それは本当に「あなたの好きなこと」か?

おはようございます☀
ゆです。

」という名前でやっています。

でも唐揚げめっちゃ好きだから「からあげ」という名前に変えようかなー、と思うゴールデンウィーク半ばの午前中。
てか外めっちゃ晴れてる。
後で散歩行く。

このように、ぼくの記事はなんの役にも立たない情報から始まります。あしからず…

さて昨日は『暇と退屈の倫理学』の感想を一本書きました。「定住革命が人類に暇と退屈をもたらした」話でした。

今日は序章〈「好きなこと」とは何か?〉から、印象に残った箇所を引用して感想を書いていこう。

ぼくが受け取ったことや感じたこと、疑問に思ったことも書き残せたらうれしい。


人間が豊かさを喜べないのはなぜか?

著者は次のような単純な問いから論述を始める。

人類は豊かさを目指してきた。なのになぜそれを喜べないのか?

本書より


バートランド・ラッセルというイギリスの哲学者は、1930年に出版した『幸福論』という著書の中で「西欧諸国の若者たちは不幸である」と言った。

 二十世紀初頭のヨーロッパでは、すでに多くのことが成し遂げられていた。(中略)したがって若者にはあまりやることがない。だから彼らは不幸である。
 それに対しロシアや東洋諸国では、新しい社会を作る必要があるから、若者たちが立ち上がって努力すべき課題が残されている。だからそこでは若者たちは幸福である

本文より

うん。
言いたいことは分かる。
でも、何か違和感を感じる。
社会をより良くしてきた結果、豊かにしてきた結果、豊かな国の若者たちは不幸?

筆者も同じ気持ちを抱いていた。

 もしラッセルの言うことが正しいのなら、これはなんとばかばかしいことであろうか。人々は社会をより豊かなものにしようと努力してきた。なのにそれが実現したら人は逆に不幸になる。それだったら、社会をより豊かなものにする必要などない。社会的不正などそのままにしておけばいい。豊かさなど目指さず、惨めな生活を続けさせておけばいい。
(中略)
 ラッセルの述べていることは分からないではない。だが、やはり何かおかしい。そして、これをさも当然であるかの如くに語るラッセルも、やはりどこかおかしいのである。

本文より

いやー面白い。
というよりそれまで考えたことがなかった疑問をぶつけられてる感じ。

そんで、言っても大哲学者のラッセルの考えに対して、「やはりどこかおかしい」と、あけすけに思ったことを言える國分先生。
さいこー。笑
誰が言った考えであろうと「なんかおかしいと思ったらなんかおかしいって言っていいんだ」と思えた。

そして、初めに書いた著者の疑問が浮かぶ。

人間が豊かさを喜べないのはなぜだろうか?

本文


ふう。
長くなってきたので、箸休め。

そういえば目次付けたいんだけどどうすればいいんだろ。


「好きなこと」とはなにか?

人間はなぜ豊かさを素直に喜べないのか?
これが筆者の問題意識だった。ぼくやあなたの人生にも多分に関わる問いだ。

国や社会が豊かになれば、そこに住む人たちには余裕が生まれる。その余裕には少なくとも二つの意味がある。

一つ目は金銭的余裕生活費以上のお金を稼げるようになる。つまり、お金が余る

二つ目は時間的余裕。生きるための労働に全ての時間を割かなくてよくなる。何もしなくてよい時間、つまりを得る。

では、続いてこんな風に考えてみよう。富んだ国の人たちはその余裕を何に使ってきたのだろうか?そして何に使っているのだろうか。

本文

 「富むまでは願いつつもかなわなかった自分の好きなことをしている」という答えが返ってきそうである。たしかにそうだ。金銭的・時間的な余裕がな生活というのは、あらゆる活動が生存のために行われる、そういった生活のことだろう。ならば、余裕を手にした人たちは、その余裕を使って、それまでは願いつつも叶わなかったなにか好きなことをしている、と、そのように考えるのは当然だ。
 ならば今度はこんな風に問うてみよう。その「好きなこと」とは何か?やりたくてもできなかったこととは一体なんだったのか?いまそれなりに余裕のある国・社会に生きている人たちは、その余裕を使って何をしているのだろうか?

