LOCUSTレコメンド ②ukiyojingu「少年少女は前を向いたのか――10年目のカゲロウプロジェクトと「繋がり」の思想」
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LOCUSTレコメンド ②ukiyojingu「少年少女は前を向いたのか――10年目のカゲロウプロジェクトと「繋がり」の思想」

LOCUST(ロカスト)

LOCUST編集部員が外部から優れた批評文の書き手となり得る才能をフックアップする企画「LOCUSTレコメンド」。今年3月に公開した第1回(れみどり『ヨコハマ買い出し紀行』評)からだいぶ間が空いてしまいましたが、第2回の更新です。

今回は編集部員の北出栞がukiyojingu(@ukiyojingu)さんをフックアップ。大学院で芸術学と精神分析を研究する傍ら、ボーカロイドを使った音楽作品を動画サイトを中心に発表するいわゆる「ボカロP」としても活動されています。

▼ukiyojinguさんのニコニコ動画ページ

実は本稿、北出が個人編集で制作した『ferne』という同人誌に掲載する方向で原稿のやり取りを進めていたのですが、「セカイ系」という同誌のテーマを直接には扱っていないこと、文中で多くの動画に言及しており、Web媒体のほうが適していると考えられたこと、そして何より、インターネット空間を通した「よく群れる」ことの可能性を問うた原稿として、LOCUSTという媒体との親和性がきわめて高いという判断から、こちらでの掲載に至ったものです。

2021年を席巻し、流行語大賞にも選ばれたAdo「うっせえわ」への著者の違和感から、論は幕を開けます。まだまだ十把一絡げにされがちな「ボカロカルチャー」の中に確かに存在する変化の襞、そこから見えてくる今日的な連帯の可能性とは。脚注込みで18,000字超えの力作評論です。ぜひじっくりとお楽しみください!

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1. はじめに

少年少女、前を向け――「自然の敵P」こと「じん」が2012年に発表した楽曲「チルドレンレコード」のサビで流れたこの言葉は、まだ高校生だった私にボーカロイド文化を教え、ワクワク感と希望をくれた 。本楽曲をテーマソングに据えた「カゲロウプロジェクト」は、8月15日を舞台として様々な楽曲やその他メディア展開がなされ、私はその登場から終わりまでをリアルタイムで経験した世代だった。音楽・小説・漫画・アニメといったメディアごとに少しずつ異なる物語や、複数の楽曲によって徐々に明らかとなる世界観、そしてストレートな言葉に、かつての私は強く衝撃を受けたのを記憶している。あれから10年、今でもボーカロイド文化の中に入り込み、音楽を作り、そして文章を書いている私にとって、カゲロウプロジェクトはそのきっかけをくれたかけがえのない存在だ。

こうした私の思い出を書き連ねるきっかけを与えてくれたのは、夕方のテレビ番組でふいに耳にした、Adoが歌う「うっせぇわ」だった 。歌い手のAdoとボカロPのsyudouによって作られ、2020年から2021年にかけてのボーカロイド文化の最前線にいた本楽曲は、あらゆる面においてカゲロウプロジェクト以降のボーカロイド文化の延長上にある。たとえば、サビに「死」や「他者への加害」を連想させるショッキングな一枚のイラストを登場させる演出や、映像の中に歌詞を一体化させる手法はまさしく、カゲロウプロジェクトの動画にも共通するものだ。またAdo自身、カゲロウプロジェクトの楽曲に夢中になるところから、このカルチャーへと参入していったという[1]。

しかし、私はそうして両者の類似を認めながらも、「うっせえわ」とカゲロウプロジェクトを同じものとして括ってしまうことに対して、抱えきれぬ違和感を覚えていた。それは単純に私が「カゲロウプロジェクト世代」で、後発世代のアンセムである「うっせぇわ」に反発を覚えているというのではない気がするのだ。

こうした問題意識とともに、本稿では現代の視点から、10度目の8月15日を迎える年に新しい動きも見せ始めたカゲロウプロジェクトを、「繋がり」と「敵対」という概念から今一度振り返りたい。そのために、ゼロ年代から2010年代、そして2020年代へと移り変わっていく日本のインターネットを中心とした思想とともに、それぞれの時代を代表するボーカロイド楽曲との比較も図っていく。

2.ゼロ年代の「接続」思想と、2010年代の「切断」思想

「うっせぇわ」は、現代社会のルールやマナーに対し徹底的に反抗する歌詞が特徴的だ。「ちっちゃな頃から優等生」であるこの歌詞の登場人物は「気づいたら大人に」なり、「社会人じゃ当然のルール」に「うっせぇわ」という。「私が俗にいう天才です」とまで言ってしまうこの楽曲は、いわば現代社会のルールに対し、自分こそ絶対的なルールであることを繰り返し、そして自分のルールを他者と共感することさえ、拒絶してしまう。「現代の代弁者は私」であり、「一切合切凡庸なあなたじゃわからないかもね」と。本楽曲の独善的とまでも表現できるような次元で展開される歌詞は現代の中高生から20代前後にかけて大きく支持を集めたが、その内容から学校教育業界などでは問題視もされた[2]。

