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「人の目」のある人生、ない人生

この年になると、散歩をしていてふと、幼稚園や小学生の頃を思い出すことがある。様々な思い出があるが、やはり幼少期で思い出すことは、楽しかったことというよりは、やや苦い経験だったり不思議に感じたことだったりが多いように思う。

私が小学校3年の時、区内でもすでに生徒数が少なくなってきていたため、近くの3校が統合されることになった。統合後、私はなぜか元々同じ小学校だった子たちではなく、統合した他の学校の子とよく遊んでいた。

その子は「ふみちゃん」という名前で、スマートな思考を持ち、漫画やテレビなどの文化に造詣が深い、それでいて快活。今の私から考えても稀有な子だなぁと思うような、大人っぽい子だった。
かたや日中は淡々と授業やテストをこなし、すぐに帰宅して家でサスペンスドラマの再放送ばかりを見ていた、またある意味で稀有な私とはすぐに意気投合した。

ある日、ふみちゃんが頭にバンダナを巻いていた。なぜ巻いているのか聞いたところ、前髪を切りすぎたからだという。私はその返答を聞いて「なんておしゃれな!」と驚いた。前髪を自分で切っていることも、そしてその失敗をカモフラージュするための手段がバンダナということも、すごく格好いいと思ったのだった。そして、上下デニムの服にもよく似合っていた。

ところが、さすが小学生。一部の男子や女子などが「格好つけている」「目立とうとしている」などといちゃもんをつけてきたのだ。それでもふみちゃんは、満足に前髪が伸びるまでバンダナを巻いていた。やっぱり格好いい。

このいちゃもんまでの一連の流れをたまに私は思い出す。そして気づいたのだ、幼少期の反応というのは意外と大人になってからも同じなのでは?ということに。

AとBというものすごく解像度の低い分け方をしてしまうけれど、Aチームはいわゆる「出る杭」のようなものに対して「ちゃんとルール守りなよ!禁止されてるよ!」という立場の人。Bチームは「別にいいのでは?むしろ格好いい」という人。そしてA、Bそれぞれには「それを外に発する人」と「心の中で思う人」がいる。

このAとBとの違いを作る大きな要因の1つは、私の勝手な考えだけれど「人の目」だと思う。「人の目」というのは「周りの人はどう思うか」「小学校はどう思うか」「先生はどう思うか」のような自分以外の人や組織などの考え方。私はどちらかというとBチームになることが多かった気がするので、Aチームの気持ちは本当にはわからないけれど、「周りの人はどう思うか」と同時に「自分はどう見られているか?」について、より敏感な子たちだったんじゃないかなぁと想像している。

故に、(本当は格好いいな)と思っても「学校にないルールだからダメ!」だったり、(私よりあの子の方が目立ってモテちゃう!)と思って「良くないよ!」だったりの反応に繋がったのかもしれない。ただ、これは決して悪いことだけでないと思う。きちんと「世間一般では」という客観性を持てるので、「自分はどう見られているのか?」をきちんと意識しながら、大人になってから「社会」の流れに乗りやすく、自分でも考えて、そして活躍していると思う。もし悪い点があるとしたら、流行などに流されて「自分らしさ」というところに迷いが出てしまうことかもしれない。

反対にBチームは、幼少期の「別に良ければいいのでは」から、年を重ねるごとに「世間一般では」を習得していく。ただ、それは世間一般的に世間一般を学んでいく…というような、レールに無理矢理乗るような感覚。故に、全くうまくいかない場合もあるし、何とかレールに乗って上手く操縦できるようになったかと思ったけれど、20代後半くらいに、急に「自分がわからない」となることが多い(が、私だけかもしれない)。
「人の目」をあまり気にせず進んできたがために、「人の目」から見た自分がわからず、自分よりも周りの友人の方が自分のことをわかっているという現象が起こりがちである。

「三つ子の魂百まで」ではないが、小さい頃のことって意外と今に脈々と引き継がれているなと感じることが多くなった。ただ、人は変えられないけれど自分は変えられる、というのも本当な気がしていて、「人の目」に対する自分の動き方は後天的に変えられると思う。

バンダナを巻いてもいいし、陰でこっそり羨ましく思ってもいいし、真似してもいいし、新しいバンダナを作ってもいい。「Aだったら」「Bだったら」と考えた上で、じゃあ自分だったら、と言えるのが理想かもしれない。

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