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初音ミクが歌うとはどういうことか——誰も侵せない「私と君」の密接さについて

2022年3月9日に執筆(α版)→3/11改訂(β版)
(約6,500字→3/11改訂、約9,100字)

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はじめに

 2022年3月1日、NHKの人気番組「プロフェッショナル——仕事の流儀」の特集に初音ミクが登場した[1]。私のタイムライン上ではリアルタイムで数多くのツイートが飛び交い、自室にテレビがなく実家で見る予定だった私はただただネタバレを食らわないようにTwitterを閉じる。本番組は決して人間だけにフォーカスを当てる番組というわけでもなく、過去には動物などを特集する形でコンテンツがつくられたこともあったらしい。とはいえ、あくまで非生物である彼女に「仕事の矜持」を聞き出すことは、いたってナンセンスなことでもあるだろう。番組では初音ミク本人(?)でなく、初音ミクの創造と受容をめぐるネット文化圏の営為を、断片的に書きだしていく。一人のボカロP、そしてそれをめぐる受容の営為——それらはやはり断片的であるものの、ラディカルに名前を喪失させていくことによって連帯してきた、古くからボーカロイド文化の様相を的確に描写しているようにも考えられた。

 しかしながら、私は同時にこれらの営為を描写する試みが果たして2022年の今においても確実に指摘できるのかについては、どうしても疑問の念を取り払うことができない。そうしたことに関しては過去に何度も述べてきたが(上記事を参照されたい)[2]、インターネット上でユーザーを接続し、そして繁栄していったネット文化——そして初音ミクも無論、そこに組み込まれる——は、2022年の現在とは明らかに違う要素がある。かつての「接続」の夢が崩壊し、インターネットへの不信と現実社会に唐突に生み出された瓦礫の山は、私たちの社会にかつてないほどの「切断」の潮流を生み出してきただろう。彼女は無数に積みあがった瓦礫の上で、今なお歌っていることになる。

 1990年代から継承されてきたインターネットの夢は、全世界同時にコミュニケーションが可能になることによって展開される新たな共同体の可能性であった。初音ミクはその伝統思想から生まれてきた存在であり、少なからずそうした評価を社会的に受けてきたのはおそらく間違っていない[3]。しかしながら、今や1990年代から継承された「接続」の夢の方が、先に消滅してしまった。だとすれば、私たちは初音ミクに対する別様の視点を検討すべきなのかもしれない。本稿ではこれまで筆者が2010年代的な初音ミクと称し、今なおその傾向がみられると指摘した二者関係的な初音ミク——「私」と「君」の二者関係的な初音ミクであり、以前に「セカイ系」的初音ミクと称したもの[4]——を通し、初音ミクを用いること、初音ミクが歌うことがどのような意味を持つのかを明らかにする。それによって、筆者がこれまでの議論では全面的に展開しなかった側面、「接続」の思想をめぐる初音ミクの歴史において十分に取り上げてこなかった側面としての、ユーザーと初音ミクという「二者関係」のあり方がどのような意味を有しているのかを考察してみたい。

密接な初音ミクの系譜

 2007年に登場した初音ミクは、国内のネット文化を代表するサイトとして台頭していたネット掲示板2ちゃんねるの思想をそのまま継承し、ある意味でネタ的なコミュニケーションを基本とする思想が重視されてきた。初音ミクにネギを握らせたことで有名な楽曲「VOCALOID2 初音ミクに「Ievan Polkka」を歌わせてみた」に代表されるようなネタ的なコミュニケーションは[5]、一方でまだまだ新しいソフトウェアであった「初音ミク」をいかに活用できるかという実験的作品であるとともに、国内で人気出会ったフラッシュ動画「ロイツマガール」をベースにしたN次創作である点において、明らかに2ちゃんねるを意識している。そうした流れが再序盤に形成される中で、2007年12月に投稿される楽曲「メルト」を一つの代表的転換点として[6]、初音ミクをある種の実験音楽でもネタでもない方法で利用する音楽が徐々に展開されてきた[7]。「メルト」はこれまでの初音ミク楽曲に多くみられたあり方ではなく、ユーザー=ボカロP個人の作家性が表出した作品であり、この点が当時画期的でもありながら多くの批判をも受けた。当時の2ちゃんねるから継承された国内のネット文化は強い集合体志向の様相を呈しており、そうした点は「メルト」を始めとした作家性を全面的に押し出す作品をとことん批判していくことになったが、一方でこうしたムーブメントの登場によって今日に数多くの作品群がつくられた点は、決して無視できない要素でもある。