彼らはなぜ、「うっせぇわ」と叫ぶのだろう。そこには、いわゆるゼロ年代の思想から文脈を受け継いだ2010年代特有の「切断」という概念が見え隠れしている。

ここでは哲学者・千葉雅也と、精神分析家・松本卓也の対談を補助線にして、この概念を2000年代から2010年代にかけての文化的変遷とともに考えてみたい[3]。まず彼らはゼロ年代を、インターネットの台頭により登場した「アルゴリズム的知性」が優位であった時代であると評している。松本は精神科医ビンスワンガーの論を引用して、「垂直方向」——自らを高みへと近づける問題意識の設定とその主観的解決を行う、あるいは解決に向けて決断する方向——と「水平方向」——世界各地を見て回り視野を広げ、隣人とかかわっていくような方向——という二つの人間精神に関する軸を提示し[4]、ゼロ年代を後者と結び付けた。「水平方向」の有する他者と関係を構築する方向性が強まり、一方で「垂直方向」の有する個人志向が弱まったゼロ年代は、「接続」という言葉とともに語ることができるだろう。またゼロ年代は、松本によってアスペルガー症候群とともに論じられてもいる。かつて精神分裂病患者に特有に見られた多様で個性的な病理のあり方は、アスペルガー症候群が注目されたゼロ年代を経て、ロジカル(≒アルゴリズミック)に分析可能なものへと変わってきたのだという[5]。

ゼロ年代はこのようにして、アルゴリズム的知性を肯定してきた時代だった。だが、そうした価値観は2011年の東日本大震災と福島第二原発事故を契機に、大きく変わることになった。ゼロ年代におけるアルゴリズムを肯定する楽観的な文化論に対し、震災はその中に納まりきらないものを私たちに提示し、アルゴリズムと反アルゴリズム=「現実」が並立する2010年代をもたらした。そんな2010年代においては、「病気のひともそうではないひとも、認知行動療法とかマインドフルネスによって、あるいは自己啓発によって、『自分のもつ個別的な能力を最大限に開発して、自分らしく生きなさい』という命令が全員にくだされている」……言い換えれば、あらゆる病理(=個性)を水平化する作用たる「メンタルヘルス的社会」と、それに合わせて過剰な逸脱を避けつつ、適度に垂直方向を志向する「プチ狂気」が出現することになる。また、千葉は同対談の中で、前者の傾向を異なる個性を結びつけるものとしての言語=媒介性がなくなった時代だとして、「(根本的な意味での)切断の時代」であるとも位置づけている[6]。

彼らの議論においては、「アルゴリズム」や「データベース」、あるいは「接続」という言葉が頻出することからもわかるように、インターネットが大きく参照されている。であれば、こうした潮流の変化を、インターネットの発展と今一度照らし合わせて確認する必要もあるはずだ。

インターネットは1990年代から、常にグローバルな規模で世界を新しく作り替えるという「夢」を抱えてきた。それはまさに、英文学者マーシャル・マクルーハンが述べた「グローバル・ヴィレッジ」という概念や[7]、ナム・ジュン・パイクのメディアアート作品《Good Morning Mr. Orwell》(1984)が表象したメディアの可能性を継承したものだ。国内においても、1995年にNTTインター・コミュニケーション・センター(ICC)の開館プレイベント「InterCommunicationʼ 95 “on the web” ——ネットワークの中のミュージアム」が開催され、当時はまだ新しいテクノロジーであったインターネットに関する様々な作品が作られた[8]。無論、こうした一面のみ切り取って90年代ネット文化のすべてを語り切ることはできないが、これらはみな、アルゴリズム的知性が水平方向へ人を繋げていくという、ゼロ年代的「接続」思想の先駆者たちだ。しかしながら、そうした「夢」が本格的に表出してくるのは、インターネットが社会にとってのインフラともなった21世紀以後のことである。

90年代の「夢」を継承したゼロ年代は、一方でニコ論壇上にて学者やジャーナリスト、サブカルチャー批評家や政治家といった画期的な顔ぶれをそろえる機会を作り[9]、他方でハッシュタグから数多くのニコニコ動画ユーザーを連帯させた[10]。こうした「接続」思想は、2011年にGoogleのプロモーション楽曲として用意された「Tell Your World」というボーカロイド楽曲において、まさにストレートに表象されている。「いくつもの点は線になって遠く彼方まで響く」という歌詞や、MV中に登場する「ネギ」がそれにあたる[11]。

また、本楽曲を採用するGoogle ChromeのCM映像がニコニコ動画でなくYouTubeに投稿されている点からも、「接続」思想がどのような世界を目指していたかが読み取れる。初音ミクが世界中のネットユーザーをつなげていく過程は、国内の動画投稿サイトであるニコニコ動画ではなく、世界規模で展開されるYouTubeでこそ、公開される必要があった。ゼロ年代はまさに、ユーザー同士をアルゴリズムによって「接続」させた時代であり、それは90年代的「夢」が現実化したものだった。

こうした「接続」思想は、ゼロ年代のサブカルチャー批評にも当然影響を与え、新しい論客を生み出してきた。批評家・宇野常寛は『ゼロ年代の想像力』にてゼロ年代の新しい潮流として「決断主義」を提示し、それ以前の心理主義と差別化した[12]。村上裕一は『ネトウヨ化する日本』にてこうした宇野の議論を、心理主義が「キミとボク」の二者関係、決断主義が「テキとオレ」の二者関係であるとしたうえで、これらがゼロ年代を代表する概念たる「セカイ系」に重なると整理している[13]。二者関係が物語世界の根本を成し、本来存在すべき社会という中間項が喪失していることを「セカイ系」の特徴とするなら、こうした強烈な二者関係に執着してしまう宇野の決断主義も、決してセカイ系を乗り越えることはできない。セカイ系を批判しつつもそれに自覚的であったのか、『ゼロ年代の想像力』の最後で彼は「第三項を導入による関係性の拡張」について言及した。そうした二者関係の克服において、「接続」思想は非常に有効だ。実際、2011年に刊行された『ゼロ年代の想像力』の文庫版に追加されたインタビューでは、彼はボーカロイド文化を肯定的に見ている[14]。

