仕様未確定の崩壊プロジェクトを引き継いでリリースするまでにしたこと(ゲーム in ザ ノンフィクション
これは、あるプロデューサーが体験した、事実を元にしたフィクションである。
世の中には消化試合と言われる言葉がある。プロ野球の世界で用いられることがあるが、すでに優勝が決まっているチームが残り試合をこなすこととして使われることが多い。
ただ、ゲームの現場で使われるときは少し意味が異なり、負け戦が決定しているものに対して最後まで見届けること、最後終わらせるために解決させることとして使われていることがある。
今回は、そんな負け戦確定の大炎上案件を任されてしまったあるプロジェクトのお話になる。
先に申し上げておくと、通常大失敗して終わりになるようなお話だが、まさかのリリースまでしてしまえたという少しだけいい話である。
リリースした後はどうなったのかまで書くとすれば、正直あまり売れず、プロジェクトとしては1億ぐらいの負債のみ残った。ただ、そのプロジェクトに関わった人たちは今も創作活動を続けている。
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ゲーム開発の現場。
それはいろいろな部署にまたがりプロジェクトが進行するところが大半である。
簡単な流れで例えると、企画を設計し、その設計を元にデザインを作り、システムをプログラムし、オンラインの場合はデータベースを構築する。
それらがすべて組み上がった状態でテストを行い、本来想定する挙動ができ、エンターテインメントになり得るのかどうかを判断する。
そう。
ゲーム開発のゴールとは、計画通りに組み上がることではない。
組み上がったところがむしろスタートであり、そこから本当に面白いのか? 予定通りのゲームデザインとしてプレイできるものになっているのか?
商業的に成功するように作られているのか?をその後に判断するのである。
もちろんバグも潰さなくてはならない。
結論から言えば作業は果てしない。
しかしながらそれを成功させることがゲーム制作に求められている課題でもある。
ボトルネックが存在する業務工程
通常ある程度業務工程が存在し、流れて組み上がるワークフローにはボトルネックと呼ばれる部分が存在する。
ボトルネックとは通称、全体を通して一番足を引っ張っているような言われ方をすることが多い。
もう少し噛み砕くと、ゲーム開発の現場ではアウトプット量を参考にして導き出すこともある。
インプット量に対してどれぐらいアウトプットができるのか?という観点で見た時、インプット量に対してうまくアウトプットができてない部分を指すことが多い。
まとめると、一番アウトプット量が低い部分を指すといえばわかりやすいかもしれない。
下手な場合は特定の人がボトルネックだと責められることもあるが、そこまで特定人物に依存するようなチームはあってはならないのが通例でもある。
流れ作業に近い工程も行われるゲームの現場
例えばA→B→C→Dという開発工程と流れ作業があるとする。
この時、各工程のインプット量が100/日で統一されていれば、Aに100をインプットすればDのインプットは滞りなく100/日アウトプットされる。
ただし実際の現場はそうなることはほぼ存在しない。
人によってばらつきの処理能力が存在するため、各工程のアウトプット量=捌ける量はバラバラになってしまう。
この場合、A→B→C→Dで一番低い箇所のアウトプット量=A→B→C→Dのアウトプット量になることがご理解いただけるだろうか?
仮にAとBとCが超優秀な人材で構成されており、100/日のアウトプット量を持っていたとしても、最後の工程Dのアウトプット量が20であれば、20/日しかアウトプットは出せないということになる。
これをチーム、プロジェクト単位で見るとどうなるのかは想像しやすい。
しかしながら、この部分をチーム、プロジェクト、会社単位で見ると意外に盲点になりがちである。
このことを理解しないままに各部署でドキュメント通りの業務を行うとどうなるかということである。
実際には、仮に100のインプットをAに突っ込んでも80の在庫がDで発生してしまう。しかしそこに気づかない管理者はあまりにも多い。
突如やってきた崩壊プロジェクト
話は元に戻して、あるプロジェクトリーダーにある崩壊プロジェクトが舞い込んできた。
あるチームが着手していたプロダクトが形にならず、リーダーが不在になったために引き継いで欲しいという案件だった。
状況を伺うと、1年ばかしスクラップ&ビルドが繰り返されていて、コンテンツのコア設計ができていないで右往左往したものだった。
これまたIP(著作物)と版権が絡む大物だった。
シンプルに見てこれはヤバイと感じた。
なぜならば、そのプロジェクトにいたのは10名ほどだったが、誰もすでにやる気が失われている状態。会議をするとこういう場合、大抵長くなることが多い。
理由は明白で、誰も責任を取らない、取りたがらないからだ。
いや、決裁権がないということが正しいのかもしれない。発言の節々に、自分が決めてやりました!という意見が何一つないのである。
新しいプロジェクトリーダーは、つい最近、似たような事例でプロジェクトが中止になった大失敗を経験したばかりだった。
しかしながらなぜこの話が舞い込んできたのかというと、他にリーダークラスの人が不在であるということ。そのリーダーならば同じ過ちはしないだろうというほのかな期待(ほぼ0だが)。
失敗したら、名実ともにお払い箱にできるという理由づけのためだった。
新しいリーダーはいろいろな前提を心得た上で引き受けた。少しでも会社に貢献できるならば最後までやり遂げて、辞めるときはその時に辞めようと思っていたからだ。
彼は過去の経験を猛省の上、2度と同じ過ちは繰り返さないようにと心に誓っていた。
しかしながら同じ境遇はまた起きてしまった。
案の定、コア要素の企画が会社内で承認されないのである。
再び地獄を繰り返すのか?
