民主主義と"ポピュリズム"の違い



本論では、近年米国や欧州などの選挙において台頭している、いわゆる"ポピュリズム"について考察を述べたい。ここで特に、"ポピュリズム"とはそもそも何なのか、それは民主主義とはどういった関係にあるのか、を中心に考えていきたい。

ポピュリズムという言葉は、1892年に結党されたアメリカ合衆国の人民党、通称「ポピュリスト党」を通じて広まったとされる。また、それ以降においても様々な政治運動がポピュリズムのうちに数えられてきた。このポピュリズムとして解釈されてきた政治運動の共通点として、一般的には、以下のように定義されているようである。

ポピュリズムとは、一般大衆の利益や権利、願望、不安や恐れを利用して、大衆の支持のもとに、既存のエリート主義である体制側や知識人などと対決しようとする政治思想、または政治姿勢のことである(Wikipediaより引用)

おそらくこの定義だけでは、現代において起こっている"ポピュリズム"への理解が少々浅いものとなるだろう。よって本論では、"ポピュリズム"を特に民主主義の根幹たる選挙における視点から、深堀していきたい。そもそも民主主義において政治的立場を得るには、選挙で当選しなければならない。そのため、選挙権を持つ人々への共感を最大化することが、選挙に当選することのいわば最適解となる。従来の選挙活動においては、抽象的な言葉、例えば「未来へ向けて私たちは前進する」等の、最低限度の共感性を持つ共感不可能にはならないような命題やそれに基づく選挙活動を用いて、票の最大化を図ることを中心に行っていた。また、政治を行う上で、その分配や権力の行使は非常にセンシティブな内容かつ、政治倫理や時系列に大きく依存する複雑な事象であるため、それらを具体的な言葉をもって提示することが困難であったこともその一因であろう。しかしながらインターネットが発達した現代においては、SNSの勃興によって、抽象的な言葉や最低限度の共感性を持つ共感不可能にならないような命題がより"わかりにくい"ものとして促されているように思える。特にSNSにおいてすでにそのような現象が起きており、真偽不明な命題であっても、共感性が高く、かつ共感を得ることが容易な、"わかる"論理を伴った命題の方がより拡散される傾向がある(詳細については『SNS考察~匿名のアイデンティティ~』を参照されたい)。たしかに、抽象的な言葉だけでは、『前進』とはどこへ前進するのか、私たちに『未来』はあるのか、などの疑問に対して答えることができない。現代においてはもはやそれでは"わからない"のではないだろうか。現代の選挙では、"わからない"論理や"わからない"抽象的な言葉よりも、具体性を伴った共感が容易な"わかる"論理、"わかる"言葉を用いる人の方が信頼できると判断されているのではないだろうか。

では、"わかる"論理とは何なのだろうか。そこには共感性を伴う"身近"な命題が利用される。特に、経済の命題が最も共感性を得ることが容易であろう。資本主義社会においては、お金への欲求は普遍的かつ身近であるように思える。よって、分配に関する命題は、"ポピュリズム"に利用しやすい。また、EUでは移民の問題においても、より身近な命題となる。"ポピュリズム"的な手法は身近な命題を二項対立のような安易な論理構造(*1)に持ち込み、わかりやすくすることで共感を促す傾向にある。二項対立化は言論の空間を分断し、いわばある命題を支持するクラスターの最大化を目的とする。この傾向は、現代の"ポピュリズム"と過去のポピュリズムとが共通に有している構造であろう。ただし、過去の多くのポピュリズムにおける悲劇的な事例は、ポピュリストによるマスメディアのコントロールが主に招いたと言える。現代はインターネットがその役割を有しており、ネット空間におけるクラスターとの兼ね合いなど、幾分状況が異なる。ただし、インターネットの発達と"ポピュリズム"の台頭により、オールドマスメディアにとっての政治的状況が不確実性を増していることは確かである。

私は、先進国で見られる現代の"ポピュリズム"は決してその言葉の定義によって切り捨てられるような一過性の現象ではなく、民主主義や選挙の在り方におけるゲーム・チェンジを招くと考えている。時代の変化に伴うゲーム・チェンジは悪くない。むしろ、選挙カーに乗ってひたすら名前を連呼するような非民主主義的な選挙活動が変わることなく、未だに行われていることの方が問題である。もしも、このゲーム・チェンジに気づくことができる政治家が現れた場合、より選挙や民主主義の在り方は前進するだろう。"わかる"論理に対して"ポピュリズム"として切り捨てるのではなく、正確に反論する必要がでてくるだろう。また、その反論には多くの知識が必要となるだろう。よって、政治家そのものの能力や努力がより反映される形になり、かつ、そういった反論の場が様々な場所で設けられるようになるだろう。そのような民主主義の深化が加速し、かつ洗練されていくことは良いことではないだろうか。現代先進国の民主主義と"ポピュリズム"の違いはまさに、民主主義の枠組みの中で、インターネットの言論空間に適用されるような時代の流れに伴った"ポピュリズム"的手法が政治運動において使用されているに過ぎないのではないだろうか。

「なぜ数学を学ばなければならないの?」という子供の"身近"な疑問に対して、大人が答えることができない場合、大人もそれを理解していないことが多い。大人が理解していれば、適切に答えることができるだろう。そういった疑問を呈したり、その疑問に答えることができるような構造や場そのものは、重要である。身近な疑問に対して真偽を伴って答えることができない政治家は、淘汰される時代になってしまうのかもしれない。そこで争われる議論に真偽が介在しない間に。

*1 冒頭におけるポピュリズムの一般的な定義そのものも、エリート/大衆 という二項対立を用いており、ポピュリズムと同様の手法が使われていることに留意する必要があるだろう。ポピュリズムを"ポピュリズム"として批判する側もポピュリズムの手法を用いているのである。



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