って」。残念なことに、失敗のようだが。キリスト教や一神教の考えには馴染みは比較的あったのではないだろうか。当時から私は妄想が現実に侵食しているような、有り体に言えば目の前が見えていない奴だった。だから、神の実在を疑うことはなかった。「カミサマ、スゲー!」くらいに思っていた。

 そんな素朴な信仰は、真面目に物事を突き詰めようとしない私の生来の性格によって長く保たれた。親の宗教も、仏教に一神教的要素をぶち込んだようなものだったので、「世界を支配する神?がいて、コントロールしてくれている」という考えは変わらずに受け継いだ。

 しかし、そんな考えは毒にしかならない。神がコントロールする世界で苦難が生じた時、その咎は自分に帰す。つまり、一切の社会的環境的要素を考慮せずに、不信仰なり怠惰なりの自身の行いを原因として考えざるを得ない。今から考えると、流行りの「自己責任」とあまり変わらないように思う。しかも、それを神の権威が証明しているので、もはや自分が抗弁することは不可能だ。なぜならば、相手は世界の支配者なのだから。

 ただでさえ、社会で猛威を振るう「自己責任」を宗教的権威で補強し、自分の不甲斐なさを呪う日々。宗教は自分にとって、ただの重荷でしかなくなっていった。もちろん修行に邁進して嘘を信じ切る道もあったんだろうけど、その頃の自分には一般的な科学知識や世間的常識が教育を通じて深く入り込んでいた。当然、世界を総括する存在も疑い始めた。自分が苦しい時に教祖の顔を思い出しても、苦しみは消えない。既に幼稚園時代の妄想ワールドから多少抜け出し、冷めた性格になっていた私は結論づけた。神はいない。この宗教に救いはない、と。

 ちょうどコロナ禍が始まったことを理由に宗教施設に通うのを止めた。親とは喧嘩になったが、正直に「重荷だ」という事を話したら、数ヶ月をかけて納得してくれた。同世代の親戚も結婚の際に宗教を止める止めないで大騒ぎになっていたのが効いたみたいで、思った以上にすっぱりと切り捨てることが出来た。この辺りは、親の理性に感謝しかない。

 さて、冒頭に書いた「キリスト教会」はいつ出てくるのか。この後である。やはり人生の大半を占めた思考形態は抜け出すのが容易ではない。親の宗教を止めた後も、心に神の存在は引っかかっていたし、親は「○○(親の宗教)でなくてもいいから、宗教は信仰しといた方が良い」と言っており、話半分くらいに聞いていたが、ボディブローのようにじわりと染み込んで来ていたようだ。

 教会の扉を叩いたのは昨年のことだ。3年ほど前から、弱い自分には耐え難い出来事が続いた。詳細は伏せるが、周囲の人間が自分を見下していると思い、恐怖に陥るようになった。同時に「自分は何のために生きているんだ」という思いに駆られ、死を望むようになった。とはいえ、それをどこか他人事に思う自分もいた。これは今でも感じている感覚なんだけど。

 ともかく、罪悪感や苦痛から逃れようした。そこで不死鳥の如く蘇ったのが「世界の支配者」の観念だった。自分がなぜ生きているか、それは神様が命を与えて下さったからだ。故に、自殺で神様を否定すべきではない。これは苦痛を抱えながらも生きていくのに十分な大義名分に思えた。だから、行った。教会に。

 教会の人は良い人たちだったと思う。だけど、そもそも苦しみの根源が人間関係だった自分には、教会の村的な関係性が堪らなく苦痛だった。神経質な私は相手の目線、言葉、行動から拒否の反応を見ると、落ち着きを途端に無くす。その反応が教会でも生じてしまった。

 他にも、価値観が全く異なることを痛感させられた事も大きい。LGBTQやイスラームに対する隠しきれない蔑視を目の当たりにしてしまった。祈りの時に「イスラームから守ってください」と言う。まるで彼らが悪魔的な侵略者のように。あるいは、仏教徒や土着信仰を「偶像崇拝」といって見下し、「我らの側にキリストの勝利が」という妄言を聞いていると、何だか居心地が悪くなった。自分勝手で、傲慢で、自己省察がない。神の名によって自己反省し過ぎる癖をつけてしまった私だからこそ、それが堪らなく未熟な、愚かな姿に思えた。

 一つ一つは小さかった。けれども、それが積み重なっていき、改めてキリスト教の事を考え始めた。特に、ニーチェの『アンチクリスト』を読んだ時に一つの結論に辿りついた。自分の理想から逆算して現実を裁く悪癖。それは神しかり、道徳しかりの空想的な「普遍的真理」を予め立てることから生じる。自分の生き方を、現在をそのまま承認する事でしか救われない。全てに意味は無い。だからこそ、あとは自分が認めるか否でしかない。きっと昔読んだ『嫌われる勇気』も影響したのだろうけど、そんなことを直観した。

 元々神を感じる宗教的感覚も乏しいので、この直観は比較的素直に認めることが出来た。神はやはりいない。自分の力、周囲の力、社会の力で生きている。そこに神の介在する余地はない。よしんばいたとしても、あまりに職務怠慢なのでこちらから契約破棄しても正当性はあるだろう。

 そんな形で私の一瞬のクリスチャン生活は幕を閉じ、より親近感の湧くニーチェやらフランス現代思想やらを勉強し始めた。あとは、社会学とか、マルクスだとか。西部邁とかの思想家の本も読んでいる。宗教なんかより、余程楽しいと感じる。

 一神教の本質はファシズムだと感じた数ヶ月だった(牧師に従え、神に従え、おかしな事があっても怒るななどなど……)。今、自分は生きることに対する答えはない。けれども、学問や古典を通じて学んで行くことが、今生きる目的だ。noteでもその過程を共有したいと思う。ここには、神の居場所はない。キリスト教は存在し得ない。神を人々がなぜ信じるか、信じる効果は何かについては依然興味はある。でも、「神は約束を放棄した裏切り者 or そもそもいない」というスタンスは変わることがない。(日本の神道の考えにはある程度の妥当性を感じるけど)

 クリスチャンを止めて以来、調子がいい。それは、神の命令としての「べき思考」から解放されたからだ。それに、ニーチェのように徹底的に自他を検証するようになったからだろう。自分には、案外考えることが(上手くはないにしても)、合っているのかもしれない。

最後に、めちゃくちゃな内容と駄文だが、もし呼んでくれた人がいるのならば、感謝を。もっと上手く考え、上手く汲み上げて文章化できるようになりたい。本当に。

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