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私達が皮肉なインスタレーションと化す——MUCA展 ICONS of Urban Art 〜バンクシーからカウズまで〜感想

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展示室前の看板(著者撮影)

 就職活動が本当の意味でひと段落し、来年度から広島の大学で図書館職員をすることになった。日本を代表する大都市とは言え地方にIターンすることになったわけだが、実は自動車免許を何一つ有していない私にとって、免許取得が現在最大の課題となっている。3日前から免許についての情報を収集しつつ、明日以降で諸々の手続きを行う予定だ。いずれにせよ、今日は日曜日なので何もできない。約100日後には京都を離れることだし、せめて京都市内で見られるものを可能な限り見ていこうなんてふと思ったことで、例によって京都市京セラ美術館に行った。

バンクシー《Welcome Mat》(2019、著者撮影) 

 東西北を山に囲まれ、南には東海道線と東海道新幹線が横断する京都市は盆地という特徴も相まって、近現代とは思えないような「壁」に囲まれた都市だ。そんな京都の一等地にある岡崎公園の中心にある京都市京セラ美術館で行われる美術展「MUCA展 ICONS of Urban Art 〜バンクシーからカウズまで〜」は、小綺麗な京都岡崎地区からはある意味で無縁な、ストリートアートをはじめとした新たなアート的実践に焦点を当てた美術展である。都市空間における言語、文化、宗教、出身地などを越境する美術実践という意味で用いられるアーバン・アートの美術館として設立されたMuseum of Urban and Contemporary Art (MUCA)の展覧会たる本展では、まさにアートを通した社会批判やある種の運動体のような姿勢も強く感じられるものであり、国内でも有名なバンクシーの作品はまさにその姿勢を強く表明するものであるだろう。正体不明のアーティストとして世界中で活躍する彼の作品はある意味で「敵対」が一つのテーマであり、紛争中でのパレスチナ上で展開されるストリートアートの数々はまさにその姿勢を強く反映しているだろう。彼の作品はだが、なかでも、本展覧会で展示された作品《Welcome Mat》(2017)はそんなテーマをわかりやすく表明している。「Welcome」と書かれたマットの刺繡はヨーロッパの密入国斡旋業者によって配られた浮力のないライフジャケットでつくられており、さらにその文字は難民キャンプにいる女性によってつくられたものであることが、作品ステートメントを通して明らかにされている。本作を中心とした制作はバンクシーのポップ・アップ・ストアで販売され、その収益はヨーロッパにおける難民問題へと寄付されることになったようだが、一方でイタリアの裁判所における移民救助活動への資金提供を違法とする判決を提示した事実によって、本作は非常に複雑な政治問題と同時に社会の不寛容に対するアンチテーゼ的姿勢を提示することに成功しているといえるかもしれない。

JR《28ミリメートル,ある世代の肖像,強盗,JRから見たラジ・リ, レボスケ モンフェルメイユ 2004》(2011、著者撮影)

 そんなバンクシーを代表に、本展覧会はアーバン・アートの名のもとで従来的な美術空間とは別の空間——ストリート、或いは戦場などで繰り広げられた活動を今一度、美術館という空間で回収し、戦争どころか空襲さえ知らない京都の岡崎で展開されている。1917年の《泉》を一つの起点とすることが可能かもしれない現代アートの歴史において、新しいアートは常に従来のアートに対するアンチテーゼとして展開され、そのアンチテーゼを吸収したアートの世界に対するさらなるアンチテーゼが展開され…という形でどんどん肥大化し、成長してきたことは多くの議論で既に指摘されてきたことだ[1]。制度批判を繰り返しながら徐々に肥大化してきた美術の歴史はある意味、表象不可能な大文字的「アート」の表象に対する代補の永遠な反復であるということができるだろう。そうした反復上においてアートは徐々に政治的になり、その範囲はもはや従来の美術館の枠を大きく超えることになったのが、ここ20年の間で台頭してきたソーシャリー・エンゲイジド・アートや参加型アートと称される文脈たちだ——なかでも後者に注目した美術批評家クレア・ビショップは、パフォーマンスにおける「暴力性」に目を向けた作品に注目し、社会的敵対関係が表面化されるような作品に価値を見出す「敵対性の美学」を表明している[2]。ストリートアートは決してパフォーマンスではないが、鑑賞者がそこへ作品を鑑賞しに行かねばならないという前提を踏まえるのであれば、作品を鑑賞するために戦地へ赴くそれはある意味、作品が内包する文脈性に「参加」しているだろう——先述のビショップが評価する、トーマス・ヒルシュホルンの作品のように[3]

