温故知新
「働くってこととは、何か違うんだよなあ」
満員電車の車内で、つり革につかまっていると、たしかにそう聞こえた。いつかどこかで聞いたような言葉だ。誰かの声で。
思わず周囲を見渡した。僕の勘違いだろうか。思考を巡らせながら、目を閉じることにした。
「働くってこととは、何か違うんだよなあ」
また聞こえた。夢とも現実ともわからなくなった。徐々に思考がまどろんでゆく。
*****
あれは、僕が就職活動をしていたときのことだ。
大学生の僕は、慣れないリクルートスーツとピカピカの革靴を纏い、ガラス張りの吹き抜けが印象的な高層ビルの正面玄関にいた。
そこには自動改札機のようなゲートが並んでいて、胸からぶら下げたICカードをタッチする人々を僕はじっと見つめていた。待ち合わせをしていたのだった。
約束の時間ぴったりに、その人は現れた。ダークネイビーの細身のスーツに、シンプルな白シャツとブラウンのソリッドタイ。
見た目があまりに若いので、驚いた。事前のメールのやりとりで、本社の課長だと知っていたので、もっと年配の人を想像していたからだ。
「原井君だね」と爽やかな笑顔で声をかけられた。
「はい。原井と申します。お忙しいところお時間を割いていただきありがとうございます。本日はよろしくお願いします。」
挨拶をしたのは大学の先輩だ。先輩はこの高層ビルで働いている。面識はない。今日初めて会う。
僕はいわゆるOB訪問に来ていた。この日の目的は、先輩から、仕事内容や業界の実情を教えてもらい、就職活動をする上での心構えなどのアドバイスをもらうことだ。
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僕らは挨拶もそこそこにビルの向かいにある喫茶店に入った。
レトロな雰囲気が漂う店だった。エプロン姿の年配の女性に案内されて、窓ぎわの席に2人で向かい合って座る。窓の外には都会のビジネスマンが忙しそうに往来している。
運ばれてきたBプレートランチは、たまごサンドとハンバーグという謎の組み合わせ。それらに加えてナポリタンとフレンチサラダが1枚のお皿に強引に乗っていた。
食事を取りながら、お互いの自己紹介、僕の大学生活のこと、先輩の仕事内容など、一通りの話をした。
食後のコーヒーをすするころには、すっかり打ち解けて、雑談混じりの会話になった。
僕は先輩に「働く」ことの意味について聞いてみた。そんな無邪気な問いに先輩は逡巡することなく即座に語り始めた。
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「原井君、僕は、働くということは、『社会を進歩させるため他者と協働して行う生産的な活動』だと思うんだ。」
意味がわからなかった。切れ者の先輩は、抽象的な表現や難しいビジネス用語を使うきらいがあった。ただ、このときは僕の理解度を察してか、やさしくゆっくりと話してくれた。
先輩のいう『社会を進歩させるため他者と協働して行う生産的な活動』には、3つの大事な意味が込められていた。僕はそれを聞き逃すまいと必死にメモをした。
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「原井君、働くということは、お金を稼ぐこととイコールじゃない。君はこれから社会に出て働くわけだけど、君の能力は社会をより良くする方向に使うべきなんだ。世の中をより豊かにしたり、困っている人の助けになったり、誰かの幸せにつながるようにつとめることが働くことの大前提だと思うんだ。」
「逆に言えば、世の中を欺いたり、人をだましたり、誰かを悲しませたり、誰かの大切なものを破壊するような行動は、たとえそうすることでお金を稼げたとしても、働くとはいえないと思うんだ。わかるかい?」
「だからね。君がこれから仕事を選ぶときに、その仕事が世の中に対してどのように役に立っているかを自分が納得するまで考えてみるといいよ。ただ、そのためには、世の中全体のことや社会の仕組みを知っておく必要がある。広い視野をもって勉強をしたり、行動をしたりすることは社会人になっても続いていくんだよ。」
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「それからね。働くということは1人でやるものではないと思うんだ。そもそも1人だけでできるものでもない。誰かと協力して助け合いながら行うものだと思うんだ。それは、大企業の勤め人だろうが、フリーランスの個人事業主だろうが関係ない。たとえ1人だけの会社でも、働く限りは多かれ少なかれ誰かとの関わりが必ず生じる。今日の僕と君の出会いもそうだけど、働くことで出会った人とのつながりは大切にした方がいい。」
「最後に、働くということは、生産的な活動である必要があるんだ。何かを生み出そうとする心意気だよ。今まで世の中に存在していなかった価値を創造することが大切だ。いくらがんばって働いたところで、何も生み出せていなかったり、ただ消費しているだけであったり、何かを破壊する行動であっては意味が無いよね。」
「だから原井君、前に進むんだよ。後退してはダメだよ。アップデートだよ。」
先輩は目をギラギラさせながら語っていた。『社会を進歩させるため他者と協働して行う生産的な活動』の意味が少しわかったような気がした。でも、僕はぶっちゃけたところ、先輩の会社がブラックなのかどうかが知りたいんだ。だからそれとなく聞いてみた。
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ところで、実際に働かれていかがですか? 先輩のいう『社会を進歩させるため他者と協働して行う生産的な活動』は先輩の会社で実現できますか? 理不尽なことやどうにもならなくて苦汁をなめることはありませんか?