3. 「繋がらない」2010年代思想と「うっせぇわ」

それから10年経った2021年現在。90年代に夢見られ、ゼロ年代に想像・創造された「接続」の思想は、アルゴリズム的知性における楽観主義への「切断」を前に、大きく衰退してきた。こうした背景からか、2010年代の初音ミクは方針を変え、世界中のユーザー同士を接続するのでなく、「初音ミク」自身と「リスナー(=制作者であるボカロP)」との接続を次第に歌うことになる。

このような彼女の変化は震災の翌年に公開されたsupercellの「ODDS & ENDS」において、いち早く確認できる。「がらくた」という意味がタイトルに据えられた本楽曲の歌詞は、一貫して初音ミクからボカロPに対するメッセージとして作成されている。これは2007年時点に登場した「ボカロP(プロデューサー)」という言葉の「プロデューサー」という箇所に改めて注目した楽曲であり、初音ミクをリスナーやクリエイター同士を「接続」するものとして捉えるのではない、別の関係性を再提示している。しかしながら、その手法は2007年当時よりもさらに凝ったものとなっている。本楽曲では歌詞だけでなく、楽曲と映像の二つの側面において、これまでになかったような試みが行われているのだ。

本楽曲における初音ミクの歌声には特徴的な「息継ぎ」が組み込まれているが、これは実際の人間の声が使用されたものである[15]。そうした「息継ぎ」だけでなく、投稿された楽曲MVを見れば、小さなおもちゃのようなロボットと演奏する4人の人間が映像の中心となっており、初音ミクだけが主役とはなっていない。身体的・物理的な親近感を抱かせせるこれらの手法は、それ以前のボカロ楽曲に目立たなかったものだ。こうした独創的な手法で、本楽曲は従来のユーザー間を無限に「接続」するメディアとしての初音ミクではない、「初音ミク」と「リスナー=ボカロP」との蜜月な二者関係を表象した。一時期はゼロ年代的な「接続」思想の象徴だった初音ミクは、その断念と同時に自身を「がらくた」とまで称するほどにふさぎ込んだが、それでもリスナーのためだけに、もう一度歌を歌ったのだ。

初音ミクの方針転換——あるいは、元来有していた方向への回帰——は今でも、「マジカルミライ2020」のテーマソングであるピノキオピーによる「愛されなくても君がいる」をはじめ、多くの楽曲で散見されている[16]。「たとえ(みんなに)愛されなくても無くとも君(リスナー=ボカロP)がいる」と解読できる本楽曲タイトルは、ボーカロイド文化における「接続」という夢の終焉から見いだした、初音ミクの2010年代における新しい方向性だったと考えるべきだろう[17]。

こうして二者関係にこだわった2010年代の初音ミク楽曲は、先述した『ゼロ年代の想像力』における宇野の批判対象に、皮肉なほどに当てはまっていないだろうか。かつてボーカロイド文化には決断主義を乗り越える希望が託されたわけだが、今の初音ミクがどこかセカイ系的な二者関係に終息してしまっている点を考えると、やはり当初の夢が断念された状況が見て取れる。「接続」を諦め、セカイ系のように「キミとボク」の関係のみを歌う2010年代的な初音ミク。こうした思想の潮流を、ここでは「繋がらず敵対しない」思想と仮に称してみよう。

かくして、「接続」の思想は2010年代の到来とともに徐々に衰退した。しかしながら、2010年代という時代は一方で、より強固なアルゴリズムが希求されるようになった時代でもある。「接続」の思想に大きな転換点をもたらした東日本大震災が、今では不可欠なコミュニケーションツールであるLINEをはじめ、数多くのSNSを中心とした社会を生み出した点は注目に値するだろう[18]。震災後の混乱の中、事実確認が取れないままSNS上で流通する大量の情報たちを前に、私たちは情報の処理をアルゴリズムにゆだねていった。こうしたアルゴリズムへの依存状況は、ネット運動家のイーライ・パリサーが「フィルターバブル」と称したような、ユーザーから主体性を剥ぎ取りアルゴリズムに閉じ込めることに対する批判を呼び込むことになる[19]。彼の主張の根幹を占めるユーザーの均一化と水平化はまさに、前節での「メンタルヘルス型社会」へと繋がるだろう。アルゴリズム的に「あなたへのおすすめ」へ誘導される社会は、ゼロ年代の「接続」思想が過剰に進化した形として、2010年代において出現したものだ。

意思判断能力を奪いながら「あなたへのおすすめ」へとユーザーを誘導する「メンタルヘルス社会」は、あらゆる病理を均一的に処理してしまう。「うっせぇわ」を歌う若者たちの姿はそれに対して、ほどよく垂直方向を志向する「プチ狂気」的抵抗だといえる。こうした応答は、「うっせぇわ」における「現代の代弁者は私」という歌詞が「私たち」でなく「私」である点に象徴されるように、いたって個人主義的だ。こうした点は、ビンスワンガーによる人間精神のマトリクスが、他者と関係を構築する「水平方向」と対置関係にある「垂直方向」を同様に重視していたことにも一致するだろう。

以上のように、「うっせぇわ」に見られるようなアルゴリズムによる接続を拒否した個人主義的な思想について、先の「繋がらず敵対しない」思想と対置させ「繋がらず敵対する」思想と称してみたい。

