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元リケジョ、いろいろあったおかげで今があります

中野恭子

 私はいま、開発途上国との高等教育協力を専門とするフリーランスのコンサルタントをしています。50年近く前、何も人生設計をしていなかった22歳のリケジョは、コンサルタントなどという職業を知りもせず、まして20年後に家族を放置して海外を飛び回っているなど、夢にも思っていませんでした。どうしてこういうことになったのでしょう?

著者略歴
1975年東京大学理学部卒。国際通信の企業に勤務ののち、結婚・妊娠を機に1980年退職。その後3人の育児をしながら世田谷区女性問題懇話会委員、ジャーナリストアシスタント、研究補佐員、NGO職員など様々なパートタイム勤務を経験。途中、1984年から夫の仕事の都合で2年間米国に滞在。1997年、法政大学経済学修士。1997年より、ODAコンサルタント会社フルタイム勤務。同じく1997年、東京大学大学院総合文化研究科博士課程入学、2005年単位取得満期退学。2005年退職し、有限会社ヒューマンリンク設立。2010年、博士(学術)。2016年から2021年まで、JICA国際協力専門員(高等教育分野)。現在、フリーランスの開発コンサルタントとしてインド工科大学ハイデラバード校の産学研究ネットワーク構築支援プロジェクトに参画中。

やりなおすならここからの出発点

そもそも私の両親、とくに母が、私が理学部へ行きたいというのにさして反対しなかったのは、女の子だから職にありつけなくて問題ない、むしろそのほうがいい、くらいに思ってのことでした。

母の最大の懸念は私が「オールドミス」になること。なので、女子が大学院へ行くなんてもってのほかと、両親は進学に大反対。私もまあ無理かもね、と思って院試は受けませんでした。

でも、当時まだ普通にあった家事手伝いという名の花嫁修業はまっぴらだったので、就活は当然でした。とはいえ雇用機会均等法ができる10年前で、リケジョどころか大卒女子を大卒資格で採用する企業さえ多くはありません。

かろうじて国際通信の会社が国際交換部門のオペレータとして採用してくれましたが、その後女性の出世頭は秘書課の主任という本社部門に移され、私は結婚・妊娠を経て5年9か月で退職しました。

ちなみに理学部の同期には、博士号取得・結婚・出産をすべて達成し、プロフェッショナルとして活躍している女性が少なからずいます。初めからもっとよく考えていたら、人生は違っていたかもしれません。

何かおかしいという気づき

社会生活から足を洗ったことで、私は、女性には男性と同じ人生の選択肢がないことに気付きます

学部同級生の夫には、辛苦もあるでしょうが思う存分できる仕事も、作らなくても出てくるご飯も、遊び相手をしていればいい子供も、さらには飲み会や泊りがけで遊びに行く自由もあるのに、私には具合が悪くてもしなければならない家事と育児しかない。実家を頼らなければ病院に行くこともままならない。

そういう人生を選んでしまったのは自分だけど、そんな思いをしている女性は周囲にたくさんいる。なぜ女性だけ、結婚や出産で仕事を続けるか問われるの?なぜ男性は自分のしたいことをしていいの?これは後にアマルティア・センの理論と出会うことで自分の中で整理されるのですが、そんな疑問がわいてきた1980年代半ば、米国での生活が始まります。

その後の人生の原点となる格差と差別との出会い

米国生活での最初のショックは、小さな子供たちが遊ぶ公園で、小学生くらいの男の子が滑り台の上から我が子にDirty boy!と罵声を浴びせたことです。そして白人のお母さんたちは私たちに声をかけない。

スーパーでDamn Jap!と老人に罵られた時は、さすがに周囲が申し訳なさそうにしていましたし、全ての白人に一律に差別されていたわけではありませんでしたが、少なくともある一定のグループの人々から私たちはそういう位置づけをされているという意識が芽生えました。

仕事で白人と同じ土俵に立っている夫はあまり感じなかったようですし、多様な国からの留学生ファミリーが参加している公立のナーサリースクールでは私もリラックスできましたが、見知らぬコミュニティでは自分をそのような立場に置いて行動することが自分の心を折らないワザになりました。

これは自分がマイノリティになった経験ですが、そのナーサリースクールは当時あまり白人が行かない地域にあり、アフリカ系の家庭のこどもが2/3ほどいました。そこで見た、私や中東・アジアからの留学生とさえ違う彼らの生活は、また大きな衝撃でした。

同じ街のヒルトップに住む人々と彼らの違いはどこからくるのだ?我が子がそこの家の子だったら?それはやがて、我が子が紛争地で生まれて飢えや暴力に怯えながら生きなければならないとしたら、いや、でも現実にそういう人々がいる、という思いになっていきました。

格差はどこからくるのだろう。どうしたらなくなるのだろう。私は30歳を過ぎていました。

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本稿著者とUJAは、白人や黒人といった肌の色などをもとにした人間のグループ分けに明確に反対します。ここでは、35年前のアメリカに明確に存在していた人種による差別というものに言及するために、あえてこのような言葉遣いを用いています。UJAの多様性に関する考え方についてはこちら(https://www.uja-info.org/post/_t005)をご覧ください。
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キャリアのはじまりのはじまり

海外生活で得たこうした漠然とした思いは、帰国後夫が転職し、社宅を出て世田谷に引っ越したことをきっかけに、その後の私の人生を牽引することになります。

新居でたまさか見つけた世田谷区女性問題懇話会委員募集に惹きつけられ、私はミカン箱の上で応募書類を書き、夜の会合には保育をつけるという有難い条件つきで採用されました。