「原井君、そうだねぇ。でも実際に働いてみるとそんなことばかりだよ。そういう意味では働くということとは、何か違うんだよなあ。」
(働くということとは、何か違う?)
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だって先輩は、お金も地位も権限も名誉も手に入れていますよね。先輩は若くして出世して成功者じゃないですか。先輩のいう働く意味について違和感はありません。むしろ、 先輩のように成功するために必要なことって何ですか? 僕はそれが知りたいです。
先輩は少し上を向いた。僕を見据えるギラギラした目は、どこか遠くを見る目に変わった。そして、つぶやいた。
「そうだなあ・・・。『無』になることかなあ・・・」
僕はメモをした。「無」「無」「無」・・・、と。
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結局、僕は先輩の会社にエントリーすることは止めた。
僕は無事に新卒で社会人となり、あれから何年経っただろう。
先輩は今ごろどうしているのだろうか。外柔内剛な先輩は、きっと出世して世の中を良い方向に導いていると思う。
言われた通りに人とのつながりを大切にしておくべきだった。
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少し前に、めずらしい職業の人に出会った。AIの要素技術を開発している研究者だ。
都心の雑居ビルの2階にあるコワーキングスペースで話を聞いた。ガラス張りの半個室の打ち合わせスペースには、おしゃれなソファーと木の温もり溢れるデスクがあった。
年齢は僕より2~3歳若いだろうか。研究者というからには、お堅い人を勝手に想像していたが、黒縁メガネのジャケパン姿で、物腰のやわらかい印象の人だった。ただ、話してみると、どこか哲学めいていて個性的な人だった。皆からは「博士」と呼ばれていた。
業務上の打合せが終わり、紙コップのコーヒーをすっかり飲み終えたころ、博士は語り出した。
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「働く意味ですか? 私はあまり考えたことがありません。むしろ私は、自分がこの世に生まれてきたからには、常に自分の『生きる意味』を考えています。つまり、自分の存在価値を肯定したいんです。働くということは、自分の存在価値を肯定する1つの手段だと私は捉えています。」
「私は、子どもの頃から物事を突き詰めて考えるのが好きで、将来は研究者になるのが夢でした。そんな私が研究所に勤めることができたのは誠に幸運なことです。今は裁量も予算も与えられるようになりました。チームでの研究テーマはもちろん決まっていますが、その範囲内であれば好き勝手に研究をさせていただいています。」
「若い頃は、誰よりも多くの論文を発表し、誰よりも多くの国際会議に出席し、誰よりも優れた実績を積み重ねて、自分の存在価値を示したいと思っていました。研究者としての確固たる地位と名誉を手に入れることが日々のモチベーションでした。」
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「ところが、思うようにはいかないものです。成果が全然あがらないのです。私は、自分が存在価値のない人間だと思い込み、すっかり自信をなくしました。自分の価値を働くことに求めるのは間違っていた。何か適当な趣味でも見つけて気を紛らわせる方が楽だと思いました。」
「でも最近気がつきました。働くことで自分の存在価値を肯定することは、全然難しいことではないのです。実はシンプルなことなのです。何かって? それは、働くことで、『人の役に立つこと』です。誰かの役に立つことが、自分の存在価値を認めることにつながるのです。原井さん、私が申し上げている意味がわかりますか?」
すみません。博士さん。おっしゃっている意味、僕には全くわかりません。
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「それはですね。私が働くことで求めていた『地位』、『名誉』、『実績』などは、他人と比較するものなのです。私はそれらを全て他人と比較した上で得ようとしていたのです。それでは終わりがないんです。他人と比較して上を目指そうとすると、世界一にならない限りどこまでいっても満たされません。もちろん、それを続けることが原動力になる方もいらっしゃると思いますし、若いころの私はそれで良かったのかもしれません。しかし、少なくとも成果が上がらない私にはとてもつらいことでした。」