4.国内ネット文化の閉鎖性と「場所」の論理——「繋がって敵対する」思想

上述した「Tell Your World」のように、ゼロ年代のグローバルな思想はアルゴリズムによる「接続」の思想を有していた。それは前節で提示した2010年代の二つの思想——「繋がらず敵対しない」思想と「繋がらず敵対する」思想——と比較して、「繋がって敵対しない」思想と称するべきだろう。世界規模で共同体を作ろうとした点において二者関係をある意味で乗り越える想像力を持っていた「繋がって敵対しない」思想は、ここまで見てきたように、国内においては震災を経て少なくとも失敗に終わっている。

ところで、ゼロ年代のすべてが「繋がって敵対しない」思想に支配されていたかといえば、決してそうではなかったはずだ。

1990年代にアメリカより世界中に広まったインターネットは、1996年の「サイバースペース独立宣言」に代表される「西海岸思想」と称されるアナーキーな個人主義的思想によって支えられていた[20]。だが、こと日本国内ではファミコンをはじめコンピュータ技術が思想より先に存在したこと、80年代以前からのサイバーパンク的イメージが先んじて輸入されていたこと、くわえてネット以前のオタク文化における雑誌上でのコミュニケーション(ペンネームを用いた二次創作の投稿文化)の影響を受けたことが原因となり、オタクの文化拠点として発展してきた[21]。このような90年代の国内ネット文化は、「グローバル・ヴィレッジ」に代表される「繋がって敵対しない」思想ともまた別の思想として、「匿名性」というシステムを形成した。

「匿名性」を考えるにあたっての具体例として参照すべきは、やはりネット掲示板「2ちゃんねる」(現:5ちゃんねる)だろう。2ちゃんねるは先述したような雑誌由来の匿名性に加え、スレッドフロー方式という全ユーザーが平等に扱われる設計が特徴だ。掲示板は「哲学」や「ノートPC」といった話題ごとに作成され、それぞれのスレッド上でユーザーがコミュニケーションを行う。各スレッドはユーザーが書き込むことで掲示板トップページ上にリンクが表示され、他のスレッドが更新されるほど表示位置が下がるものの、新しい書き込みによって再度トップに表示される。これにより、人気のスレッドが常にトップに表示されると同時に人気の無いスレッドが淘汰されることで、ユーザーが流動的に動くシステムが形成されている。情報社会学者の濱野智史は2ちゃんねるの管理人ひろゆきに対するインタビューを参照しながら、それが固定化されたコミュニティの形成を避けるように設計されていることを指摘し、「成員が自由に結成し参加する」という意味で「フロー」と表現した[22]。こうした設計思想と匿名性によって、2ちゃんねるは参加する全員を平等なユーザーとして扱うことを可能にしている。

ユーザーたちはこの設計思想を利用することで、独自なネット文化を形成した。それは、濱野が「フロー」に並んで2ちゃんねるの特徴と指摘した、「コピペ」といわれるものによって成立する。「コピペ」の代表的なものとしては「モナー」という独自のAA(アスキー・アート)で作成されたキャラクターや、「kwsk(「詳しく」の略語表現)」や「イッテヨシ(「死ね」の間接的表現)」などがあり、それらは2ちゃんねる内部で限定的に使用される。あくまで内輪ノリ的に用いられることで、匿名ユーザーが「2ちゃんねらー」という巨大なキャラクターとして協働するための信頼財(社会関係資本)となっているのだ[23]。こうした「コピペ」を通したユーザー同士の連帯は非常に強く、2005年に生じた2ちゃんねるの代表的キャラクター「モナー」に対する株式会社エイベックスの商標化問題にみられるように、第三者に私有化されることを徹底的に拒否する性質を持っている[24]。

このような国内ネット文化の持つ閉鎖性はその性質ゆえに、通常であれば覚えるだろう倫理的抵抗感を容易に乗り越え、誹謗中傷をも容易に行える環境をも作り上げた。2002年の日韓ワールドカップにおける不正審判疑惑を通した大量の「嫌韓」的書き込みは[25]、先述の「接続」思想と対置されるべき、負の側面といえる。2ちゃんねるの創造・想像力は文字通り、「悪い場所」として機能していたのだ[26]。

こうしたゼロ年代文化が体現しているのはいわば「繋がって敵対する」思想であり、2010年代の初音ミク楽曲に見られた「繋がらず敵対しない」思想とも、「うっせぇわ」に見られた「繋がらず敵対する」思想とも異なる。2ちゃんねるユーザーが「2ちゃんねらー」という集合的存在となるために連帯する行動を支えていたのはいわば「繋がって敵対する」思想であり、「繋がって敵対しない」思想とは対照的な、ゼロ年代の思想のもう一つの面である。

5. メカクシ団という「居場所」

「繋がって敵対する」思想において生じてきた、無数の匿名的かつ反倫理的「コピペ」たち。それらは「うっせえわ」のように「繋がらず敵対する」ものでもなく、また「Tell Your World」のように「繋がって敵対しない」ものでもない。では、こうした「繋がって敵対する」思想は、ボーカロイド文化においてどのような形で表れたのだろう。その答えとして、筆者はカゲロウプロジェクトを検討したい。

カゲロウプロジェクトはいくつかの時系列によって構成され、基本的には主人公である【シンタロー】の視点が最も中心に来るものの、楽曲や続編小説ごとに時間軸が変わるだけでなく、楽曲と小説、漫画、アニメのそれぞれで公開順も異なる。そのため、本稿では公開された楽曲順や小説、漫画、アニメの発売順ではなく物語上の時系列を中心に、メディアごとに異なった展開を見せるカゲロウプロジェクトの中でも共通する箇所を整理しつつ、物語を解説しよう(以降では物語ごとに大きく関係する楽曲を、それぞれの文末に鍵括弧に入れて明示した)。