本文

この後の筆者の問いに頭をガツンと殴られてしまった。

もちろん、「好きなこと」なのだから個人差があるだろうが、いったいどれだけの人が自分の「好きなこと」を断定できるだろうか?

本文



…おれはおれの「好きなこと」を断定できるのか?

「おれはこれが好きだ」と胸を張って言えるか?

おれの「好きなこと」ってなんだ?

この次の、ある場面の描き方に、筆者の問題意識・社会への憤りや不満が如実に現れている。
気がする。

 土曜日にテレビをつけると、次の日の日曜日に時間的・金銭的余裕を注ぎ込んでもらうための娯楽の類を宣伝する番組が放送されている。その番組を見て、番組が勧める場所に行って、金銭と時間を消費するさて、そうする人々は、「好きなこと」をしているのか?それは「願いつつも叶わなかったこと」なのか?

本文

ドキッとした。

ぼくが時間とお金を消費したその対象は、ぼくの「好きなこと」なのか?本当はぼくが好きだと語るに足ることじゃないんじゃないか?

筆者は上に書いたことを良いとも悪いとも言っていない。
しかし、明らかな問題意識が見て取れる。

「好きなこと」と関連して「趣味」にも言及している。

 趣味とは何だろう?辞書によれば、趣味はそもそもは「どういうものに美しさや面白さを感じるかというその人の感覚のあり方」を意味していた(『大辞泉』)。これが転じて、「個人が楽しみとしている事柄」を指すようになった。
 ところがいまでは「趣味」をカタログ化して選ばせ、そのために必要な道具を提供する企業がある。テレビCMでは、子育てを終え、亭主も家にいる、そんな年齢の主婦を演じる女優が、「でも、趣味ってお金がかかるわよね」とつぶやく。すると間髪を容れず、「そんなことはありません!」とナレーションが入る。カタログから「趣味」を選んでもらえれば、必要な道具が安くすぐ手に入ると宣伝する

本文

いやー面白い。

「それでいいのか?」と問いかけてくる。

血と汗と涙を流して、命を散らして人類が獲得した暇がそんな風に消費されてしまっていいのか?」そう訴えかけてくる。


「趣味」とは「その人の感覚のあり方」か。

じゃあおれは何を面白いと思っているんだろう?
何を美しいと感じているんだろう?

自分の「趣味」を、自分の「感覚のあり方」を本当に分かっているんだろうか。
暇という特権」を存分に使って。

長くなったので、今日はここまで。


まとめ

・豊かになったこの社会(21世紀、資本主義社会、消費社会)で、きみはその「好きなこと」を「自分の好きなこと」だと言えるか?

言えるのかな…


受け取ったこと

・「現代人はカタログから自分の好きなことを選んでいる」と筆者は言っていた。

それがカタログから選んだ趣味だとしても、大切なことは「好きなことの何が好きかを、改めて言葉にすること」じゃないのかな。

例えば「趣味は何ですか?」と聞かれたとき、「読書です」と答える。

実際そうだ。読書は好きだ。

でも、なんか違和感を覚える。疑問が生じてしまう。

読書の何が好きなんだ?」と。

読書の定義そのままに、「ただ本を読むこと」が好きなわけじゃない。

「その時その瞬間に読みたいと思った本を読んで」「読んでいく中で知らなかったことを知ったら」「自分のものの見方が変わったり」「あるいは疑問に思っていたことがハッキリしたり」することが好きなんだ。

こうして言葉に直すと、「好き」の解像度が上がる気がする。今後、もっと読書の楽しみ方が深まる気がする。

大切なのはこういうことなんでじゃないか?
と思いました。

終わり。
じゃあまたねー!


P.S.

今日感想を書いたのは、序章〈「好きなこと」とは何か〉の前半ぐらいです。

後半の、そのまた後半に筆者の主張のひとつがあります。

かなり好きなんで先に引用しちゃいます。笑

気になった方はぜひ手に取って通読してもらいたいなーと思います。

筆者は、イギリスの社会学者、ウィリアム・モリス[1834-1896]の思想を発展させて次のように述べます。

ー人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。生きることはバラで飾られねばならない。

本文

はい好き。

今度こそ終わり!
またねー!

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