人格と、知能と、精神性。

知能検査を受けたことがないから正確には分からないが、言語理解は120くらいあるんじゃないかなと思う。言語で説明できるものが多く大抵の物事にアクセスできるので、手札として持っている単語の母数的に、物事の要素をまとめたりバラしたりする推論能力も通常かちょっと上回る程度にある。

知覚推理はてんでダメで、地図も読めないし運動やダンスも再現できないし図形問題も苦手だった。音楽と絵はある程度できたけど、工作や体育には非常に苦労した。アルバイトでもインプットとアウトプットが同期せずに苦労した。数値にしたら80か、それより下かもしれないな。
処理速度とワーキングメモリは、能力自体は通常か平均をやや下回る程度だと思うが、自分に自信がないのでメモを取ったり何度も確認しないと確信を持てず、仕事の際などに表出する態度としてはここに最も保険をかけていると思う。・・・ということは、結構下なのかもしれない。言語にはある程度の自信があるわけだからさ。

言語性知能は後天的に伸びることが多いらしいので、それを差し引いて考えると、地頭というか才能というか、総合的なIQみたいなのは90くらいじゃないかなと思う。国語だけ何もしないでできるけど頭は良くないみたいな。
学習することで一定の効果はあった。できなくはない。劣等生ではない。でも別に勉強に才能がある感じでもないし、今後どこかで加速するということも恐らくない凡人だ。

ただ、言語性知能と言語パワーによる推論能力だけがちょっと高かった。理論や順を追って話すとかは凡並みで学習しなければできないんだけど、構造化だけは言語と推論だけでなんの練習も無しにできた。
それが悪かったのか?いや・・・。

ともかく、そういう素地の人間が、経験や思考を積んで順当に己の人生を作った。・・・その中で奇妙なことを学んでしまったようだった。そういう意味では奇妙でない人間、というのも居ないだろうが。

私は人生で人や物に出会った中で優秀さを見出し、サンプリングし、憧れ、構造化した。自分もそのようになりたいと思った。いまだに、この時点までも間違っているとは思わない。

私が思う優秀さとは概ね、「並外れた集中力と洞察」「基礎能力が高く何をやらせても習得までが速い」「好奇心があり博識」「遊び心があり独創的」「信念と大義がある」「メンタルが強く異常な状況でも精神をコントロールする」「刺激好きで経験に対し貪欲」「思考や戦略そのものを楽しむ」「体力がある、いくらでも食べられる・飲める」「年単位の目標がある」という感じだ。

それらは無かったが、不思議とその構造だけが板についた。
「(なぜかわからないけど)とにかくたくさんやる、たくさんさばく」
「(好奇心は全くないけど)好奇心がある人と同じ観点で切り込む」
「(活発性は全くないけど)やるかやらないかの二択ならやる」
「(刺激は全く欲していないけど)リスクを取り投資する」
「(自分の発想ではないけど)物事や状況を関連づけたり仕組みを考える」
「(感受性は無いけど)一貫した信念と情熱を基に行動している」
「(なんもおもろないけど)遊びにも真剣でゲームが好き」
てな感じに私は仕上がった。過程は踏んでないのに構造だけ再現しながら長年暮らすこととなった。構造は経験を積むにつれ日に日に固まっていったし、メリットの方が基本多かったし、やはり間違っちゃいないと思う。

自分の選択で、自分の価値観で、自分のサンプリング方法でとっているわけだから私であることには間違い無いというか、文章にするよりはなんらおかしなところは無いと思うれど、本物では無いという感覚もあるから常に自分がうまくやれているかが気になる。私は情報を受け取ったら自分の構造に読み込ませるからいつでもジェネリックな答えや方針が出るけれど、独自の人たちは「分からない」「答えが出ない」場合がある。いやまあ私もわからんことはあるけど。私の方がその人を読み込んでこれまでのあなたの考え方ならあなたはこう思っていると思うけどな〜と思うことも多い。

だいたいこういう過程を踏めばこういう結論が出る。みたいなことを念頭に日々何かを選択している。

まとめると、どうにも存在しない感覚と原体験以外は再現できるし、その再現を念頭に主体的に独自の意見を出すことも可能だ。なんならもうどちらかといえば結構そんな感じですらある。まあ別にそこまでおかしな話でもなく、要は大人の背を見て育っている子供と同質の話である。でも導かれていた自分が構造化を持って追い越してきた。「追従している自分に導かれている」という状況の中でずっと回転しているような感じだ。