時系列をもとに物語を整理する際、最も過去の出来事はメカクシ団の登場からはるか昔、メデューサの【アザミ】と少年【ツキヒコ】の出会いである。あらゆる生命以前にある神的存在として語られるアザミは、人間の寿命が有限であることを嘆くなかでツキヒコという少年に出会い、人間性を獲得し、【シオン】という娘をさずかり幸せに暮らしていた。アザミは生活の中で老いゆくツキヒコを見て彼の死を恐れるようになるが、そうした不安に対し「目が冴える蛇」という存在にそそのかされる形で、「終わらないセカイ(同じ日を繰り返す世界)」である「カゲロウデイズ」を創出する。約束された平穏な生活をそこで迎えるつもりのアザミであったが、直前に村の人々からの迫害と襲撃に家族があうことで自身の存在が家族を不幸にしてしまうことを悟り、一人でカゲロウデイズに引きこもってしまった(「シニガミレコード」)。

残された娘のシオンはアザミ同様に人間と結ばれ、【マリー】と名付けられた娘とともに森の中でひっそり暮らした。しかし、ある8月15日に森の外に出たマリーを人間が襲ったことをきっかけに、シオンとマリーはともに死を迎えてしまう。死にゆく2人をカゲロウデイズより見ていたアザミは、カゲロウデイズに「8月15日に死んだ命を引き込む」よう指示することで引き入れ、2人はアザミと出会う。シオンとアザミはカゲロウデイズを含むすべての蛇の能力を支配する「目を合体させる蛇」の力をマリーに託し、それを命の代替とすることによって現実世界に送りかえしたのだが(「群青レイン」)、蛇を管理する能力をマリーに授けたことで管理できなくなったカゲロウデイズは、以後8月15日に同時に死んだ2人の命を取り入れ続けることになる。蛇の能力を自己管理できないマリーは数十年間を一人で暮らす (「空想フォレスト」)。

こうして蛇が形づくった「終わらないセカイ」はシンタローたちの親世代にあたる、【ケンジロウ】と【アヤカ】によって関心を持たれることになる。高校で教師をしているケンジロウは、榎本貴音(後のメカクシ団メンバー【エネ】)と九ノ瀬遥(同様【コノハ】)の元担任で後述する【モモ】の現担任、メカクシ団創設メンバーの【キド】、【カノ】、【セト】の義父、そしてメカクシ団初代リーダーたる【アヤノ】の実父であり、さらに後述する【ヒヨリ】の義兄(ヒヨリはアヤカの実妹)と、登場人物のほぼ多くと関係する重要人物だ。彼は妻アヤカとともに「蛇」にまつわる能力を研究するなか、土砂崩れにあうことで夫婦ともに死亡する。カゲロウデイズの条件を満たしたことで接触した2人はシオンとマリーの場合と同様、どちらか一人が蛇の能力とともに現実世界に帰ることとなるのだが、ここでケンジロウには先述の「目が冴える蛇」が取りつくことになった。「目が冴える蛇」に事実上支配された彼は、カゲロウデイズにいる妻を救い出すためにあらゆる凶行に走り続け(「デットアンドシーク」)、一方で貴音を利用し「目を醒ます蛇」を取りつかせた「エネ」を生み出し(「ヘッドフォンアクター」)、他方で遥を利用し「目を覚ます蛇」を取りつかせた「コノハ」を生み出した。こうした凶行に気づいたアヤノは、高校校舎の屋上より飛び降り自殺をすることで自らカゲロウデイズに接触し、父親の凶行を止めようとする(「アヤノの幸福理論」)。

だが、そうした彼女の試みすらも「目が冴える蛇」の策略に取り込まれ失敗に終わってしまう[27]。キド、セト、カノの三人はケンジロウのもとから離れ、アヤノが名付けた「メカクシ団」という名前のもとでアジト(作中で「秘密基地」と称される)を作り、暮らし始める。そのさなかでセトがマリーを見つけ森から連れ出し(「少年ブレイヴ」)、キドがシンタローの妹であり「目を奪う蛇」に取りつかれたモモを引き入れる(「如月アテンション」)。

ここでようやく主人公のシンタローが登場し、物語が展開される最も基本の時間軸となる(小説、漫画、アニメではシンタローとエネの視点で物語がスタートしている)。アヤノの元同級生であるシンタローは彼女の自殺をきっかけに、数年間の引きこもり生活を送っていた(「透明アンサー」)。そんななか、電子存在のエネがネット上から到来し(「エネの電脳紀行」)、彼女の悪戯によって自室のパソコン機材が壊され、代わりを買うために家電量販店へと外出することになる。向かった家電量販店にてテロリスト集団による立てこもり事件に巻き込まれた彼はそのなかでメカクシ団と初めて出会い、エネの半ば強制的な手段により、二人が加入する(「メカクシコード」)。

メカクシ団の主要メンバー9人中で最後に加入するのが、【ヒビヤ】という小学生とコノハだ。田舎に住む少年であったヒビヤはクラスメイトのヒヨリに恋心を寄せるなか、彼女に荷物係を任命され、都会を訪れる。ヒヨリの義兄たるケンジロウの誘導で彼が暮らした家(=キド、カノ、セトが暮らした家)にヒヨリが立ち寄り、コノハと出会うことでヒヨリ、ヒビヤとコノハは3人で行動することになるが、「目が冴える蛇」たるケンジロウの策略によりヒヨリとヒビヤはトラックに轢かれる形でカゲロウデイズに接触する(「カゲロウデイズ」)。同時にカゲロウデイズに巻き込まれたコノハはただそれを傍観するだけであり(「コノハの世界事情」)、やがて「目を凝らす蛇」の能力を手に入れたヒビヤとコノハが現実に戻り、残されたヒヨリを救うためメカクシ団に合流する。こうして集結した9人のメカクシ団メンバーは、凶行に走り続けるケンジロウ=「目が冴える蛇」の目的を阻止すること、およびカゲロウデイズに取り残されたアヤノやヒヨリを救出することを目標に、活動を始める。

