ファイターズ栗山監督、退任会見。野球を愛し北海道を愛した指揮官に10年間の感謝を込めて。全文公開(廣岡俊光)
試合前のファイターズの練習時間、グラウンドに立ち選手たちの姿を見つめる指揮官。向きを変え私たちのほうへ向かってくる。いつもの時間が始まる合図だ。報道陣が慌ただしくベンチ内のイスに腰かける。場所は決まっているわけではない。けれど、いつもの顔ぶれがなんとなくいつもの場所へ。メモとペンを取り出す。準備完了。
監督「おはよう、みんなおはよう!」
記者「おはようございます。監督、だいぶ暑くなってきましたね」
監督「そうだなぁ。今朝も庭の花に水をやってたら・・・(ひとしきり話して)・・・いや、オレのことはどうだっていいんだよ(笑)」
いつも監督の口からまず出てくるのは、居をかまえる栗山町『栗の樹ファーム』で、自らていねいに手入れをして育てている植物の話。そこで顔をのぞかせる動物の話、鳥の話。そして移りゆく北海道の四季の話でした。
11月1日。栗山監督の退任会見で『代表質問』(テレビ・新聞各社を代表して質問する)を担当することになりました。なにを聞けばよいかあれこれ思いを巡らせましたが、たどりついたのはやっぱりいつもの札幌ドームのベンチの光景。だから最初の質問だけはすぐに決まりました。
シーズン中、空気を吸うのと同じように日々聞かせていただいてきた栗山監督のことば。監督としてのこれがラストメッセージです。
栗山監督、10年間本当にありがとうございました。(文:廣岡俊光)
★栗山英樹監督 冒頭あいさつ
10年間という時間が長いのか短いのか分かりませんが、選手たちのために、そしてファンの皆さん、応援してくださる皆さんになんとか喜んでもらおうと、めいっぱい全力で走ってきました。ただ終わってみると後悔とか悔いとかそういったものばかりです。NPBをはじめ全国の野球関係者の皆さん、そして審判含めまして球団、スタッフ、メディアなど全ての人たち。そういった方がいて10年間野球をやらせてもらえました。本当にありがとうございました。
★質疑応答
(代表質問→UHB北海道文化放送:廣岡俊光)
――栗山監督は試合前にいつも、あさ栗山町の家で出会った動物の話、札幌ドームまでの風景や道のりで見えたもの、感じたこと話してくれました。けさここに来るまでに見えたもの、感じたことから教えてください。
朝起きてなんか音がするのでうるさいなと思ったら、エゾリスが栗を食べていて、「じゃまするなよ!」と目の前に飛んできたので「わるいわるい!」という会話をしました。朝起きると鳥にも声をかけるし。
そういった自然の中にいて、自然の摂理にしたがってやらないとうまくいかないということを教えてもらいましたし、やればやるほどそれは間違いないと思いました。いつもと変わらない日常でした。
――『結果に対する責任はすべて監督が負う』と仰ってきた10年間の監督生活でした。どんな10年間でしたか?
ぼくごときが辞めても責任を取ることにはならないですけど、勝ち負けの責任はこっちにあるんだとずっと言い続けたのは、選手達にとにかく『怖がらずに思いっきり野球をやってほしい』それだけでした。だからこそ絶対に選手は批判しないし、ファンの皆さんにもいろんな思いはあるだろうけど、それを選手達は必ずいかしてくれますからというメッセージを送ってきたつもりです。
その中でどういう10年間だったかと言われると、本当に大好きな野球をこの歳まで全力で必死になれた。こんなに幸せなことはありません。ただ幸せだったと思うぶん、応援して下さるファンのみなさんが、勝って喜ぶとか優勝して喜ぶことが、ぼくが思っていたよりもうまくいかなくて回数が少なかった。そのことに関しては「本当にすいません」としか言いようがない10年間です。
――栗山監督は常に『選手を輝かせる』ことを最優先にされてきました。選手たちと向き合うなかで大切にしていたことは何ですか?
どういう表現がいいのかはわかりませんけど・・・とにかく『片思いをし続ける』ということ。相手がどう思うかというのは一切関係ないし、嫌われる怖さというのは本能として人は持ってると思うんですけど、嫌われて当然と思ってやっていたつもりです。『自分の感情を常に横に置き続ける』。感情が揺らがないことはないですけど、常にその瞬間に自分の感情を横に置くという作業をしていたつもり。うまくいかないこともあったけど、そのことだけは心掛けていたつもりです。
――前例にとらわれない栗山監督選手の采配に驚かされ続けてきました。その一手にたどりつくまでの思考、根幹にあったものはどんなものだったのでしょうか?