そこで出会った女性学の先生に研究生になることを勧められて勉強する楽しさがデジャブのようによみがえり、空腹で床に倒れている子どもに謝りながらレポートを書く日々が訪れます。そして開発と女性という課題について専門的な理論背景をもちたいという思いが頭をもたげてきました。

そのころ子どもはまだ小学生かそれ以下でしたが、いまも家族から○○公園放置事件や○○池放置事件として言及される事案をいくつか起こしながら高名な女性ジャーナリストのアシスタントの仕事も始め、私はだんだん、後先も考えずに自分で決める人になっていきました。Yes/Noをハッキリ言うようになったのは米国生活のお陰でもあります。

開発経済学の夜間修士課程に入ることになったのは、夫には事後報告でした。仕事をすることにも勉強することにも反対されなかったことは、夫と結婚してよかったと思う最大のポイントといってもよいくらいの幸運です。

そのころには科研費の研究補佐員とNGOのパート職員を掛け持ちしており、子どもを学校に送り出したあと統計学の演習をしている私をみて、「洗濯物は俺が干すよ」と夫が言ってくれたのも大きな心の支えでした。やがて我が家の洗濯機は全自動洗濯乾燥機に変わるわけですが。

塾に行く子どものお弁当を冷蔵庫に入れて出勤し、大学院で授業を受けて帰って夕食を作るなど、自分ではよくやった感がありますが、子どもたちはどう思っていたでしょうか。

その後は仕事まっしぐら

修士論文を書きながら、もっと深く研究したいと思うようになり、私は母校の博士課程を受験し、再び夫に合格を事後報告しました。夫は呆れながらも、応援してくれました。フルタイムで働きながら、中高生の育児をしながらの博士取得は13年を要しました。

博士入学が決まったころ、母校の留学生室でパート職員していた私に高等教育分野のODAコンサルタントの仕事を紹介してくださったのは理学部時代の先生です。私は求人している会社に面接に行き、素人なのに図々しくフルタイムで雇ってくれるならと条件を出し、正職員のポジションを手にしました。

ここから家族放置の海外出張歴が始まりますが、このころはせいぜい2週間の短期出張でした。この会社で9年、後半は終電どころか始発で帰宅してまた出勤する日もあるほど働いたことは、結局面接で採用してくれた経営者とぶつかって辞表をたたきつけることになるのですが、非常に多面的な意味で、私のプロフェッショナルとしての基盤となっています。

紹介してくださった先生、重用してくれつつ無理難題をいって私を鍛えてくれた経営者への感謝は言いようのないほど大きいです。

さて、ついに退職し、博論に集中しようと考えていた矢先、これも運命的にコンサルタント会社時代の知人に誘われて、私はアフリカで2か月仕事をすることになります。そのころには末っ子も家を出て大学に行っており、育児の懸念はありませんでした。

退職の翌日、帰宅して「ただいま、とかって超新鮮!」と言ってくれた子どもには「え、もうおしまい?」と驚かれましたが、職業教育という分野に経験がなかったにもかかわらず知人から膨大な資料をもらって勉強し入札に成功したのは、コンサルタントとしての自信になりました。

そのアフリカ業務中に知人から別の案件のお誘いを受けて再び入札に成功し、夫に「そういうの単身赴任っていうから」と言われる長期海外出張繰り返しの時代が始まります。入札条件の都合から、自分ひとりの有限会社を設立して独立したのもこの時です。

研究者ではないけれど研究は仕事のバックボーン

いくつかの案件で1年の2/3を海外出張でつぶす生活が10年続いたあと、ご縁あってJICAの国際協力専門員という常勤の仕事をいただき、私は近隣に住む小学生の孫と毎日同伴出勤するという幸せを味わいました。

コンサルタント会社時代、その慇懃無礼な態度で役人殺しの中野と呼ばれていた私は、お役所務めをしたいと思ってはいなかったのですが、JICAでの5年間は私のプロフェッショナル基盤をリフレッシュしてくれました。ひとつは多様な案件を政策側から見る視線の獲得、もうひとつは比較的自由な時間と立場を利用してプロジェクトの知見を論文にできたことです。

修士時代、女性と格差への強い思いから、研究テーマは開発と女性でした。なので博士出願の研究計画はジェンダーに関するものだったのですが、博士入学とコンサルタント会社就職が同時だったため、「開発途上国にも高等教育は必要であることの実証」という強い動機が現れました。

ジェンダー分野の指導教員候補のオフィスアワーが仕事予定と合わず、開発経済学の先生に指導教員になっていただいたという事情もあります。最初の指導教員に「実証は無理だよ」と言われながらも、また次々指導教員が退官していくなか、テーマを変えずに研究できたのは、「あなたがそう思うのならその直感を信じて研究したらいい」と言ってくださった修士時代の先生の言葉と、高等教育協力に寒風が吹く時代に必要性を証明しなければという使命感のおかげです。

博士論文の決め手は、分野外の副査の先生のちょっとしたヒント情報を追って得た自分のデータでした。仕事も研究も、しみじみ人との出会いに支えられました。

国内外の業務で議論を展開するとき、博士論文を書いた経験とそれによって実証した工学高等協力の必要性、またJICA時代に論文として発表したある種のメソッドの有効性は、相手に対しても、また論をはる自分に対しても強い力を持っています。

たくさんの幸運や温かい支えがあったからこそ、今こうして過去を記すことができるわけですが、自分で決めたことだから諦めなかった、というのも本当です。どこから来たのか、どんな経験も必ず役に立つというプラス思考も私の中にありました。来るもの拒まず、何でも楽しむことが幸せの秘訣でしょうか。

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