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負の感情が文への動機になる


文が書けない。
調子が悪いのかモチベーションがないだけなのか、ぱっと思いついた語呂の良いタイトルだけが下書きに溜まっていく。
いつの間にか外は暖かいのに、私はそれに追いつけないままだ。
私が日を浴びて花開くのはいつだろう。

気分の浮き沈みが激しい時期があった。
日常的にあれこれ色んなことを考えて、しかもそれに感情を左右されてしまうので、少し前の自分の文を見ると別人みたいで気持ちが悪かったりもした。

その時を思い出して気付いたのは、負の感情の方が文の動機になっていたことだった。
私の痛みや悲しみが他の誰かに理解されることはないと思っていながら、せめてそれが無かったことにならないように、文として残していたかった。
でもその文は、どこか理解されたいと望んでいるようにも見えた。

海に沈んで見た月が、どれほど綺麗で手の届かない存在か。
それを書いた短くも痛々しい文がとても好きだった。
また呑まれたいと思ってしまうほどに。


炎上してそうな案件を見る度に、自ら炎の中に飛び込む精神的な自傷行為みたいなものがやめられなかった。
見たら傷つくと分かっていながら見に行った。

その理由が今ならわかる。
それが文の材料になっていたからだ。
他人の炎上に飛び込んで他人への非難を浴びることが、一番簡単な絶望だった。
あの時の火傷はまだ息をしている。

負の感情が人を動かす力は、計り知れないほど大きいと思う。
非難する人も、怒りだとかの負の感情に突き動かされてそうなっただろう。
誰かの孤独を綴った文が、誰かの古傷を抉ったり、誰かに寄り添ったりする。
そんなことが私にもできたらいいのに。


私の書きたい文章がどんなものか、今までしっかり考えたことがなかった。
ただなんとなく「誰かに何かしらの影響を与えたい」と思う。

広い広い海の中で、互いに存在を知らないまま、でも確かに誰かがいる。
大きな波なんてとても生み出せるものじゃないけど、私が起こした弱い波を感じ取ってほしい。
誰かが起こした弱い波を感じ取りたい。
もがいて起きた波でも、涙が水面に落ちた波紋でも。
そうやって存在を確かめ合えるような、そんな文を私も書きたい。

でも本当は、その“誰か”に会いたい。


私は今幸せだと思う。
好きなものが変わらずあるから。
安心して寝られるから。
辛いことがないから。

でも生きてる気がそんなにしない。
負の感情の出処をなくしたら幸せ者になれる。
そんなわけでもないらしい。
初めて知った。

これから、もう冬が明けて、春が過ぎていく。
冷たさの心地良さを知っていく。
人にも季節にも置いていかれそうになる。

その時に、寂しさや恋しさをちゃんと思い出せるように、この文を残しておく。



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