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夏に挨拶をする

飲み込む空気 ぬるく 蝉の声響く
熱くなってきた。
一年で最も生命が躍動する季節。
まさしく、夏。

青い森 うねりてゆらぎ そこにあり
森の中を一人で歩く。仕事がない休日に蚊や蚋に刺される危険に身をさらす。
少し愚かにも思う。鳥も笑っているように思える。
しかし、それが楽しくもある。

太陽と見紛って 飛び込む甲虫
「ぼくのなつやすみ」。最新作が見たいものだ。

いつか僕が過ごした平成の夏がノスタルジックな香りを醸す日が来るかもしれない。
そう思うと、それはそれでうれしいことだ。
過去を振り返ることも必要とは思いつつ。
誰かの思い出の中にある夏と僕の思い出の中にある夏の乖離が、少し不安にも感じる。

DSを持ち寄って、Wiiで遊んで、たまに虫を捕りに行く。ポケモンを進めながら、Wiiスポーツやマリオギャラクシーに興じる。
そうしていると体感では30分。しかし、実際には4時間だったりするようにあっという間の夕方がやってくる。

真っ逆さまに落ちたのかと思うほどに、早く落ちた太陽に恨み辛みを吐きかける。
自転車で蜩の合唱の中を走る。

夕方が少し怖かったのだ。
焦るような、明日には無くなっていそうな、僕の影が勝手にどこかに歩きだしそうな。
みょうちきりんな不安があった。


そういえば、少しショックだったのは蝉がカメムシ科であるということだ。
カメムシと蝉など月とエウロパだ。似て非なるものだ。

ちなみに、エウロパとは木星の衛星だ。そのほとんどを分厚い氷で覆われた星で、所々のひび割れは欠陥のように赤く細い筋が通っている。その氷は木星の引力によって圧力がかかり内部では海が広がっていると言われる。専門的には潮汐力というがそんなことはどうでもいいと言えばどうでもいい。そこには未知の生物の存在が期待されており、僕はエウロパが大好きなのである。まあ、だから例えでエウロパを引用しがちだ。

英語の教科書だか何だかで、蝉の声がアメリカでは騒音として扱われると知った。
海を越えれば常識など違って当然。文化は違って当たり前。
どちらに上も下もない。

福沢諭吉は「文明諭之概略」の中で文明の進度の差を指摘した。
文明に差はあれど、冠なし。
僕が「文明諭之概略」を読んで出した結論だ。

ただこの蝉の声に関して言えば、夏には必要な季節の分子だ。そして、もはや文化だ。
蝉がいない夏など、醤油のかかっていないお寿司だ。にんにくを入れない次郎系ラーメンだ。
応援のないプロ野球で、甲子園のない夏だ。
つまり蝉は甲子園だ。


夕暮れ一人 天道虫の上で泣く
俳句で詠むものではないのだが忘れられない夢がある。

近所の公園。一人でいる。
時は夕暮れ。珍しく色のある夢だった。
僕は一人で泣きながら、天道虫の形をした前後に動くばねの遊具に乗っている。
泣きながら父を呼ぶ。呼ぶのだ。
誰もいない公園で。
不気味、不安、理解のできない奇妙な情景。
夏になるたび思い出す夢。

累計で15回くらいになるのだろうか。蜩が記憶を呼び起こす。
まだ通算で23年弱しか生きていない僕という生き物にとって、この夢は何かの意味を持っているのかもしれない。

当時の僕は何を求めていたのだろうか。何が悲しかったのだろうか。
記憶など事実の一かけらでしかなく、夢は一かけらの一部分にすぎない。
この点で‘‘将来の夢‘‘と共通している。

だからこそ、夢の意味を知りたい。
色んな人の夢俳句。ぜひ聞いてみたいものだ。
その後、天道虫は撤去された。今はコアラが笑っている。

虫の名前を漢字にしているには理由がある。
カブトムシを甲虫。セミを蝉。ブヨを蚋。カを蚊。カメムシを椿象。

さて、これらを見てどのように感じるだろうか。
カタカナでそこにいるよりも親しく感じはしないだろうか。
ポケモンもカタカナである。だから私はひらがなで名前を付ける。
漢字やひらがなにしたとたん、そこには温度が生まれる。
実に不思議だ。
だが事実だ。

テレビ番組では外国人の片言をカタカナで表す。
異質さが浮き彫りになるのだ。ロボットの言葉もそうだ。ロボットとぼくらが使う日本語を話す外国人は同じでいいのだろうか。

今の時代。いや、そもそもどんな時代であっても異質さを感じることを拒否しなければいけないはずなのに。
それとも僕がおかしいのだろうか。この感覚が僕だけなら、これを大事に抱えて死んでいこうと思うのだが。

今年も夏が来てよかった。
来年の夏はいつ来るのだろうか。
一年ぶりに会う友人に挨拶をしよう。

まわりまわって、世の中が幸せになる使い方をします。