 「君の思いを私が歌う」。メルトショック以降に台頭し多く作られた「私と君」の二者関係に絞られた作品群は、2010年代においてより一層表面化してくると同時に、初音ミクをめぐる一つのテーマともなった。2012年に登場し大ヒットを博した楽曲「ODDS & ENDS」はまさに「ほかの誰でもない君のために」歌が捧げられている。こうした点を見ると、「私=初音ミク」と「君=ユーザー」との二者関係に着目するものとしての初音ミクという存在は、検討されてしかるべきだろう。蜜月な二者関係は、2010年代を通して多く散見された要素であり、そうした影響は少なからず2020年に「愛されなくても君がいる」が登場したように[8]、2020年代初頭までは影響を与えてきたと考えることができるだろう。

 一方、2020年代に突入し、徐々に新しい潮流も見え始めている点も少なからずあるようにも思えるは意識すべきかもしれない。2010年代最後に登場した「うっせぇわ」をはじめ、従来の「君と僕」の関係性から「君」を排除する、ような攻撃的な楽曲が徐々に人気を博し、表面化してきた。2022年のまさに初音ミクの日に動画が公開されたDECO *27による「ジレンマ」は一見すると失恋ソングのように思えるが、筆者がここまで主張してきたように2010年代における一潮流として「君と僕」の関係性からボーカロイド楽曲を批評する可能性があるのならば、本楽曲のメッセージ性はもはやただの失恋ソングには収まらないような強力な意味を内包することになる。「ジレンマ」において初音ミクは私たちへ別れを告げている。こうした楽曲がまさに初音ミクの日に公開され受容される経緯は、もしかすると2020年代的な新しい初音ミクの可能性がそこにあると考えることもできるのかもしれない。

 2020年代において新しい初音ミクの可能性が提示されてくるのならば、それはすなわち2010年代的なボーカロイド文化を総括し、次の新しい時代を見据えるための視点を形成すべき時代が到来していることとも意味するだろう。「君の思いを私が歌う」という二者関係的な初音ミクの思想から新しいものが生み出されるのだとして、では「君の思いを私が歌う」ことがどういうことであり、どういう価値があるのか。次に検討してみたい。

「想像」する歌い手と、「想像」しない初音ミク

 この二者関係の重要な点は、歌詞としての言語を人間が歌うのでなく、パソコンのソフトであり「楽器」であるボーカロイドに歌わせるという点だ。それがどのような意味を有するのかに対し、ここでは20世紀後半にフランスの精神分析学者ジャック・ラカンの理論を補助線にする。彼の難解な思想を説明するのは筆者では明らかに力不足ではあるが、本稿では彼における独自な世界の見方としての「想像界」「象徴界」「現実界」のことに限定して、試論を展開してみたく思う[9]。ラカンによれば、我々は現実に生きている世界そのものを見ることは決してできない。例えば目の前に「リンゴ」とよばれる、「赤い果実」があるとしよう。日本語を扱う日本人はそれを「リンゴ」という日本語と音でそれを表現することができる。つまり、「赤い果実」と「リンゴ」が同じものを指すということは、一定の集団の中で共通の言語=「日本語」と、それを使用している集団=「日本人」があるということによって、保証される。それゆえ、日本語しか理解できない集団内ではそれ以外の言語(例えば“apple”)が「赤い果実(日本語の「リンゴ」を指す物体)」を指すことは分からない。我々が言語を共有できているのは、共同体の水準で言語という「象徴」を共有している世界を持っているからである。このような、言語やその他の象徴を経由して共有されている世界のことをラカンは「象徴界」といい、感覚的なものによって共有されている世界(ここでは「赤い果実」)を「現実界」と呼ぶ。そして、先に「赤い果実」という物体と「リンゴ」という言葉によって「現実界」と「象徴界」の関係を示したが、各個人がそれぞれの内面で想像している「イメージ」の世界のことを、ラカンは「想像界」と称している。「想像界」には私のある「考え」があるが、この思想を自分以外の誰かに伝えたいとき、それは言葉という「象徴」を媒介としてのみでしか伝達しえない。つまり、「想像界」も「現実界」と同じく何かの「象徴」がなければ、コミュニケーションはできない。

