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この10年の変化 ホ・オポノポノ実践家族の子育て 特別編


SITH ホ・オポノポノ実践家族の子育て

この10年の変化


※それぞれの10年というハッシュタグの投稿に応募してみます。


あたりまえが止まった日


私は震災の日、家族と共に都内のデパートにいた。デパートは耐震構造になっていて、倒壊しないため揺れを逃す造りなっていためにより大きく揺れた。

一歳3ヶ月になる娘と主人と授乳室にいた。

長く続く揺れと時折増す激しさに
このまま死ぬのかなと思った瞬間があった。


辺りは人々の悲鳴とアラームのような
“落ち着いてください”の自動アナウンス。

緊迫した空気が流れていた。

しばらくして、誰が誘導するでもなく、人々は止まっているエスカレーターを歩いて降り外に出た。

街の人々は皆、立ち止まって様子を伺っていた。高層ビルも建つ都会の街。


辺りは騒然としていた。

電信柱が目に見えて揺れているので、
余震が続いている。
真上のビルがさらに揺れたら....
そんな風に思ってビルを見上げた。

電車は止まっていた。
地震に遭った場所から、
歩いて帰れる距離に家があったので、
歩いて家に帰った。

家の中は引っ越して間もなかったのもあり、
物は少なく大きな被害はなかった。
机の上に水が入ったコップが置かれていて、
動いた形跡はあったけど、そのまま立っていた。
その後しばらく、余震は続き家の外の電信柱は揺れていた。

後から気付いたけど、昭和の建物だった家のお風呂のタイルの壁に亀裂が入っていた。

TVをつけて....見たことのないほどの
大きな津波の映像を目にして、
現実だとはすぐに受け止められず、
ただただ押し黙って茫然なりながら映像をみた...

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生き方を見直した10年


あれから10年
振り返ってみると、
私たち家族は自分たちの生き方を見直した10年だったように思う。


震災直後から、移住する移住しないで
主人とよく話し合うことが増え、
半ばケンカのようになる話し合いが多くなっていた。原発のこともあり、小さな子どももいたので、神経質になり、キリキリとした毎日だった。

あの地震の日、電車が止まり、
家に帰ろうとした都内にいたほとんどの人たちが歩いて自宅に向かった。甲州街道は歩く人と渋滞する車で真っ赤になった。


あたりまえの毎日が止まった日。


あの出来事は、都会の孤独な子育てで
育児ノイローゼのようになり、
つらい毎日を過ごしていた当時の私には、
生き方を見直すきっかけになった。

仕事、保育園...
家族が離れ離れでいることが
当たり前の日々だった毎日の生活。
たまたまあの日家族で一緒にいたけれど、ふと気がついた。

いかにいつも個々にバラバラになっていて、一緒に過ごさない毎日を送っていたかを.....。

家族って....?明日世界がなくなるなら....?

私たちは今この瞬間をどう過ごしたい?

こんなことをよく考えた。

子どもを産んでから、
都会の孤独な子育てで、
毎日誰か助けて!と叫びたかった日々。


このままじゃいけない.....。


このままじゃいけない......。


震災後、
とにかく激しくそう思う毎日を過ごすようになった。


主人に頼んで、収入が減ってもいいから、
もう少し家族で一緒にいる方法を
考えないかと提案したのもこの頃だったと思う....。


結局、
話し合いに話し合いを重ね、
さらに色々な理由が重なって、
最近になるまで本格的な移住はしなかったけど、
家族が一緒居れる方法を第一に考えながら、
私たちはその後の仕事や生活の仕方を選んでいった。


2009年子供を授かり、
都会での子育て、子供との向き合い方、
それまでも悩みに悩んでいた.....


それから約2年後、


10年前のあの日の地震をきっかけに
それまでの当たり前の日々を
当たり前ではないと感じるようになったこと。
何よりも変わらなければって強く思ったこと。


それともうひとつ....

我が子と毎日向き合う中で、

”子どもに教えられることの多さ”

そんなことにも気付き始めた頃だった。



津波に襲われた大川小学校のこと

東日本大震災で...
生徒と先生が津波から逃げ遅れた
石巻市の大川小学校のこと。

震災から随分だった頃に知り、
胸が締め付けられた。

地震後、どこに避難するかと大人たちが話し合っていた。寒い校庭で子どもたちは待機していた。
一部の子どもたちは裏山に逃げようといった。
直感で先に避難しようと山に駆け上がった数人の子どもたちは再び校庭に戻されたという。

同じく裏山に避難しようと提案した先生もいた。けれども、大人たちで話し合った結果、別の高台に避難するため反対方向へ移動し始めた時、川を超えてくる巨大な津波の波に襲われてしまった。


その時.....
意見をまとめてみんなが同じように行動する必要があったのだろうか.....


集団行動のルール、大人たちの意見....
みんなで一緒に整列して行動する...


