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LOCUSTレコメンド ①れみどり「meet α's eyes――2020年代初頭に読む『ヨコハマ買い出し紀行』」

 LOCUST +では、批評的な文章を書く熱意や才覚や必然を持っている、けれど広く発表する場を持たない人の文章を、「LOCUSTレコメンド」として、今後紹介していきたいと思います。まだ知られていない、けれど力を秘めた文筆家の表現を、みなさんとここで共有できれば嬉しいです。

 最初にご紹介するのはれみどりさんです。LOCUSTを以前から読んでいただいている方で、こちらのブログで音楽作品やライブ公演について、強い気持ちと確かな描写力を持って文章を記しております。ご本人は「批評ではない」と仰っていますが、People In The Boxのライヴ評などは、演奏の様子を細密に、かつ簡潔に言葉にしていて、荒削りながら、文筆の力を感じさせます。

 今回はマンガ『ヨコハマ買い出し紀行』についての批評を書いていただきました。「場所」の話であり、「移動」の話であり、そして「移動できないこと」の話でもあります。LOCUSTがテーマにしてきたことと重なる内容となっており、楽しんで頂けるかと思います。

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 黄昏の世。または、夕凪の時代。これは、現代社会を形容するための言葉ではなく、私自身の実感を表現した言葉でもない。本稿で扱う『ヨコハマ買い出し紀行』の登場人物たちが暮らす、人類の文明が滅びてゆく時代を表す言葉だ。

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 『ヨコハマ買い出し紀行』は、アフタヌーン誌にて1994年から2006年まで連載されていた、芦奈野ひとしの漫画作品である。話のメイン舞台「カフェ・アルファ」があるのは三浦半島であり、旅立ったオーナーに代わってこの喫茶店をひとり営む主人公の人型ロボット、初瀬野アルファ(以下「アルファ」と表記)がコーヒー豆の買い出しに横浜へと行くほか、武蔵野や厚木など、関東地方の地域に点々とスポットが当たってゆく。
 ……などと説明を始めてしまうと、本作品が現実世界と同じ地平に描かれたご当地フィクションであるかのようだが、作品のために誂えられた地球は過度に温暖化が進行した後のものだ。湾岸の都市群は海底に沈み、先述の横浜や厚木といった地域も機能を高台に移すことでどうにかその名を保っている。陸地の減少により経済活動は停滞し、気候の問題もろとも解決の目処が立っていないために、人類の文明は近い未来に滅びるであろうと示唆されている。どうやら作中世界でもそのように認識されているらしい。既にひととおりの混乱が起きた後であるのか、領土や資源が唐突に失われるおそれすらある気候下では争うモチベーションが起こりようもなかったのか。原因は定かではないが、登場人物たちは概ね穏やかに終わりゆく日々を暮らしている。すべての人類がやすらかな眠りにつくまでのこの時代を夕方に擬えたのが、冒頭に示した「黄昏の世」「夕凪の時代」といった表現だ。

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 また、この世界にはアルファをはじめとした人型ロボットが、人類の数に比べれば少数ではあるものの存在する。仕事や食事などの生活様式も概ね人類と共通であるが、ロボットたちは人類と違い見ための歳を取らない。ロボット以外にも、自然物と人工物の中間的存在や、ロボット開発時の関連技術が使われた製品など、この世界に特有のものは多数登場する。

 以上駆け足で説明してきたとおり、終末ものSFかのような設定が組まれた作品ではあるが、大掛かりな破滅の展開は設けられない。またサバイバル的な生き様も話の主軸には置かれない。カフェ・アルファ周辺の人々がそれぞれの時を生きている、それがただ静かに、であると同時に間合いや表情を豊かに描写されている。

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 過剰さに刺激されないままの読者の想像力は、登場人物の官能に寄り添うように発動する。読み進めるにつれ、自身の知覚が登場人物の知覚と馴染んでくるようにすら感じられる。読者にそう錯覚させる仕組みが、本作では仕掛けられているのだ。

 ロボットの眼に近い素材でできたレンズがついた、本体から伸びたコードをアルファが咥えると撮影した像を確認できる特殊なカメラがところどころで登場する。これが使用されるエピソード群は、作中でもとりわけ至福の、ふたつの身体がひとつに重なるかのようなシンクロ体験を読者に齎す。

 アルファはカメラの眼によって固定された一瞬を、こう感じとる。

夕方の あの時からの時間経過が
まるでうそのように
今 確かに目の前にひろがる光景    
動きこそしないけど
少しなら視点をずらすことさえできる(中略)   
このカメラは写した時からの時間が長ければ長いほど
容赦なくリアルな昔へ私をひきもどす
(第41話)

 まるで過去の場面に立っているかの体験をもたらしてくれるこのカメラを、アルファは「時間旅行機」であると例える。しかし、像を見る手段が我々と異なるだけで、ここでアルファが行っているのは過ぎたときを想うこと、つまりは「回顧」だ。読者にもきっと経験のあるであろう回顧をアルファに体験させることにより、読者とアルファの感じ方もまた、アルファとカメラのように強く結びつく。表情や動作以上に体験を同期させること、感情移入の対象が外見の老いないロボットである本作では、より肝要となる仕組みだ。

