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自分の輪郭

先日同僚と話していて、ふと自分とは?という話になった。その会話は、彼が”何でも気になると調べないと気が済まない性格で、この間も食物繊維に栄養があるのか調べたら腸内バクテリアの餌になっていて…”というところから始まった。

それで、”腸内バクテリアは自分の一部だと思う?”と私が聞いたら、彼は”僕のものかな”と答えた。

似たような話を以前父としたことがあって、その時父は、自分とは?との問いに”昨日の自分と今日の自分も違う、短い時間軸の中では似ているかもしれないけれど、例えば10年前の自分は今の自分と全然違うものだった”と言い、そこから、臓器の話にもなった。彼は若い頃仕事ばかりしてお酒も飲んで、肝臓を痛めたらしい。それで、肝臓はそれまで”自分のもの”と思っていたけれど、実はそうではなかったし、心から愛しているものは自分の一部ともできるというようなことを言っていた。それで、彼の持論は自分の輪郭は自分で決められるし、それはいつでも再定義できるものだということだ。

私は5年ほど前から本格的にヨガを始め、最初は週に数回スタジオに行っていたのが、コロナで途中オンラインになり、そこからスタジオがまた再開したのをきっかけにほぼ毎日通うようになり、それが本当に毎日になり、去年引越してスタジオから遠くなるまでそんな生活をしていた。引越してからも、アプリでほぼ毎日自宅でヨガをしている。

もちろん、毎日やりたい!と思ってやるわけではない。着替えることすら面倒に思ったり、一人ヨガになってからは、先生や仲間というモチベーションもないし、今日はパスしようかなと思うこともある。
しかし、そういう日も多くの場合は、一度始めてみると、身体や細胞たちが喜んでいるのが分かり、エネルギーが湧いてきて、終わる頃には鬱々としていた自分はどこへいったのだろうと思うほど見違える自分になっている。
それで、自分の感覚が曖昧なものなのだと気付いた。面倒だなと思っていたのは私の頭で、身体は寧ろ動くことを喜んでいる。身体が喜ぶと頭もすっきりする、ということを何度も経験した。東洋医学ではこれを気滞というのかもしれない。

身体に関することで言うと、私は美味しいものを食べるのが毎日の大きな幸せなのだが、実は昔から消化器がものすごく弱い。高校生までは今では考えられないほど食が細かった。それでも無理矢理母にご飯を食べさせられていて、それは当時の私には拷問に近いものだった。
ご飯はお腹が空いていないと美味しいと感じられない。大きくなってからは自分のペースで自分が食べたいものを食べられるようになり、幸せが数百倍になった。昨日作った美味しいご飯も今日またそれが食べたいとは限らない。それで、その時にこれ!と思うものをその場で作って食べるようにしていて、その充足感たるや、身体も心も満たされる。

それとはまた全く別の話で、私は何か物事がとんとん拍子に進む時ほど、自分の力でないような気がする。というか、本当に違う。なぜなら、そういう時はいつも後から考えれば、あの時にあのタイミングであの人に言われたことをやっただけみたいなことが上手く積み重なった結果の妙だから。それで、自分が透明になったような感じがして、自分の輪郭が曖昧になって、感謝しているだけの自分がいて、自分が空気になったような感じがする。

透明といえば、私は秘境を歩くのが好きなのだが、そういう場所に行くとそこにある美しい石たちや花々と同化したいといつも思う。とにかく言葉ではうまく表現できないが、彼らの透明感がこの世のものと思えないほど美しくて、存在しているのにしていないような。それで、私も輪郭がなくて透明になる自分を想像して気持ちの上では彼らと一体となっている。正直、彼らの前では私が何だとかどうでも良くなる。でもやっぱり足跡をつけて歩いている私がいる。植物を踏んでしまって、ごめんねといいながら歩く。

テントで一泊して迎えた朝 in カナディアンロッキー
雪解け水が爆音を立てて流れ落ちる
流れ込んだ先のエメラルド色の湖
全てが透き通っていて天上界のよう

自分って自分で思うほどはっきりしていなくて人間って不思議だなといつも思う。頭とか心とか身体とか、はたまた魂もあるかと思うと、透明な気分にもなれる。

もちろん自分とは?みたいな問いにはっきり答えられるのもいいと思う。でも、私はこのなんとも言えない曖昧さが気に入っていて、自分が何者か良く分からないままでいたい。それは即ち何にでもなれるということかもしれないし、そうでないかもしれないし、細かいことは気にしない。



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