 以上より、再度初音ミクの問題に立ち返ろう。初音ミクを用いることとはどういう意味を有するのか。本稿では歌詞をボーカロイドではなく実際の他者——つまりは「歌い手」に依頼して歌唱すること比較対象として想定しつつ考えてみたい。「作曲者」が「歌い手」に歌唱以来をする際、二人の間に少なからず、作曲者の脳内にしか存在しない音楽のイメージに対しての解釈違いが生じてくるだろう。それは無論のこと、作曲者の内面にあるイメージと歌い手の内面にあるイメージが一致していないからであり、そして二者の間に共通してあるだろう一つの共通イメージが共有されることは永遠にない。なぜなら、どれだけ作曲者が自身の内面で想定しているイメージを歌い手に伝達しようとも、歌い手がそれをすべて確実に理解することはありえないからだ。言い換えれば、両者の間に完全一致する「象徴」が存在していないゆえに、作曲者と歌い手の間に避けることができない乖離が生じてしまう。作曲者が内面で行う「想像」の世界は、それ自体が想像界に属しているものであるがゆえに他者に伝達できず、したがって作曲者の「想像」は決して歌い手の「想像」とはならないのだ。その際、歌い手は作曲者の指示に従いながら歌唱するなかで、歌い手自身が作曲者の「想像」を理解することはできないがゆえ、あくまでもコミュニケーションの中で——つまりは言語的「象徴」によって伝達を試みる中で——自身の「想像」を形成し、そのうえで歌唱を行う必要に駆られることになる。両者の間には歌詞やメロディ、そして歌い方といった数々の象徴が行き交うが、それが作曲者という個体のイメージである以上、いくら象徴として伝達しようとしても限界があり、完全に一致することはない。こうした不一致において、歌い手は常に「作曲者」ではなく、作曲者が想定した「想像」を変身させる「別の作曲者」であるとも言えるかもしれない。

 歌い手は常に作曲者の意図を完全に汲み取ることはできず、本来の作曲者自身が内面に抱えていた願望や欲望を変形させることによって、ある意味で全く別の作品を作り出す。この点に対し、初音ミクはそれ自体が単なる「楽器」であるがゆえ、その限界を少なからず超える可能性を持つ。人ではない彼女は「想像界」を持たず、それ故に徹底的に「主観性」と「客観性」の両者は排除される。無論、それらが人間の声をベースに設計されたソフトウェアである以上、人間の声それ自体に到達すること、或いは人間の声それ自体を超えることは到底できない(人間には表現できない声を表現できる、という意味では人間の声を超えているが)。しかしながら、どれだけ人間の声をシミュレートした存在であるとしてもなお、彼女の欠落した「想像」は、歌い手を経由しないことによって楽曲の変形を避けることが可能な数少ない手段として、注目に値するものではないだろうか。

「半分」溶けてしまうこと——初音ミクが歌うことによって起きる繊細な融合

 初音ミクは「想像」しない。そこにはいわば欠落のようなものがあり、言い換えれば彼女自身に意図して残された「余白」である。彼女は自身が余白を持っている=「想像」を欠落していることを理解しながら、ユーザーに対して「私を歌わせてみて」と言葉をかけてくる。そこに存在している余白、そして私たちは彼女の「想像」に自身を代入することを通して、私たちは蜜月な「私」と「君」の二者関係を構築する。彼女は「欠落」し、「余白」があるからこそ、蜜月な二者関係を構築できたのだ。以上が前節の議論の要点である。