でも本来の自分は、「理解できるしどちらでも良いから導かれている凡人」であるから、導かれている自分と構造化を持って追い越してきた自分の渦中で自分が殺されてしまったような感覚だし、それが自分の選択であることも確かなので喪失感も実は別にない。ここまで来ても自分が誤ったとは思えないのだ。

それでもやはり、自分の構造に自分のスペックが追いついていないなとは感じる。まあ実際そうなのだ。自分自身がそうなのではなく、言語で構造化したものに自分を巣食わせているだけなのだ。
自分の行動に関して、自分が主導しているという感覚と自分が追従しているという感覚が両方ある。

私は一体、誰なんだ。

構造化した自分、「理想化した自分」と言い換えようか、に追いついていない状況でも、物事を受け取り、判断し、行動するのは理想の自分であり、たまたま元の私にもその行動ができるときはできるけど、できないときはできない。元の私が理想化の自分からいくつ引いたところにあるのかが分からなくて、いつも照準が合わない。

そういう感覚は、いくつかの人格障害の要素に当てはまるらしい。でも、じゃあ、私の、何が悪かったんですかね。凡人なのに成長しようとして分不相応の予測を立てられたり精神性が湧き出るようになった(自分が凡人でなければそれは単なる事実であっただろう)ことの、どの部分が・・・。

感情的または性的に親密な関係を得ることが困難な場合があります。患者は、しばしば自覚することなく、ある役割(被害者の役割など)を演じることがあります。

演技性人格障害の説明

患者はしばしば他者が自分のことをどのように考えているかを注視しており、自分がどれだけうまくやっているかを吟味しています。

自己愛性人格障害の説明

診断基準の文章では無いけど、構造化した理想化した自己像に自分を合わせに行って、他人目にも自分目にも構造から外れると自暴自棄になりそうになるので、そういうものを振り切るようにまた次を開始し続けているという感じだ。ちなみに診断基準に関しては、理解できるものも理解できないものがあるし、「そうなるのも理解できるけど、自分の精神構造的にとうのむかしに乗り切った」と感じるものも多い。

というか、人格障害にありがちの共感性がないみたいな、自己中心的になるみたいなのがよくわからない。人と関わるための適切さに善は組み込まれているし、目標に目的は含まれるからだ。そういうカバーがないのは普通に経験不足じゃないかと思う。じゃあなんで苦しいかっていうと、無能だから、できないから、精神性と方向付けがほとんど適切・納得感あるって感じなのに、能力がないから、できないから、分相応の結果を受け入れないからという感じがする。
ちなみに、相対的に結果がないけど過程はあるみたいな状況ではあるが、ある程度普通にそうなんだけど、私はそういう言説を好まない。過程にこだわってしまうが、過程を好む自分のことは好きではないし、普通に自分のことが許せない、という感覚がある。

コンプレックスとプレッシャーが異様に苦しいが、そもそも目指していなければどちらも存在しないかと思うので、目指すことが悪いことでは無いのが前提とはなってしまうが、どうしても、もっと絶望的な答えが出るまで、辞めないべきかなと思う。ごめん・・・。(自分を悪い人間だと思う境界性人格障害もあるのかもしれない。)

昨年より色々な話に人を巻き込んでしまうことが増えた。
好き勝手行動するわけにはいかないことが、普通にどっかに所属して顔になってることが発生している。なんで、やるかやらないか本当に決めなきゃなあという感じで、そうなった時、やりたいなと思う。

だから、あまり自分の弱い部分は書きたくない。特にこういう病理的な要素を含めるの話は「言わないのが品格」みたいな部分である。でも、私の知りうる概念の中ではこれが近かったので、傾向にあることはほとんどの人間が免れないと思うので(人格障害と言えるのは不便があるほどの認知・行動特性の著しい偏りであり、偏り自体は程度問題で誰もが持つだろう)どうか、なんというか、怖がらないでほしい・・・すみませんそこだけお願いします。自分が今知る中で正確に書いたらこうでした。

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