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やさしい世界で生きてる気がする。INFJ×HSP

何年か前よりも確実に、自分が生きてる世界がやさしくなったような気がする。

昔(と言っても2年前程度)は人と関わりたくないと思っていた。
人と会うと傷つき疲れてしまうことが多いから、外と交流するよりもっと有意義なことがあると思っていた。

学校に居場所がなかった。
どこにも居心地が良い場所がなかった。
どこにいても、誰と話しても、心のどこかがずっとモヤモヤして、訳の分からない焦燥感があって、自分を分かろうとしても、霧の中を彷徨い空振るような感覚。

学校から帰ってきた私に続いて、家族も家の戸を開ける。
家族がみんな帰ってきて夜になると、私は自室で1人音楽を聴いていた。
ずっと夜が続けばいいと思っていた。
ずっと夜のまま、人の影も自分も全部ぼやけたままがいいと思っていた。

夜の自室を1人で過ごす時間が好きだった私は、やがてゆっくりと時間をかけ、私の世界を変えてゆく。

本当は自分の居場所を自分で選んで視界が変わっただけで、生きる世界は何も変わってなどいないけど。

世界は最初から最悪なことばっかで、最高なことばっかで、刺激だらけで、癒しに溢れていた。
私の体には無数の傷があって、拙い息の仕方で、愛を抱えようにもまだぎこちない。

足元の悪い道を懸命に生きていることは、今も昔も何も変わっていない。

このやさしい世界を見る目を、私はどうやって守っていくことができるか。


生きづらさを抱えやすいINFJとHSP

INFJとHSP、どちらも些細なことに傷つき、その数の少なさ故に生きづらさを抱えやすく、生きづらさを手放しづらい。
私の視界に入るものは常に、良くも悪くも何かしらの刺激を持って見える。
音や匂いや光もそう。
誰かの視線や言葉の奥にある心情を、嫌でも感じ取って静かに疲れてしまう。

「思慮深い」と言えば格好がつくかもしれないが、考え込みすぎてどんどん視野が狭くなっていくタイプでもある。
最終的に行き着く結論は大抵がネガティブなものだった。

考えれば考えるだけ自分は小さくなっていく。
自分の内面に目を向けすぎて、気づいたら地面を睨んでただうずくまっているだけの人間になる。
周りの人の視点は当たり前に自分より高い。
同じ年に生まれて同じ学校に入ったはずの同級生のあの子。
その背が今は遠く、高く見える。
そんな風に上手くは歩けなかったな。

まだ短い人生だけど辛い時期を味わった。
被害者意識が視界を塞いで、人に優しくできなかったことも、大切なものに目を向けられなかったこともある。

でも今は、人にやさしくできてる気がする。


自己犠牲<自分のための居場所

繊細な人間が最も必要なのは、「自分のためだと思える居場所」だと思う。
INFJやHSP気質の人は自己犠牲をしがちだ。
自己犠牲の先にある誰かの笑顔が生きがいだとしても、自己犠牲ばかりを繰り返せばいつかは自分の体が壊れてしまう。

「あの人のためにここにいる」という意識では、きっとそんな自己犠牲を美化してしまう。
そのうち自分がいる場所に、いる意味を見い出せなくなる。
自己犠牲にも意味がなく感じて体を壊す。

「あの人のために」という自己犠牲の精神は、次第に「あの人のせいで」という被害者意識に変わっていく。

被害者意識は、人の視界から幸せなものを覆い隠してしまう魔物だ。
この魔物を追い払うには、「誰かのため“だけ”にいる居場所」から離れて、一度自分のための別の居場所を作らなければならない。

自分が元いた居場所を離れるのも、新しく居場所を作るのも、すごく勇気のいることだ。
生きるというのは、生まれた頃から当たり前でいて難しいことだけれど、自分が生きていなければ、誰かのための行動は取れない。

昔の私が被害者意識を取り除けないままだったら、今の私はきっと人に優しくできていないだろう。
「私はこんなにボロボロなのに、誰かに優しくしなきゃいけないの?」となるから。
人に優しくできないそんな自分のことを、酷く嫌っただろう。

人に優しい行動を取るのは、自分が元気になってからでも十分に間に合う。
人を傷つけさえしなければ、誰かのためを思えるならば、それだけでもう十分立派に人間はできている。

一度視界が被害者意識の魔物に覆われ、世界から色を奪われ、人生の崖っぷちに瀕した人は、それからの人生で「心の安定」を望むようになる。
「自分の心が安全地帯にあること」を望む。

それまでできていたことが何も手につかなくなることもあるだろう。
いつも感じていたものが感じ取れなくなることもあるだろう。
それでまた悲しくなることもあるだろう。

自分を守るために小さく丸くなっている時に、逃げるなだとか、相談をしろだとか、前を向けだとか、まるで屈みもせず上から言葉を降らせてくる人もいる。
頑張って休んでいる時に「休みすぎだ」と言ってくる人もいる。

休みすぎがちょうどいい。
それまで酷使された体には、深く傷ついた心には、ちょっと休みすぎちゃったくらいがちょうどいい。
逃げるくらいがちょうどいい。

被害者意識に覆われて何も受け入れなかった視界にも、いつかは色が入り込む。
悲しみで満ちていた心にも、いつかは心地良い風が吹き込む。
ゆっくり、できるようになることが増えていく。
感じ取れるものが増えていく。

それが多分、「幸せ」というやつだ。


自分が変わったから世界が変わった気がした

「地球が回るから太陽が登る」みたいな話。
宇宙の中の太陽の位置は変わらない。
しかし地球に住む私たちから見たら、空にある太陽の位置は常に変化している。
なんか、多分そういう話に似ている。

逆に言えば、どれだけ自分が変わろうが、自分の生きる世界が変わることはない。
毎日朝が来る。
人知れず傷つく。
夜が続くことはない。

でも、私が人にやさしくできるようになったから、この世界のやさしいところをいっぱいに感じ取れるようになったのだと思う。
私が人にやさしくあることで、私のやさしい世界を守れる。
そういう世界で生きている。

どうか、同じ世界に生き、生きづらさを抱える人の心が、もうこれ以上何にも脅かされないことを願う。



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