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 世界をクロップしその像を読者へと送り出すのは、アルファやカメラの眼だけではない。読者が借りる中でもっとも特殊な「眼」は、上空を回遊するターポンという飛行機から地上の様子をうかがうロボット、子海石アルファ(作中にて、アルファなど地上のロボットたちのオリジンであることが示される)の眼である。彼女は地上のものたちを観察できるものの、干渉はできない。その逆も然りである(地上からはターポン内の様子を認識している様子がないため、若干非対称的な関係ではある)。神に代わる存在として設定されたのかもしれないが、置かれた意図は最後まで明らかにされなかった。
 しかし、作中において唯一俯瞰の視点がとれる子海石アルファがアルファ同様ロボットの眼を持つ者であったために、読者はアルファと通わせた回路を活用して、彼女の体験をも受けとめられる。彼女もまた、読者へと働きかける役割を持てたのだった。カメラとアルファの接続と近い感触でもって、彼女が意識する大きなスパンでの変化を、読者は感じ取ることができる。

 アルファが見つめ、カメラが見つめ、子海石アルファが見つめる世界。自身周辺のミクロな世界、ある瞬間にて停止させられた世界、ターポンから俯瞰したマクロな世界と、宿る身体と役割を異にするそれぞれの「眼」がうつすものは異なる。しかし、ロボットの眼であるという共通点のもとににうつった世界は、スケールや解像度を自在に変えながら新たに結ばれた像となり、読者へと自然に提示され、体験される。これはそれぞれの立場や視野の違いを説明的に描き切る必要がない、描かれない部分を読者の想像力に任せられる漫画の形式だからこそ、実現可能な効果でもあったのだろう。

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 かくして共有されたロボットの眼は、読者に何を訴えかけるのだろうか。

 作品の中盤、様々な相手との交流を経てきたアルファには、新しいものが見えるようになる。それは、人類とロボットが……一緒に過ごしてきた人々と自分が、同じ時間を生きてはいないという事実だ。

私も 今はみんなといっしょにいるけど
これからも同じ時代の人って言えるのかわかんないし……
マッキちゃんはタカヒロと時間も体もいっしょの船には乗ってる私はみんなの船を岸で見てるだけかもしれない
マッキちゃんとタカヒロは ずっといっしょなんだよね
それがうらやましいよ
(第45話)

 皆の「船」を見ているしかできないアルファの切なさは、ここまでロボットの眼を借りてきた読者にまで響いてくる。さらには、現実の読者自身もまた、長い目で見れば「船」に乗った存在でしかない。主観では見えづらいが揺るぎなくある摂理を、アルファから借りたままの眼で見つめてしまえるようになっている。

今の私だったら「いってらっしゃい」なんて
ただ送り出したりするだろうか
(第108話)

 これはアルファが、カフェ・アルファに残ると選択しオーナーを送り出したかつての自分自身を思い起こすシーンのモノローグ。アルファの心残りは、残ると選択したわけでもないのに皆を見送らなければならない自身の運命への気づきさえなければ、生じえないものであった。本来読者とは共有しようのない出来事が前提にあるはずなのに、このシーンのアルファの痛みをも読者は追体験できてしまう。読者にも、「船」に乗る自身の姿を追った眼の記憶が残っているために。

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 しかしアルファは、「船」を見送ることしかできない自らの運命から目を背けない。一瞬を焼き付けられるカメラにばかり固執せず自身の眼で、それぞれの「船」に乗る皆と向き合える時間、カメラが残す像よりもいくらか長いだけの瞬間の重なりを見つめる。
 
 アルファがとった生き方を、作品中盤以降の流れをざっくりと追いながら確認しよう。
 親しい人々と自分とで違う時間の流れ、またひとり過ごしてきた時間の上にあたらしく築かれた彼らとの時間の重みに気づいたアルファは、あるきっかけからカフェ・アルファを休業し、1年間にわたる旅へ出る(第64話-第78話)。地図でしか知らずにいた場所を自分の眼で見て、自分の足で歩き、世界をより濃く認識することを主目的として。それは、これまでアルファ自身が感じてきた「知識」と「体験」の差異を、別のかたちで識りなおす試みであった。
 この旅から帰ってきたあとのアルファは、以前よりも大局的な変化を感じ取れる眼を得た者として描かれている(第81話: 留守の間に起きた出来事を聞いたあとで、長い時間を生きるはずの自分にも感じられる「1年間」があると認識するエピソード 等)。アルファ周辺の人やものたちも変化を見せ始める。一緒に新しいものを見てきた地域の子供たちは成長して巣立っていき、なにかと目をかけてくれていた大人たちは老いてゆく。
 しかしアルファは変わりゆく「自分の場所」に対して湧き起こる感情たちをも、ひとつひとつ新たな体験として捉えていく。自分自身で見て感じることを繰り返してきたアルファにとっては、むしろこれこそが自然な選択であった。

 そして、今いる場所で自分の日々を使うアルファの姿もまた、読者の眼に前向きにうつり、都度伝わる感情は読者のうちでもはじけるのだ。

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 夕日にさらされるベッドタウンを自室の窓から眺める時間が長くなり、春の近さを知った。こんなにも小さな観察と予感でさえも、限りある時間を悲しまず、諦めず、麻痺せずに生き抜く力を支えるのだと、私は忘れないでいたい。
 穏やかな眠りにつくその日まで。

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