こうした物語が複数楽曲の歌詞などで展開されていくことで、カゲロウプロジェクトの大きな物語が構成されている(なお、概ねこうした出来事の順序に沿って、メディアをまたいで8月15日が「ループ」しているという構造になっている)。こうして物語を見ていくことで、カゲロウプロジェクトが、「目が冴える蛇」=ケンジロウと「蛇」に取りつかれたメカクシ団メンバーとの対立で物語が形成されていることが分かるだろう。先に確認したように、ケンジロウは養父や実父、義兄や担任教師というように、メカクシ団メンバーにとってあらゆる場面で権威的な存在だ。メカクシ団が秘密基地に終結し、「目が冴える蛇」=ケンジロウの野望を阻止しようとする様相は、担任や父親といった明らかな権威的象徴に対する、団結を経た抵抗と考えられる。そうした構図は、連帯して権威や倫理に対抗するムーブメントを発生させ続ける、集合体としての「2ちゃんねらー」ともどこか類似していないだろうか。2ちゃんねるにおける掲示板はメカクシ団にとって「秘密基地」であり、そうした拠点を構え権威と戦う姿勢は、ゼロ年代的「繋がって敵対する」思想を体現しているだろう。

こうしたカゲロウプロジェクトの「悪い場所」的性質は、多様なメディアで展開される物語世界を超えて、現実世界にも影響を与えた。当時問題となった「カゲプロ厨」といわれる存在は、そうした影響を象徴していた。2010年代にカゲロウプロジェクトが人気になるにつれ、動画サイトや掲示板等において「○○プロジェクト」=「カゲプロのパクリ」と囃し立てることや、パーカーを着ているだけで「カゲプロのパクリ」と主張し、パーカーを着たキャラクターを描いた人に対し誹謗中傷をするなどの事件が発生してきた[28]。

6.  「終わらないセカイ」を超えていくために

メカクシ団の作る秘密基地は、ゼロ年代ネット文化が作り上げた「悪い場所」であり、「繋がって敵対する」ための拠点である。こうしたプロジェクトの登場がまさに「繋がって敵対しない」思想の代表たる「Tell Your World」と同時期に登場していることには、もはや偶然以上の大きな意味さえも感じられる。

しかしながら、ゼロ年代の影響が強く残る2011年に始まるも、少しずつ「繋がらない」思想が見え始めた2010年代にかけて展開されたカゲロウプロジェクトの物語は、決してそれまでのゼロ年代的「悪い場所」の想像力——権力に反逆し、立ち向かう(「前を向く」)想像力——に完全に支配されているわけでなく、むしろゼロ年代的問題をある意味で乗り越えようとする姿勢をも内包していると、筆者は考えている。そのことは、メカクシ団が一体何に対して「敵対」しているかという問題により明らかになる。

確かに、カゲロウプロジェクトにはケンジロウ=「目が冴える蛇」という明確な敵が一貫して立ちはだかっている。しかし、こうして彼という個人を敵とみなすと、カゲロウプロジェクトにおける真の敵ともいえるものを、私たちは見落としかねない。アザミという永遠の命を持ったメデューサが人間と恋に落ち、その儚い命との別れを嘆いたことによって作られたのが、カゲロウデイズ=終わらないセカイのそもそもの成り立ちだった。つまり、カゲロウプロジェクトのすべての物語の根本にいるのは登場人物がそれぞれ内面で抱える悲しみであり、恐怖なのだ(実際、メカクシ団のメンバーは、身につけてしまった「蛇」の能力によって、多かれ少なかれコンプレックスや生きづらさを抱えている)。メカクシ団の最終目的が、アザミの嘆きに端を発する悲しみの連鎖を断ち切り、カゲロウデイズの外側へと出ることなのだとしたら、それを阻んでいるものこそが、彼ら彼女らが真に立ち向かうべき敵なのだ。

ここで、ケンジロウ自身も不慮の事故で愛する妻に先立たれたという悲しみを抱えた人物だということを思い出したい。これを踏まえると、最終的にメカクシ団が「敵対」すべきは、悲しみの前に膝をつく、自分自身を乗り越えることなのではないだろうか。そして、それはまさに仲間たちと「秘密基地」で「繋がる」ことで達成される。こうした連帯により恐怖を乗り越える精神的成長が匿名的な――パーカーのフードを目深に被り、「メカクシ」をした――少年少女を主体にして描かれている点は、まさにカゲロウプロジェクトにおける「成長」の表象を支えている。これが「Tell Your World」と異なるのは、「繋がり」が「癒し」や「楽しさ」の方向性ではなく、困難に立ち向かう「強さ」の方向性として提示されているということだ。そして、そうした匿名的な「繋がり」こそが、カゲロウデイズ=終わらないセカイを打ち破る可能性を秘めたものなのだと伝えている。