MUCA展風景。特に意図せず撮影した本写真でも、スマートフォンで多くの人々が写真を撮影していることが分かる。それを撮影する私も、このインスタレーションの一部となっているのだろう。

こうした文脈、すなわちストリートアート的文脈をアーバン・アートが内包し、それらがまた「場所」の特異性や「暴力」の問題によって価値を有すると考えるのであれば、それらが街角を離れ、社会からどこか隔絶された美術館の小綺麗な空間で配置され、そして多くの人々にとってSNSを彩る素材のように扱われていることに対し、どのような目線を向けるべきだろうか。画像を見たらわかる通り、ストリートを一つの起点とおくアーティストたちの作品たちは綺麗な美術館の中で収蔵され、そして多くの人々がスマートフォン、或いは一眼レフを片手に写真を撮影している。バンクシーの作品を前にニコニコしながらピースを構える観光客、或いはカップルの姿は後を絶たない。しかしながら、まるでインスタグラムの消費素材のように扱われるその美術作品の背景にある多様な複雑性を知ったとたん、私たちは同様な行動を果たしてとることができるのだろうか。私たちはバンクシー作品を有名だから撮影するが、本展覧会が企画されるアーティストたちの起源にあるストリートではスマートフォンすら持たない子どもたちがいるのであれば、こんな皮肉めいたことはないだろうと思う。言い方を変えれば、本展覧会はある意味でアートと扱われることの暴力性、およびその暴力を無意識的に実行する私たちそのものをインスタレーションとして展示するような、そんな性質が備わっているのではないだろうか。そこで展示されているのは作品だけでなく、作品を鑑賞する私たち、作品の写真をSNSで共有する私たちであるのかもしれない——そして無論、私もその一部なのである。

京都市立芸術大学崇仁キャンパス。いつの間にか完成していた
(https://www.kcua.ac.jp/kyogei-terrace/assets/image/campus01_main_pc@2x.jpg より)

昨年に京都洛西から京都市立芸術大学が崇仁地区に移動することを聞いた際、筆者はまるで観光地として注目を浴びる京都のある意味で暗部であった部落を大学で塗りつぶすような印象を持った。京都は東西南北のすべてを壁で囲まれている点で、悪い意味でウチとヨソとを区切ってしまっているだろう。そんな壁の内部で安全に暮らす京都市民はそれゆえ、外部がもたらす異質感を受け入れ慣れていないのだろうか。来年から京都を離れ広島に向かう自分もあるいは、そうした感覚に無頓着だったりするのだろうか。そんなことを思いながら、美術館を後にした。


[1] 小崎哲哉『現代アートとは何か』河出書房新社、2018年。
[2] クレア・ビショップ『人工地獄——現代アートと観客の政治学』フィルムアート社、2016年。
[3] アーティストのトーマス・ヒルシュホルンがドイツの美術祭ドクメンタに際して作成した彫刻作品《バタイユ・モニュメント》(2022)は、ドクメンタ会場から遠く離れた地域に作品を配置することによって、現代アートを鑑賞する富裕者層を強制的に地方へ連れていくだけでなく、その場での居住をも強制するかのような方法がとられていた。

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