 しかしながら、そこに生じている「余白」に作曲者自身の「想像」の全てを代入することはできない。初音ミクがどこまでもシミュレートされた音声であるがゆえに人間にはなれないことは既述したが、そこに自身の「想像」の全てを代入できない以上、作曲者は何かしらを捨て去っていく必要に駆られてしまうだろう。初音ミクは「余白」を持ちながらも、その「余白」に自身を完全に代入できない。だとすると、そこに何があるのだろうか。

 正しい表現であるかはともかく、そこにはあくまで基礎情報がほとんどなかったがゆえにユーザー間を連帯してきた、初音ミクをめぐるネット間で共有された「象徴」だろう。2007年に登場して以来、初音ミクはユーザー同士を繋げ、世界同時的にコミュニケーションを行うためのまさに「象徴」として登場してきた——これは国内ネット史の歴史的経緯としても、また初音ミクは「想像」しないという前節の議論としても明らかだろう。そうした彼女自身の「繋げる」思想は無視できないものであり、ボカロPたちは彼女に内包されたそうしたイメージを引き受けながら、残りの「余白」に自身の「想像」を代入する。そうして、ボーカロイド楽曲は新たに作り上げられる。言い換えれば、初音ミクの「余白」に「想像」を組み込むことはつまり、初音ミクをめぐる共同体的なイメージに自身をも入れ込むこと、作家性をある意味で溶かすことでもある(実際、初音ミクで楽曲を作られているからこそ「聞いてもらえる」という事実は少なからずあるだろう)。初音ミクが歌うこと、それは一方で「他者」たる歌い手よりも純粋に自身の「想像」を伝達する行為であり、他方で集合体の中に自身をある程度溶かしこむ行為である。そうした不完全な溶け合いと表現の繊細な距離感こそ、彼女が歌う事の最も重要な要素ではないだろうか。

 そこにある余白、自らの「想像」代入すること、そして「半分だけ」溶けてしまうこと。初音ミクが歌を歌うことはこうした点において、「作曲者自身が歌う」のとも、「歌い手に依頼して歌唱してもらう」のとも異なったとても繊細な距離感を保っているのである。それはみきとPが2013年に公開した楽曲「僕は初音ミクとキスをした」の中にも表象されているだろう。楽曲MVにて登場する主人公の描くオリジナルキャラクターは、最後にはまるで初音ミクと融合するように消失し、消え去ってしまう。初音ミクが歌うこととはこのように、ある意味で自身の半身を共同体の中に委ねてしまうこと、それによって何かしらの犠牲を払うことでもあるのだろう——本楽曲MVにおけるオリジナルキャラクターが初音ミクにキスをし、最終的には初音ミクを融合するように消えっていったように。「君の思いを私が歌う」というある意味で2010年代的な初音ミクの楽曲の中に内包されているのは、こうした繊細かつ複雑な哲学的思考だったのかもしれない。

おわりにかえて

『プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク』公式HP

 初音ミクとボーカロイド楽曲を一つのテーマとして2020年9月に開始されたアプリ『プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク』は、そのキャッチコピーに「一緒に歌おう!」という言葉が据えられた[10]。2020年代の新しい初音ミクがユーザーに対し「一緒に」という言葉を用いている点は、筆者の議論において重要な示唆をも提供しているだろう。そこにはユーザー同士が繋がっていくかつての可能性ではなく、「君と僕」の二者関係が主題になっているだろう。

そうした傾向が2020年に公開されていく一方、もはや「君」すら存在しない傾向も——前述した「ジレンマ」のように——登場しつつある。2022年のミクの日の翌日、3月10日にVtuber星街すいせいがカバーした「僕は初音ミクとキスをした」の楽曲MVではオリジナルMVにみられた「溶ける」要素がなく、したがって本稿で指摘したような批評的価値がまるごとオミットされていた。オリジナルMVにおける主人公のオリジナルキャラクターと初音ミクの融合の過程は、星街すいせい自身の過去と未来との対話のように解釈できる映像へと置き換えられている。初音ミクを通して「溶ける」ことがない本楽曲MVは、もしかすると「君」と「僕」の接続を失った2020年代的な空気感さえ帯びているのかもしれないだろう。