「でも、原井さん、仕方がないですよね。私は、小さい頃からずっと他人の評価を気にしてきましたから。受験でも就職活動でも社会人になってからも、常に評価にさらされてきたのですから。他人と比べて、自分が優れているのか、劣っているのか。他人の評価を気にするように生きてしまうのは仕方がないことですよね。そう思いませんか?」
「でも本質は違います。本当に必要なのは他人の評価ではなく『自分の評価』なんです。原井さん、それを何というかわかりますか?」
博士さん、すみません。やっぱり僕にはわかりません。
「『誇り』というんですよお!」
冷静な博士が突如アツくなったので驚いた。そして早口でまくし立てる。
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「『誇り』というのは自分自身の評価なんです。自分の仕事がどのように世の中の役に立っているのか、その意義を見いだして、自分の仕事に誇りをもって働くことが大切なんです。それに気がついたとき、私には一筋の光が見えました。私は自分の仕事に誇りを持っています。だから、どんなに成果がでなくて苦しいときでも自分を信じて頑張れるようになりました。」
「レイバー(labor)とワーカー(worker)の例え話は聞いたことがありますよね。働く意義を見いだせないと仕事が単なる作業になります。そうすると、受け身で働くことになります。つまり、労働者の意味のレイバー(labor)です。逆に、働く意義を見いだせている人は、自分で工夫したり、考えたり、前向きに働けるようになります。つまり、ワーカー(worker)です。私たちは働くことに誇りを持ってワーカーを目指すべきなんです!」
博士さん、言わんとすることがわかってきたような気がします。博士さんの熱量に圧倒されます。
「でも、原井さん、最近私は思うのです。働くということとは、何か違うんだよなあって。」
(働くということとは、何か違う?)
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「コロナ禍で緊急事態宣言が全国に出ましたよね。世の中の動きが止まりましたよね。あのとき、生きるために必要な仕事と、そうでない仕事があぶり出されたように感じませんでしたか?」
「詰まるところ、私の仕事は不要不急なんです。やらなくても別に誰も困らないんですよ。そりゃあったらうれしいけど、別になくても困らない。」
「逆になくてはならない仕事がたくさんあることに気がつきました。それは、生きるために必要不可欠な仕事です。医療・福祉、生産、製造、物流、販売、通信、公共交通・・・。」
「それらこそが真に誇るべき仕事ではないでしょうか。私の仕事は世の中になくても構わないことだったのです。私はまたもや自分の仕事が誇れなくなり、自信がなくなりました。いったい私の生きる意味って何なのでしょう。」
博士さん大丈夫ですよ。考えすぎですよ。博士さんの頭脳で救われる人がきっとたくさんいますよ。博士さんの仕事は、博士さんにしかできないことですよ。必要とされていることですよ。
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ほとんどの打合せをZOOMで行うようになってからは、遠方の人とも久しぶりに会話をする機会が増えた。その1人がアニキだ。
アニキとは以前、あるプロジェクトを通じて知人の紹介で知り合った。僕より少しだけ年上だが、皆に頼られているのでアニキと呼ばれている。彼がユニークなのはその経歴だ。誰もが知る一流企業を退職し、外資系の戦略コンサルに転職して高給取りになったもののわずか2年で辞め、縁もゆかりもない小さな村に移住して地域おこしの法人を立ち上げて活動をしている。
ZOOMの画面越しに見えたアニキは少し太っていた。サイズのデカい黒の半袖Tシャツに、もじゃもじゃ頭。相変わらずエナジードリンクを飲みながらチョコレートを食べていた。
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「その研究者の彼が言うこともわからなくはないね。でも卑下することはないだろ。詳しいことはわからないけど、きっと人類の役に立つ研究をしているんだろ。研究者なんて誰もがなれる職業じゃないんだから。すげえことだよ。誇りを取り戻して欲しいね。」