東日本大震災という未曽有の大災害が起きたことで、ゼロ年代的文化の終焉と2010年代への新たな転換点とされた2011年には一方で「Tell Your World」がYouTube上で公開され、他方でカゲロウプロジェクトがニコニコ動画上で始動した。その後の2010年代ボーカロイド文化には、「愛されなくても君がいる」に代表される初音ミクとリスナーの二者関係のみを描写する楽曲が生み出し、そして「うっせぇわ」を生み出した。そんな10年間で、かつて少年少女だった自分は高校生でもなくなり、大学生でもなくなった。小中学生を中心に支持を得たカゲロウプロジェクトの視聴者の多くは、今では大学生か、あるいは社会人だろうか。「少年少女前を向け」と背中を押された私たちが今、繋がることをあきらめ、方やミクとのふさぎ込んだ二者関係に閉じこもり、方や「社会人じゃ当然のルール」に「うっせぇわ」と叫んでいるのだとしたら、それはあまりにも皮肉なことだ。

だからこそ、10周年を迎えたカゲロウプロジェクトが再始動という形で「チルドレンレコード」の新録版を発表し、「少年少女、前を向け」という言葉を再び発したのには、大きな意味があるのではないだろうか。2013年に発表されたアルバム『メカクシティレコーズ』において、じんは「サマータイムレコード」という曲をカゲロウプロジェクトのエンディングテーマとして設定し、秘密基地の終わりを一度、宣言している 。にもかかわらず、2021年に新たな「チルドレンレコード」を発表し、冒頭に「少年少女前を向け」というフレーズを用いてきたことは、「切断」とともに繋がることを諦めた私たちに再度「繋がり」の重要さを提示し、困難を直視することでセカイを打ち破る力を与えようとしているように思えてならない。10年前に私たちを突き動かした力は、すでに少年少女とはいえなくなった私に、何を与えてくれるのだろう。

【註】

[1] 「根暗で自信がなくて、そういう自分が嫌だった」 18歳のシンガーAdoが渋谷のビジョンで「うっせぇわ」を見た日(文春オンライン)https://bunshun.jp/articles/-/45341

[2] 「うっせぇわ」はその流行に際し、主として保護者から「教育上よろしくないのではないか」という不安が多く寄せられ、またその歌詞に共感性羞恥を覚えるなどの問題が生じていた。〔参考:関谷秀子「『うっせぇわ』歌のせいで娘が反抗?―子どもが家庭外から受ける影響は」(Yahoo!ニュース 個人)https://news.yahoo.co.jp/byline/sekiyahideko/20210318-00227436

[3] 千葉雅也・松本卓也「ポスト精神分析的人間へ——メンタルヘルス時代の〈生活〉」〔『atプラス』30号(太田出版、2016年)所収〕

[4] ビンスワンガーについては松本による以下の論考も参照。松本卓也「水平方向の精神病理学にむけて」〔『atプラス』30号(太田出版、2016年)所収〕

[5] 千葉雅也・松本卓也、前掲書、13P

[6] 千葉の言う「切断」について詳しくは、同氏の主著『動き過ぎてはいけない——ジル・ドゥルーズと「切断」の哲学』(河出書房新社、2013年)を参照。

[7] メディア学者マーシャル・マクルーハンによって広まった用語。マクルーハンによれば電子的マスメディアの登場によってそれまでのメディアにおける障壁であった時間と空間の限界が取り払われ、地球規模で対話し、生活することができるようになった。その意味で、地球全土がひとつの村に変貌したことを「グローバル・ヴィレッジ」と彼は称した。

[8] 本展覧会で展示された江渡浩一郎による《RealPanopticon》(1995)は、ネットワーク上における人間の行動の視覚化を目的に、ウェブサーバーにユーザーがアクセスする様相を一覧で見られるようにした作品である。本作品はサーバー管理者である江渡によるユーザーたちの管理制御の表象という点でインターネットの負の側面も表象する一方、ネットワーク上でのユーザー同士が交差し、衝突しているという面も表象している。

[9] 大澤聡・さやわか・東浩紀「はてなダイアリーの時代——批評とネットの交差点」〔『ゲンロン4』(ゲンロン、2016年)所収〕

[10] 濱崎雅弘・武田英明・西村拓一「動画共有サイトにおける大規模な協調的創造活動の創発ネットワーク分析——ニコニコ動画における初音ミク動画コミュニティを対象として」〔『人工知能学会論文誌』25巻1号(人工知能学会、2010年)所収〕

[11] 「ネギ」とは初音ミクのN次創作コンテンツであり、初音ミクがリリースされて1週間後に投稿された動画(「【動画】VOCALOID2初音ミクに「Ievan Polkka」を歌わせてみた」https://www.nicovideo.jp/watch/sm982882)においてはじめて登場している。この「ネギ」は海外のネット掲示板4chanにて作成された「ロイツマ・ガール」の二次創作コンテンツであり、ニコニコ動画上のユーザーが本動画を参照してさらに創作をするでその存在が認知され、今日では初音ミクを開発したクリプトン・フューチャー・メディア株式会社の提供するコンテンツにおいても「ネギ」が用いられている。動画のN次創作に伴う「ネギ」の認知拡大については前註の濱崎・武田・西村論文を参照。

[12] 宇野常寛、『ゼロ年代の想像力』(早川書房、2008年/文庫版2011年)

[13] 村上裕一『ネトウヨ化する日本――暴走する共感とネット世代の「新中間大衆」』(KADOKAWA、2014年)

[14] 宇野、前掲書、p.432-434。

[15] なお、息を入れているのは、後にryoの楽曲提供のもとデビューする歌手のTiaだ(2012年にじんとともにリリースしたCD「ODDS&ENDS / Sky of Beginning」のクレジットに併記されている)。

[16] なお、今年10月に開催された「マジカルミライ2021」のテーマソングはcosMo@暴走Pが手掛けた「初音天地開闢神話」という楽曲である(https://nico.ms/sm39209934)。本楽曲は2007年に彼が流行させた初音ミクによる過剰なまでの早口フレーズが盛り込まれ、そうした楽曲がテーマソングとして採用されている流れはある意味で、ボーカロイド文化が2007年当時へ回帰しようとしていることを示唆していると考えられるだろう。