子どもの話や意見を尊重出来ず、自分の意思で逃げることを却下するほど団体行動をする必要性はあったのか....


社会の...行政の....日本人の....真面目さ

ルールだらけの社会。

そんな習慣が仇となった可能性も十分にある。


最後の最後は直感、臨機応変、

自分の身は自分で守りなさい!
整列なんてしなくていいから、本当に危ない時には、自分で考えて、とにかく高い所に逃げなさい!
と日頃から教えていた先生が津波に遭った他の地域にはいたそうだ.....
この先生は自分で考えて自分で行動することの大切さを教えていたのだろう。
この地域では、大津波が襲ってくる中、子どもたちが直感で避難場所を次々と変え、より高い高い場所へと避難し、助かっている。

予想のつかない出来事....人生はすべてそうである気がする。タラレバを言いたい訳ではなく、今、どう生きるかはその人それぞれの選択を優先できる社会であってほしい。


自分の頭で考え、行動する。
選択する権利。
自己責任。
自分の身は自分で守る。


そんな大切なことも忘れてしまうくらいの
従わなければならないルールや決まりってなんだろう....


山に登ろうと言ったことを聞いてもらえず
津波にあった子どもたちはどんなに無念だっただろう

一度は逃げたのに、連れ戻された....

津波にあった先生たちの中で、裏山に逃げたらどうかと提案した先生は、あの時、自分の本当の気持ちに従っていればと、どんなに後悔しただろう。あの時、子どもたちの意見を聞いていれば...と悔やんだかもしれない。

直感を得て、行動しようとした子どもたちが
その自分の意思を持っていたにもかかわらず
その行動をすることを許されなかったこと....

なぜ....



報われるために....今出来ること


大川小学校のこと。
子どもたちの無念さ。
その無念さが報われるためには、
大人が子どもの話にきちんと耳を傾けることや
子どもたちに畏敬の念を持ち、
1人の人間として、対等に向き合うことが
本当に大切なのではないだろうか。

生きている大人たちが、
変われることがあるとするならば、
子どもたちの意見に真剣に耳を傾けること。
その意思を尊重すること。
そして、あまりルールルールで縛り付けず、
自分の気持ちを大切に、そして、
いざという時は自分の魂の声に従うことを
許す社会であるということ。
そして、最後の最後は自分自身の責任は
自分で取れるように
本人に選択を委ねるということ。


大人に1人の人間としてではなく、
子供の言ってることだから...などと
軽く見られ続けながら育つ子どもたちは
どんな風に育つ?


子どもは、
大人たちより感覚的で、直感的で、
素直で、美しい。


子どもたちは尊敬に値する存在であるということ。

そんなことを一人ひとりの大人たちが見直すことではないだろうか...

外国に旅して思ったこと...何をするのも自己責任だった。
本来そうであったはずなのに、
自分の気持ちに従うこともできないルールだらけ、依存だらけの社会になってしまっているのではないか....


知識は感覚を鈍らずものかもしれない。


恐れは更なるルールを創り続け、子どもたちの未来や
自由意思を奪い続けているのかもしれない....


何を学ぶか何を選ぶかだってその人次第。
自分の意思で責任を持って選択し、生きる。
そんなことが許される世の中で
生き生きと生きる子どもたちの姿を
私は願う....


社会に依存する生き方になっていないか...
誰かがルールをはみ出すことを批判し合うことになんの意味がある?

正解なんてどこにもない。



セルフケア


今この瞬間の己の心の内と向き合い続ける。

大人が子どもたちに教えられることがあるとするならば、学力よりも前に自分自身の心に寄り添いながら生きるセルフケアからではないでしょうか....

昨今、大人も子どもも心の病が増え続けている....

ヨガでもマインドフルネスでも、他の瞑想でもなんでもいい...自分自身の心と寄り添いながら生きる習慣をつけることで、自分の心を自分で助けることが出来る力。


今必要な教育はセルフケアをすることをではないだろうか。


私は震災から一年後にSITH ホ・オポノポノに出会い、
自分自身の一瞬一瞬、発する想いに責任を取る生き方を選択しました。


目に見えることだけでの判断をやめました。

恐れはとことん自分の責任として、クリーニングしています。

自分自身の本当の気持ちと常に向き合いながら、生きる選択をしています。

これはセルフケアであり、人がやれるまず最初の自己責任を取る行為だと思って生きています。

結果、
主人のうつも私の育児ノイローゼも治り、日々の一瞬を大切に生きれるようになりました。

10年前のセルフケアを知らなかった自分に言えることがあるとするならば、

今というこの瞬間の己の心のケアを大切に、
変化することは恐れることではなく、
“新しい今” に向き合うすばらしい瞬間だということを伝えてあげたい。



アイスブルー



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※アイスブルーは、ハワイの叡智 ホ・オポノポノのクリーニングツール。

私は自分自身と向き合うためにクリーニングを続けています。

自分の心の責任をとるために。




































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