「そんなこといったら、オレなんて、1番価値のない人間になっちまう。サラリーマンをやめて、好きなことで生きていくと見栄張って、今はこうやって暮らすことができているけど、それは周りの人のおかげさ。オレが好きなことをできているのって、世の中を支える公共心を持った人たちが働いていてくれているおかげさ。」
「原井ちゃん、まわりを見渡してみろよ。あらゆるものが誰かの仕事で成り立っている。いつだって誰かが働いている。オレらの暮らしを守るために、あえて見えないところで働く人だっている。オレは小さいコミュニティーの中にいるから本当によく分かるよ。感謝しなくちゃいけない。」
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「だから今のオレがあるのも、決してあたりまえじゃない。あたりまえって怖いぞ。いつの間にか慣れてしまう。あって当然、できて当然という思考に陥る。できていることが当然になると、できていることに感謝を忘れて、できなかったときにだけストレスを感じるようになる。働いている側は大変だよ。褒められることはなく、文句だけ言われるんだから。」
「本来、世の中を支える誇り高き仕事をしているのに、増幅するクレームに怯え、失敗を恐れ、思考が停止し、働くことに誇りを持てなくなった人がいたとしたら、悲しいことだよ。そりゃ、みんなオレみたいに自分のことしか考えられなくなるさ。だから、原井ちゃん、仕事の内容、組織の大小、雇用形態はこの際一切関係がない。想像力を働かせて、世の中のために働いているすべての人には感謝しなくちゃいけない。」
「オレは好きなことをさせてもらってありがたいよ。本当に周り人たちのおかげだよ。原井ちゃんのおかげだよ。オレが金に困ったら助けてくれよ。」
なんだか、アニキかっこいいと思いますよ。好きなことが仕事になるってどんな感覚ですか?
「そうだなあ、働くということとは、何か違うんだよなあ」
(働くということとは、何か違う?)
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「好きでやりたいことをただやっているだけだからなあ。働いているという感覚はないね。好きなことで金を稼ぐのは最高じゃないかって? でも、先は見えないし、金はないし、家族に迷惑をかけているけどね。まあ、楽しいよ。原井ちゃんも、こっちにおいでよ。こっちは人が足りていないし、食っていくくらいの仕事はなんとかするからさ。」
「そうそう、原井ちゃんは、よく世のため、人のためというけれど、オレは自分のために働いているだけだからね。オレは、自分のために、自分の好きなことをやっているだけの公共心のかけらもない人間さ。カッコよくもなんともないから。感謝、感謝だよ。」
いや、アニキは違いますよ。好き勝手に自分のことしか考えない人とは違いますよ。アニキの仕事は、一度、人のためになることを経由している。誰かに感謝される仕事をしている。それが巡り巡って自分に返ってきているんですよ。ご謙遜なさらずに。もしかしたら、アニキのような働き方を「はたらく」というのかもしれませんね。
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車内アナウンスが流れて、我に返った。
そうだった、満員電車に乗っていたんだった。まどろみから覚め、一気に覚醒する。
人とのつながりを大切に。あたりまえに仕事ができることに感謝して。今日も、満員電車に揺られている。
胸に秘めるのは小さな誇り。フェアに、誠実に、恥じないことを日々積み重ねているつもりだ。
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僕は僕。人は人。十人十色。自分のことは自分が1番よくわかっている。
だから、誰に何を言われようと、おそれることはない。自分を信じることさえできていれば。
今、自分が1番に誇れるものは何だろう? 働くことだろうか?
「・・・働くということとは、何か違うんだよなあ・・・」
結局、それは自分の声だったようだ。
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電車のドアが開いた。僕は大勢の乗客たちとともにこの駅で降りる。
駅の自動改札を抜けると、皆がそれぞれの方面に向かって行った。
いつもは実体験を綴っていますが、この記事は創作です。全ての登場人物は架空の人物です。僕(原井)も、本記事公開時点では、満員電車による通勤は避けております。最後まで読んでいただき誠にありがとうございます。
お気持ちは誰かのサポートに使います。