[17] かつての「接続」思想の終焉という問題については、初音ミク10周年を祝して投稿されたハチによる「砂の惑星」(https://www.nicovideo.jp/watch/sm31606995)とwowakaによる「アンノウン・マザーグース」(https://www.nicovideo.jp/watch/sm31791630)を参照することもできるだろう。すでに「米津玄師」と「ヒトリエ」として音楽界でも有名になっていた両ボカロPの再投稿は界隈に大きな衝撃を与え、一時期的にでもシーンを活性化させたものの、両者が用意した歌詞はいずれも悲観的である。「砂の惑星」にはボーカロイド楽曲における数多くのモチーフが歌詞や映像の中に表れており、楽曲全体がボーカロイド10周年を意識して作られているが、「今後千年草も生えない砂の惑星」と歌詞にあるように、シーンの現状をまさに悲観的に語り上げている。ここで指摘される砂の惑星とは言うまでもなくボーカロイド文化の比喩であり、彼はそれを「立ち入り禁止の札で満ちた」とまで称している。一方、wowakaによる「アンノウン・マザーグース」は彼が一貫して守り続けた映像形式を踏襲しながらも、初音ミク自身の話と自身の話を混ぜ合わせる形で制作されているといえる。「テノヒラ」や「プリズムキューブ」などの楽曲に見られるように、彼は歌詞の中に時にネガティブな言葉を詰め込む傾向があるが、そうした言葉の用いられ方は本楽曲においても見られる。「繰り返す使いまわしの歌にまた耳を塞いだ」という歌詞は、いわゆる「ボカロっぽさ」を作り出した本人とまで称されるwowaka自身の様式が使いまわされることに対する批判か、あるいはボカロ文化におけるN次創作的にユーザー間が創作を連鎖させていくことに対する批判とも取れるだろう。メジャーという場を獲得した彼らのこうしたメッセージは、一つの理想が終わったボーカロイド文化に別れを告げているようにも見える。

[18] 「どのようにしてLINEは生まれたのか」(東洋経済オンライン)
https://toyokeizai.net/articles/-/18011

[19] イーライ・パリサー/井口耕三(訳)『フィルターバブル――インターネットが隠していること』(早川書房、2012年/文庫版2016年)

[20] 1996年にアメリカで成立したインターネットを規制する「通信品位法」に対し、ジョン・ペリー・バーロウが起草した闘争宣言。

[21] ばるぼら・さやわか『僕たちのインターネット史』(亜紀書房、2017年)および木澤佐登志『ダークウェブ・アンダーグラウンド——社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち』(イースト・プレス、2019年)参照。

[22] 濱野智史『アーキテクチャの生態系——情報環境はいかに設計されてきたか』(NTT出版、2008年/2015年)

[23] 濱野、前掲書、P106頁。

[24] モルドバ出身のアーティストO-Zoneがリリースした楽曲「恋のマイヤヒ」(原題:「Dragostea Din Tei」)と、それを用いたフラッシュ動画が2004年ごろにブームとなり、翌年に株式会社エイベックスのグループ会社がAAを「のまネコ」という名前で商標登録しようとしたところ、2ちゃんねる上で殺害予告を含む巨大な事件になってしまったというもの。最終的に、商標登録がなされることは無かった。

[25] 2002年の日韓ワールドカップを機に、韓国の対応とメディアの報道に不満を持った一部ユーザーが一斉に嫌韓的な書き込みと反朝日新聞的な書き込みを行ったというもの。

[26] 「悪い場所」という概念は今日ジャーゴン的に利用されているが、元来は美術評論家の椹木野衣の表現である(椹木野衣『日本・現代・美術』新潮社、1998年)。同書で椹木は90年代の村上隆や中ザワヒデキを援用しながら、それらが底なしのニヒリズムに由来するパロディめいた所作であったことを指摘している。

[27] 「目が冴える蛇」の目的はすべての蛇を現実世界に出現させてから管理することであり、それは能力を得てカゲロウデイズから帰還した人々の死を意味している。「目が冴える蛇」は「蛇」の本能的性質としてケンジロウの願いを叶えるために動いているが、一方で本作中の「蛇」は取りついた人間の願いを叶えると意思を失ってしまうことが作中では語られている。「目が冴える蛇」はそうした「蛇」の本能に抗い自身を存続させるため、「(本能的に)ケンジロウの願いをかなえようとするが、それがかなわない」という状況を作り出そうとしていた。そのため、「目が冴える蛇」はアヤノをカゲロウデイズに閉じ込め、願いがかなわない状況を作り出し、次にその状況を打開しようする=ケンジロウの願いを叶えるという名目で「目を合体させる蛇」のカゲロウデイズを作り出す能力を使用し、現実世界そのものを「終わらないセカイ」とさせる(もう一度ケンジロウの願いを叶えるためにセカイをやり直す)ために暗躍した。

[28] こうした問題は外部メディアなどで積極的に報道されていたわけではないが、一方でニコニコ動画上には数多くのコメントなどが残され、そこからかつての騒動がどのようなものであったかを見ることができる。ボカロPのほぼ日Pが投稿した「【結月ゆかり】パーカー着たキャラはどう考えてもカゲプロのパクリ」 (https://nico.ms/sm21440508)は、当時のニコニコ動画上で問題視されたカゲプロ厨といわれるものがどのようなものであったかを動画化したものとして参考になるだろう。

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