あんときのデジカメ 寒さが背中へ噛り付いたような讃岐の「冬はつとめて」 with KONICAMINOLTA DiMAGE X1
(はじめに)ようやく「寒さが背中へ噛り付いたような」真冬が到来しました。指先が悴む季節ですが、真冬の早朝とはいいもので、清少納言の言う通り「冬はつとめて」です。今回は讃岐のその情景を、コニカミノルタ最後のハイエンドコンパクトデジタルカメラで記録してみました。
「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」
私は毎日海へはいりに出掛けた。古い燻り返った藁葺の間を通り抜けて磯へ下りると、この辺にこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。ある時は海の中が銭湯のように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に知った人を一人ももたない私も、こういう賑やかな景色の中に裹まれて、砂の上に寝そべってみたり、膝頭を波に打たしてそこいらを跳ね廻るのは愉快であった。
私は実に先生をこの雑沓の間あいだに見付け出したのである。
(出典)夏目漱石『こころ』青空文庫。
久しぶりに夏目漱石の『こころ』(1914年)を読み直しています。『こころ』といえば、登場人物の葛藤や裏切りなど、そのドラマと内面描写に注視しがちですが、漱石は、季節感の変化で物語を進めていることにちょっと驚いています。
ちなみに僕が衝撃を受けた言葉は「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」という言葉です。これはいまもって僕の戒めの言葉になっています。
さて……。
季節感の変化で物語をすすめる匠といえば、やはり時代小説家の池波正太郎を第一に想起してしまいますが、漱石をその嚆矢と見るほかありません。
物語とは現在進行系のドラマと回想が織り交ぜられたものが多いのですが、その融合と変化を弁別するには季節の変化が妙技となるのかも知れません。
さて、季節の変化とともにもう一つ驚いたのは、『こころ』という作品は1年以上に渡る時代の変化を描いているということです。盛夏の鎌倉での私と先生との出会い、私の厳冬の帰国と再びの盛夏。私の父の容態の悪化と先生の手紙と物語は続きます。
加えて「手紙」の中で明らかにされる先生の来し方は数年に及ぶものです。こちらも季節の変化として物語が進んでゆきます。
最初に『こころ』を読んだ時には、現在進行系としての物語がこのような長期に渡るものだとは理解していませんでしたが、再び読み直すと、そういうディテールが気になってしまうものです。
もちろん、これは僕だけの場合かも知れませんが、こういうことに気がつくのも読書の愉しみなのかも知れません。
東京へ帰ってみると、松飾はいつか取り払われていた。町は寒い風の吹くに任せて、どこを見てもこれというほどの正月めいた景気はなかった。
私は早速先生のうちへ金を返しに行った。例の椎茸もついでに持って行った。ただ出すのは少し変だから、母がこれを差し上げてくれといいましたとわざわざ断って奥さんの前へ置いた。
(出典)夏目漱石、前掲書。
寒さが背中へ噛り付いたような
二人はそれぎり話を切り上げて、小石川の宿の方に足を向けました。割合に風のない暖かな日でしたけれども、何しろ冬の事ですから、公園のなかは淋しいものでした。ことに霜に打たれて蒼味を失った杉の木立こだちの茶褐色が、薄黒い空の中に、梢こずえを並べて聳えているのを振り返って見た時は、寒さが背中へ噛り付いたような心持がしました。我々は夕暮の本郷台を急ぎ足でどしどし通り抜けて、また向うの岡へ上のぼるべく小石川の谷へ下りたのです。私はその頃になって、ようやく外套の下に体の温味を感じ出したぐらいです。
(出典)夏目漱石、前掲書。
漱石の『こころ』を紐解いていたのは先日の宿直の時でしたが、目覚めると、
The 真冬
でした。
薄曇りのなか、職場を後にしましたが、田んぼには霜が降りてい、今年は「暖冬」だと聞いていましたが、話が違うじゃないかと思いつつも、真冬の早朝というのはいいものです。
ただその寒さというのは漱石に従えば、「寒さが背中へ噛り付いたような心持ち」になってしまうのは事実ですが、それでも厳冬の朝というものはよいものです。
昨年は、本当に暖冬で冬らしい冬が少なく、The 真冬 を記録することができなかったのですが、やはり
霜の降りた地面
日の出前の薄明かり
太陽の登り始めるちょうどその瞬間の明暗
日に照らし出され再び生気を帯びる木立や地面……等など。
清少納言が「冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭持て渡るも、いとつきづきし」という気持ちを強く共有するのは僕だけではないでしょう。
ちょっと残念なコニカミノルタ最後のコンパクトデジタルカメラ
さて、今回宿直明けの真冬の記録で使用したのは、コニカミノルタが2005年8月に発売した最後のコンパクトデジタルカメラ DiMAGE X1 です。屈曲光学系フラットズームのスタイリッシュなデジカメですが、画質に拘った1/1.8インチという大型のCCDセンサー、当時としては最高レベルの800万画素、そしてこのXシリーズでは初となる手ブレ補正機構「アンチシェイク」の搭載等など、当時としては先端の機能てんこ盛りのハイエンドモデルといってよいでしょう。
期待を抱かずにはいられないとはこのことですすが、端的に言えば期待を裏切られたちょっと残念なカメラというのが使用感です。
最も、過剰な期待をマイナスしてこれまたヨイショとまでは言わなくても、「当時」のコンデジとしては、まあ、「よく写る」というのも実情ですが、撮影するための「系」ないしは「機構」、すなわち設定や、シャッターレリーズの軽さ重さ、そういったカメラの構造自体が、撮影の足を引っ張るカメラで、大型センサーや当時としてはトップクラスの画素数を「まったく生かしきれていない」ということに、撮影しながら、まさに「隔靴掻痒」という印象を強くいだきました。
つまり「悪いカメラ」ではないけれども「残念なカメラ」に仕上がっています。
では、簡単にスペックを紹介します。センサーは830万画素撮像素子1/1.8型原色CCD、レンズは35mmフィルム換算で37-111mm、f値は、開放でF3.5とやや暗いものの、望遠端でF3.8と意外にも明るいのですが、望遠端でのピント迷いが多く、明るさを活かしきれていません。その一方、レンズユニットスイング手振れ補正のおかげで、全域で低速シャッターでも「粘る」ことが可能です。
レンズは「10群12枚」と贅沢な仕様で、高級機に採用されるGTを名乗るだけあって非常に優秀ですが、カメラ全体のミスマッチのせい、ぜんぜん、こちらも活かしきれていません。
まあ、古い「あんときのデジカメ」にいちいち文句をつけてもはじまりませんですが、デジカメの特性である、何度も撮影できるアドバンテージをいかせば、レンズの性能を引き出すことが可能になります。フィルムカメラではできない真似ですが、この付き合いをこのカメラと付き合い続けることで、レンズの性能を活かせるのではないでしょうか。
ということで以下、作例です。真冬の朝はやはりいいものです。撮影後は、近所の「こだわり麺や 善通寺店」で「年明けうどん」をちょうだいしました。
本年も「あんときのデジカメ」をどうぞよろしくおねがいします。
ということで撮影データ。プログラム撮影、ISO100、ホワイトバランスオート、露出補正なし。画像は3264×2448(FINE)で保存。撮影は2020年1月6日。撮影場所は香川県三豊市、善通寺市。
氏家法雄/独立研究者(組織神学/宗教学)。最近、地域再生の仕事にデビューしました。