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とおい記憶のなかに

坂本龍一の訃報を見てから、いまだに実感が湧かず「果たして彼は本当に亡くなってしまったのか?」という疑問が胸のなかにある。

彼のキャリアからして、私のようなそこらの一般人と比べると雲の上の存在なので、それはそうか、と納得しようとしたがやはりそれもちがう。
ユキヒロのときとはなにかがちがう。
果たしてその“なにか”とはなんなのか、答えはあるのか?

私はYMO自体はリアルタイム世代ではないため実際に見たことはないのだが、大学生のときに細野晴臣のアルバムツアーと東北ユースオーケストラで坂本龍一の2人はこの目で見てきたのだ。
なのに、メタファイブですらお目にかかれず、結局ユキヒロの生演奏をこの身で感じることはできなかった。
というわけで、ユキヒロが亡くなったとき、たしかに私は“寂しい”という感情を抱いたのだが、実際に足を運んでこの目で見て、この耳で聴いた“あの坂本龍一がもういない”ことがしっくりこない。
別に受け入れまいとしているわけではない。
もしかしたらジワジワと今後ロスになるかもしれないが、あれだけ速報も出て世間で騒がれていたのに、いまいち私のなかで腑に落ちない感じはいったい何なのだろうか……

私と坂本龍一の音楽の出会いを話そう。
我が家は父の趣味の影響が大きく、その父がYMOリアルタイム世代なので、YMOのみならず細野晴臣、坂本龍一、コーネリアス 、デヴィッド・シルヴィアン、ブライアン・イーノなどなど……わかる人はああ〜となるような音楽が家のなかや車で流れていた。
私には兄がいて、兄も影響されNHKで坂本龍一がやっていたスコラを録画して見ていた。
当時の私は「なんだこのオジサン、何の話してるんだ?」と思っていたが、いまでは「約10年後キミがハマる音楽だよ」と教えてやりたい。
そんなわけで兄はスコラから始まったのか、あるいはスコラを経由していたのか、坂本龍一の音楽を聴いていた。
私は覚えている。
『Undercooled』の二胡の音や『Riot In Lagos』でループのように流れるメロディも『以心電信』なんてなぜか間奏部分だけ印象に残っていた(何かにサンプリングされていたのかもしれない……)
これは小学生の頃の記憶だ。
私はもう小学生にして坂本龍一の音楽に染まっていたのだ。

こうして坂本龍一は私の脳内にたしかに刻み込まれていって、大学3年生のときだったろうか、ドキュメンタリー映画が公開になる情報を見たのが本格的にのめり込むきっかけとなった。
あの『async』だ。
このときはじめてミニシアターまで観に行ったことで、私はそのミニシアター自体に興味が湧いて会員になり、映画生活を始めることになる。

そこから卒論にまでつながってしまう。
坂本龍一もといYMOと村上龍(当時愛読していた)のおかげでヌーヴェルヴァーグやゴダールを知った私は、社会に出て駒として消費されたくない思いが強すぎて大学院受験に逃げた。
研究計画書は映画音楽をテーマにした。
実際にたくさん映画を観て本を読んで音楽を聴いて、大学4年生の私は有意義で充実した学生生活をすごしたのだった。
結局おろそかにしていた英語で力及ばず大学院は不合格だったのだが、受験と卒論を紐づけして進めていたおかげで私はもうめちゃくちゃ楽しみながら卒論をしていた。
院試の勉強の生活リズムのまま大学の消灯時間までPC室で卒論をやったり、仲良くしていた先生の研究室で当たり前のように22時頃まで映画や坂本龍一のライブ映像を観たり……
そのあと帰ってから風呂に入るのが面倒で2時とか3時とかになってシャワーを浴びて寝て6時に起きて朝イチで大学行ってまた卒論やって……
楽しかったな〜〜もっかい学生やりたい。
ところで私は心理学科にいたのに、無理やり映画と関連づけた研究をして、評価なんて関係なしに自由にやりたいようにさせてくれたゼミの先生には感謝している。
この原動力が坂本龍一だった。

けっして手の届かぬ存在だったが、彼のおかげで自分の視野を広げることにつながり、映画という新たな趣味を手に入れて、映画をたくさん観た私は人間に対する理解を深めていった。
この「映画で人間を理解すること」についてはいつか書きたいと思う。
坂本龍一という音楽家がいなければ、いまの私は絶対にいない。
これからも坂本龍一の音楽は私のなかで生きつづけるし、きっと多くのファンが同じことを思っているだろう。

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