本当はもっといっぱい策があったんですけどね(笑)。もっといろんなことやってみたかったなというのがすごくあって。もっと勝ちが重なっていくとその手も意味を持つことが多いと思うので、それができなかったのは本当に悔しいです。
ただふざけているように見えたかもしれないですけど、勝つためにもっと違う方法があるし、そのためには組み合わせたり得意なところだけを使ったりとかそういうことが必要だったと思います。とにかくみんながうわーってびっくりして勝ってる姿をイメージした時に、どういう作戦があるのかと常に考えてたつもりです。
すべては勝つために。常識といわれるものと全く離れたところにあることをやったときに、結果を出し続けることが組織が一致団結するのにいちばん近いと思っていました。普通のことをやってもそうはなりにくいと思ったので、それは意識してやりました。
――10年間で特に印象に残っている試合をあげてください。
いっぱいありますね・・・。開幕戦の斎藤(佑樹)のピッチングから始まって、その前に開幕前にバッターを全員集めて「頼むな。打ち勝つんだ」って言ったときの選手たちのことばや雰囲気。2年目最下位に沈んでいく、9連敗している時に、(杉谷)拳士がエレベーターで「監督元気出して下さいよ」って。すごく申し訳なさそうにあの拳士が気遣って言ってる姿を見たときに、本当に頑張らなきゃと思いましたね。そういう試合をあげるとキリがないですね。
――いま野球のことを考えなくてもいい、考えなくても許される日々がやってきましたが、監督にとってそれはどんな時間に感じていますか?
あぁ、それはそういう感じではないですね。きのうの夜もずっとノートに書いてました。なんで今年負けたのか、もっとやり方があっただろうということを書いていたんですけど。たぶんもう意味がないですよね(笑)。でもそれは今後も続きますね。無駄な抵抗ですよね(笑)。でもぼくの中では監督をやっているとかやっていないとか、そういうことじゃないんで。もっと野球を知りたいし、もっと選手たちを喜ばせてあげる方法を見つけたいだけ。野球のことを考えなくていいという感じは全然ないですね。
――これまで取材のなかで「(監督生活が)終わったら話すよ」と言われることがとても多かったので、きょう聞かせて下さい。大谷翔平選手とは入団前から、ことばをかわし濃密な時間を過ごしてこられたと思います。栗山監督には大谷選手の行く先にどんな道が見えていたんでしょうか?
今でもこういうイメージというのは勝手に持っているんだけど、その途中というか、こんなになってほしいというところからはまだ全然途中ですね。球団もGMも、携わってくれた方はみんなそうですけど、こういう風になっていくんだというイメージはみんな思っていたので。
あんまり個人的な話はしたくないというのはありますけど、でも終わったら話すと言ったので(笑)。
本当に5年間という短さで卒業させましたけど、それは僕だけの思いではないし、球団の皆さんの思いだったし、世界一の選手になる可能性があったから、早く出さないと世界一にならないという信念をすごく持っていたつもりです。
そのあと正直言えば、チームや他の選手が、勝ちたいのに苦しんだ部分はあったかもしれない。有原(航平)の時もそうだったし、ぼくが来た時はダル(ビッシュ)もそうだったし。それよりも世界の最高峰といわれる場所で輝いてくれることがチームに大きな力を与えてくれると信じていたので。本当に冗談じゃなく、世界一の選手になると信じていたので。それがどういう選手かはいろいろなイメージがあると思うけど、そんな感じは最初から思っていました。
――海を越えて多くの人がいま、大谷選手のそばにいる『野球の神様』の存在を感じているように思いますが、監督はどのように感じていますか?
ああいう選手というのは、(大谷)翔平に限らず、ファイターズに入団してある程度一生懸命野球を頑張れる人たちは、ある程度選ばれた人たちのはずで、そういう人たちというのは純粋な野球の神様と対話をしてまっすぐに進んでいくとぼくはいつも思ってます。
まわりにいるだれかが何か言うのではなくて、選手が本当にやりたいことを決めることが、その選手を生かす道じゃないかといつも思っていました。だからお前がどうしたいんだと常に選手には言ってきたし、それを聞こうとしてきたつもり。
ぼくが話してきた『野球の神様論』、ちょっとだけみなさんに分かってもらえたかなと(笑)。正しいとかじゃなくて、ぼくが感じていることをみなさんに感じてもらえたかなと思いますね。
――斎藤佑樹投手についても聞かせてください。同じ年にユニフォームを脱ぐことになりましたが、もがく姿もすべて見せてきた斎藤投手のプロ野球人生に、監督はどのように寄り添ってきましたか?どのようなまなざしで彼を見つめていましたか?