その予感が少しよぎったリーダーは思い切ってあることを提案した。
コアの開発ができるまで人をアサインしないこと
過去の大失敗では、コア要素が固まらないままに余剰人員に業務を依頼し続けて、大量の人件費と使うに使えない、仕様にそぐわないアセットを大量に爆誕させてしまった反省点があった。
もう一つ。
コア要素を決められないのは意思決定者が多い時。最終決済ラインの基準を満たさないことだったこと。
ゆえに提案したことはこれだった。
「一旦人を大幅に減らして欲しい。そして決裁権がある人と直接対話をできるようにしてほしい」と。
リーダーは学んでいたことがあった。
繰り返しになるが、コア要素が決まらないままに他の業務を進めてもほぼ無意味になることが多いと。
コアな要素が決まるのは現場の確信もあるが、何よりある最終決定者が権威ある意見に左右されることも多いということだ。
故に今回の意思決定者はそのリーダーとディレクター、そして社長のみというシンプルな意思決定のラインとして整理していただいた。あとは版元の担当者だ。
組織についての課題。
再度人材を招集することはかなり難易度が高いが、リリースされないよりはマシだと判断したこと、今の覇気がないメンバーは一旦距離を置いてもらおうと思って、プロジェクトリーダーは英断を提案した。
一旦コアメンバー以外を他のチームに配属してもらうように働きかけ、徹底して意思決定者の判断のもとでコア要素を徹底的に早急に固めていった。
レビューの仕方も変更し、より具体的に数字か、言語化できることを徹底してそれを最速で反映させることに集中した。
結果、見た目はいいとは思えないが、コア要素が早急に確定した。というようりも、方向性だけは合致して、大きな企画修正を入れない範囲で固めることに成功した。
ボトルネックを解消するのではなく、ボトルネックに従属させるプロジェクト進行
次に取り組んだ工夫はこのことだった。
企画はある程度固まった。次に必要なものは再び人のアサインだった。
しかしながら一旦バラしたチームを再結集させることはかなり難易度が高い。社内の協力を仰ぐことが難しいと判断したプロジェクトリーダーは外部に協力を頼むことに決めた。
そこで再び新たなる課題が浮上した。
デザイン、開発部門が別々の会社になってしまったことだ。
これはこれでまた非常にコミュニケーションコストが高くつく。
しかしそうは言ってもいられないプロジェクトの期限が迫る。
リーダーは冷静にコマを運んだ。
まずは各種部門の責任範囲と業務工程を分解し、視覚化することとした。
そうすることで分かったことがある。
開発は完全に人数に対してアウトプット量が低いこと。
デザインは人数に対してアウトプット量が高いこと。
企画は完全に人数オーバーでコストになっていると判断した。
例えるならば、アウトプット量は
・開発は60/月
・デザインは80/月
・企画は100/月
と言った感じになっていた。
さて通常ならばここでどうするか?
