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真夏の通り雨に心打たれて

こんにちは。手帳めくリエーターのharukaです。

ここ最近、通り雨や雷が多いなぁと感じます。ゲリラ豪雨、と呼ばれるやつとかね。

口の中ケガしそうでも食べたいベーコンエピ

先週行っていた山梨旅の途中でも、太陽が照りつける河口湖のほとりにてパンを食べていたら、どんどん真っ黒い雲が向かってきて雨が降りました。

天気は「天の気」と書くだけあって、泣いたり笑ったり変わりやすいものなのだなぁと思います。

天気だってこんなに変わるんだから、そりゃ私たちの気持ちもいろいろ変わるよね。

そんな夏の雨に打たれると、お盆が近づくと、思い出す曲があります。

宇多田ヒカルさんの「真夏の通り雨」。

ジメジメとした空気感と、記憶の中で生きるあの人への想いと、生きていかなきゃいけない現実への虚無感と、、、

聴くと感情が溢れ出しそうになる、重くて深くて切ない、好きな曲です。

この時期になると、戦争で命を落とした方への追悼の気持ちを述べたり、戦地へ想いを馳せたりする人も多いと思うけれど

この曲を聴くと、自分が体験した出来事じゃないけれど、その時代を生きた人々の色々な哀しみを想像してしまって、今生きていることってすごいのだなと改めて思えます。

一方で、日韓夫婦である私たちは「8月15日」という日の歴史的な捉え方が全く異なるので、自分が体験した出来事ではないにせよ、忘れてはいけない過去を背負って生きているのだな、ということを思い出させてくれる曲でもあります。

被害者としての記憶は語り継がれるけれど、加害者としての記憶は語り継がれにくいなぁと思ったり。

どこか自分の中に、そうした沢山の人々の死を「物語の世界の出来事」のように受け取りたくない、という気持ちがあるからこそ、哀しみや怒りさえもつい自分に取り込んでしまいたくなるのかもしれない。

毎日が誰かの誕生日であるのと同時に、毎日が誰かの命日でもあるわけで、なんだかこうやって明日が来ることを当たり前のように思えることそのものが、ものすごく平和でありがたいことなのだと感じます。

「命に感謝!」とか言うとすごく軽く聞こえて嫌だから日常ではなかなか言わないけど、本当に、ありがたいことです。

もし、生まれた時代がもう100年早かったら、50年早かったら、どう生きていただろう?と想像してみたりね。

日々を生き抜きたい精神が強すぎて、自分が生きた証を残したい気持ちが強すぎて、いろいろ考える。

「水は記憶を持つ」とか言ったりするけれど、真夏の通り雨に人々の記憶を感じるのも、そのせいなのかなぁ。

そんなことを思った日でした。
読んでくれた方、ありがとうございます!

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