 このような状況を見ると、「一緒に歌おう」というキャッチフレーズとともに登場するプロセカは、2010年代的な二者関係に執着するボーカロイド文化を最期のかたちであったと言えるのかもしれない。しかしながら、その予測が果たしてどれほど正統性を持つかについては、2020年代以降のボーカロイド文化——あるいは「合成音声音楽」の今後次第ではあるだろう。

 本稿では試験的ではあるものの精神分析を経由することを通して、歌い手と初音ミクとの間に存在する根本的な違いや、初音ミクが持つ「余白」という性質がゆえに、蜜月な二者関係を展開することが可能であることを指摘した。しかしながら、それは一方で「僕」は「君」にそれなりの犠牲をも強いることも、明らかになった。こうした性質に対し、先週に放送された「プロフェッショナル」はどこまで辿れただろう。正確な判断を筆者が下すことはできないが、こうした性質がユーザー同士を「接続」する思想の継承者としての初音ミクとはまた異なった文脈で存在していること、そしてプロジェクトセカイのイメージ画像がまさに「初音ミクともう一人」という二人が中心になる構図がとられていることは、初音ミクがやはり「余白」を通した二者関係を重視する姿勢を2010年代以降に表明している点を決して否定はしないだろう。

 「余白」に「代入」することによって形成される二者関係。それは初音ミクを通してユーザーが「個人」を(半分は「溶かし」て)に表出させている点において、これまで筆者が展開してきた集合体志向なネット文化論とはまた異なった様相を見せているように思える。しかしながら、両者の思想は「余白」と「代入」、そして「接続」という、三つのキーワードによって議論を展開することが可能であるようにも思える。二者関係的な初音ミクも、ユーザー間を接続する初音ミクも、いずれも(初音ミクに設けられた無数の)「余白」に(自身、あるいは集合的記号)を「代入」することで、(二者間で、あるいは集合体で)「接続」していくのだ。この点については、別の機会に考えることに使用。残りの3月9日はせめて、初音ミクの数々のイラストと楽曲を楽しみながら、私自身も「初音ミクの日」を楽しみたい。


[1]https://www.nhk.jp/p/professional/ts/8X88ZVMGV5/episode/te/69RVYKJX1Q/ (最終閲覧日:2022年3月9日)
[2] 以下の拙論を参照。
私たちは初音ミクを愛していたのか?——彼女と私とインターネットについて|ukiyojingu https://note.com/ukiyojingu/n/n49a438b1fc4e 
LOCUSTレコメンド ②ukiyojingu「少年少女は前を向いたのか――10年目のカゲロウプロジェクトと「繋がり」の思想」|LOCUST(ロカスト)https://note.com/locust/n/n0510aa00b100 
[3] 前注の拙論を参照。
[4] 注2の拙論の中でも少年少女は前を向いたのか――10年目のカゲロウプロジェクトと「繋がり」の思想」を参照。
[5] https://nico.ms/sm982882 (最終閲覧日:2022年3月9日)
[6] https://nico.ms/sm1715919 (最終閲覧日:2022年3月9日)
[7] いわゆる「メルトショック」と称されることでネット文化史上においても大きく名前が残されてはいるものの、実際には2007年当時にすでにメルトのように作家のオリジナル性が表象された形の作品というのは存在してきたことはいくつも指摘されている。有名なのはbakerによる「celluloid」がある。https://nico.ms/sm1204327 (最終閲覧日:2022年3月9日)
[8] https://nico.ms/sm37223770 (最終閲覧日:2022年3月9日)
[9] Fink, Bruce, 1997, A Clinical Introduction to Lacanian Psychoanalysis: Theory and Technique, Cambridge,Mass.:Harvard University Press.( 2008,中西之信・椿田貴史・舟木徹男・信 友建志訳『ラカン派精神分析入門 理論と技法』誠信書房.)が詳しい。また本論では扱わないが、斎藤環, 2011『キャラクター精神分析——マンガ・文学・日本人』筑摩書房.はラカン理論で現代サブカルチャー批評をする著作になっている(わずかだが、初音ミクのことも取り上げられている)。
[10] https://www.4gamer.net/games/476/G047609/20200819060/ (最終閲覧日:2022年3月9日)

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