開発とデザインを増やすという判断になりがちだ。しかしながらやったことはその逆で、開発の60/日にあわせてデザインと企画をカットしたのだ。
企画は時に余計な仕掛かり在庫を増やすネタになる
いきなり外された担当は劣化の如く怒ったが、理由を丁寧に説明したら、納得はしてもらえなかったが状況を理解してくれて他のチームへ異動を了承してくれた。
なぜそんなことをしたのか、理由をいくつか説明する。
まずゲーム開発とはアイディアに対して実装と再現に時間が2~3倍以上かかる。これはアウトプット量が100あったとしても、それがゲームとしての性質を持ち得るためにはその2〜3倍のケアが必要になる。
例えるならば、ゲームの開発は2〜3年かけて行うけれども、プレイしてみると2〜3時間でクリアしてしまうことがあるだろう。
まさにこれに近い状況が開発時点から起きているということである。
たとえば企画者が企画を書く。優秀な企画者は次々とアイディアを生み出す。ドキュメントが出来上がる。それに合わせてデザインもかなりハイペースで進むこともある。
しかしそれをプログラムで実装し、ゲームとしての全体最適を仕上げるには企画者の時間とデザイナーの時間の数倍の工程とコストが必要となる。
場合によってはその新規開発した部分の動作確認、不具合テストをするためにテスターの費用まで必要になる。
そう。広大なマップを作ってしまったら、そこに配置するオブジェクト、マップデザイン、モンスターデザイン、ギミック、クエスト、シナリオ、アリとあらゆるものを詰めないとスカスカな箱だけが出来上がってしまうのだ。
プロジェクトリーダーはそのことを把握していたため、有識者と共に一番小さなアウトプット量に合わせた全体最適できるゲームを作ることを第一の目的として仕上げることを最優先した。
こじんまりとした完成品が出来上がった
通常不足の人員、不足の計画に合わせて足りないところを補おうとしがちである。しかし出来上がっていないものに対して人員を増やすことはかなりリスクとなる。
まずはハイスピードで資材を作り出す優秀な人材が、大量の仕掛品を作り上げてしまうからだ。実際に出来上がる仕掛品は業務工程にインプットしても必ずオーバーフローしてはみ出す。
そしていつか使うだろうと思っているアセットは一生使わない状態、使えない状態に終わることが非常に多い。ゲーム開発とは資産を作っているようだが、意外に生物が多く、資産として使えないものがあまりにも多いのだ。
これはこれで企業の課題でもあるが、だいたいは次のプロジェクトで使い回すことなどはほぼない。
ゆえに、そのプロジェクトサイズにあったものを作ること、テーマにあったものを最適なサイズ、分量で作らないとただの手あまり品になってしまうことが多いのだ。
評価は低かったものの、一部のファンに支持された作品になった
結果この作品は無事にリリースまでこぎつけた。決して商業的にはヒットはしなかったが一部のファンには支持され、そしてなにより関わったメンバーは履歴書に何の作品で何を担当したという実績を発表できる機会になりえたことだけはとてつもなく大きいことだと感じていた。
そもそも本作品はある担当者が挫折した作品を引き継いだものであった。
そしてプロジェクトリーダーは私のことである。
前回の記事で大失敗をしたというのも私の事実だが、その後に請負ったプロジェクトはゼロベースからのスタートだったが、なんとか軟着陸を遂げることができた。
この時に参考にした本は表題の通り「ザ・ゴール」の著者、エリヤフゴールドラッド博士の助言をそのまま参考にした結果だった。
「ザ・ゴール」の中でボーイスカウトたちのハイキングレースの話がある(うろ覚えだが)。
足の遅いハービー少年の歩行速度に合わせてゴールに向かうことで、先頭と最後尾の距離を離さずに並走できたというエピソードだ。
詳細は省くが、この本で書かれていたことはボトルネックは解消すれば不都合なことが動くだけである。ボトルネックに従属することで全体のスループットを最適化させること、最大化させることがコストカットにも品質アップにもつながるということだ。
そのためにはあえて仕事をさせない部署を作ること、時間を作ることも本著で書かれたいたが、その通りのことをやってみた。
そして通常人員不足のところは人員を補充するのだが、あえてそれをせずに多いところをカットした。周りからは呆れた顔をされたこともあったが、結果的にまとまった作品ができたのはそれをやった結果だとチームのレビューでも上がった。
ビジネス書籍の参考がゲーム分析やマーケティングで役に立つことはあるが、ビジネス書が開発で役に立ったことは先にも後にも初めてだった。
ゲームはリリースすることが奇跡である
ゲーム会社ゆえにゲームをリリースすることは当たり前だと思われがちだが、実際はそうではないことを経験している。
ゆえに開発できること、リリースできることはシンプルに関わった人たちの履歴書を作り、職務経歴書を作り、人生までも作る。
その責任を管理者は把握しなければならない。
会社員ゆえに失敗しても会社にいることもできるかもしれない。
しかしながらそれでは生きた心地がしないことも事実であるし、場合によっては再起不能の鬱状態になる人も多く見てきた。
ただ会社という場所で人を追いこむべきではないというのが私の持論でありポリシーでもある。それはかつて職場でリアルに大切な人を数名亡くしたからである。
実は明日も法事がある。とても優秀な先輩リーダーだったが、過労が原因で2021年に終わりのない冒険に旅立ってしまった。
私はそういった先輩方の意思は引き継ぐが、心身を壊す働き方や人を追い込むクリエイティブではなく、人を豊にし、幸せにし、チャレンジすることの楽しさと生きていく楽しさをつなげるような活動を継続することをここに誓う。