斎藤佑樹の人生の勝負はこれからだと思います。プロ野球ってなにか。野球は野球なんですけど、プロ野球の持つ意味や存在価値、存在意義というのはすごくあると思っています。
いま翔平とか佑樹の話をして下さってますけど、ファイターズに来てみんなが応援できるようなかたちになってる選手はいい。でもそうではなくユニフォームを脱いでいった選手がいる。調べてもらったら192人の選手とぼくは出会っていて、いま頭の中にうかぶのは、あいつもっとこうしてやればよかったなとか。例えば今年で言えば海老原(一佳)、えびちゃんもそう。背番号を変えて一軍でプレーさせてやれなかったという申し訳ない思いもある。そういう選手たちのことのほうが気になります。
そういう風に考えたときに、プロ野球で斎藤佑樹という選手がもちろん活躍することも大事だし、夢を与えることも大事なんだけれど、子どもたちや世の中で苦しんでいる方に対してどういう責任があるのか。やっぱり苦しんでも苦しんでも必死になってる姿、頑張っている姿を見せることや、たとえば翔平で言うと、子どもたちに「周りのひとに迷惑をかけるのやめなさい」とか「ゴミが落ちてたら拾いなさい」と教えるよりも、翔平がああやってゴミを拾うほうがよっぽどメッセージとして伝わっていく。そういう意味がプロ野球にはあると思っています。
佑樹にはかわいそうでしたけど、ものすごく言ってきました。「悪いけど、お前には苦しむ姿を見せる責任があるんだ」と。それは他の選手と違うとかそういうことではなくて、選手ごとに役割があると思っていて背負わせました。
逆に言えば佑樹の強さだったり頑張りっていうのはすごいものがあったので、みんなそれを分かったから、いま「佑樹おつかれさん」という雰囲気を作ってくれているんだと思います。そういう意味では頑張ったなと。ぼくの勝手な思いだったんですけど、佑樹はすごく理解もしてくれました。
だけど本当はエースにしようとしたんですよ、ぼくは。そういう責任もある。そこは諦めたわけでは絶対ないです。
――栗山監督ご自身が『野球の神様』に与えられた天命は、いまどんなものだと考えていますか?ファイターズの監督という立場でそれを全うできましたか?
いまここにいらっしゃる記者の皆さんの世代だと、ぼくの全然ダメだった現役時代とかダメな終わり方がイメージできないと思うんですけど、まずはああいう選手がこの歳までユニフォームを着させてもらう、監督をやらせてもらうというのは普通ありえない。そのことは自分が一番分かってます。
なにか「野球の神様がやれ」と言っている意味があるんだと思ってやってきたつもりですけど、自分がやったことに関してはちょっと分からないですね。いつも、野球に対してお前がいまやらなきゃいけないことが常にあるからねと言われ続けている感じはすごくあったので、それを一生懸命やろうと思いました。
自分がやろうとしてできたことは10年間でひとつしかなくて。何かっていうと今でも忘れないですけど、2011年11月11日、人生で一番緊張した日、監督になって当時いたファイターズの選手全員に監督になってあいさつしました。1人1人全員と話をしました。
その時に自分ができることをいくつか決めました。それから最終戦まで『すべての試合に元気な姿でメンバー交換に行けた』。試合から離れなかった。絶対に指揮官は離れちゃいけないと思っていました。まず元気で試合に向かうというのは最低限の約束事でした。それだけはできたと思います。でも、あとはすべてできなかったですね(笑)。なので、さっき言った「すいません」という感じです。
――栗山監督には『夢』という言葉が一番お似合いだと思っています。ユニフォームを脱いだ監督のいまの夢は?
このチームが世界一のチームになるといってきたのに、ここ何年か苦しんできました。でも2023年には新球場になります。僕が元気なうちにファイターズが日本一、世界一のチームになってくれるのが、ぼくにとっての一番の夢。プレッシャーかけますけど、選手、新監督、新スタッフ、よろしくお願いいたします。
――10年間、いつでもあたたかく後押ししてくれた北海道のファンは、栗山監督にとってどんな存在でしたか?
本当に「すいません」という思いしかないです。これだけ愛情を持って応援してもらっていることは肌で感じていたので、それだけにお応えできない悔しさとか申し訳なさとか、それしかないですね。ただ必死になって選手達と一緒に、なんとかファイターズらしさを出すぞと思ってやっていたんですけど。
感謝してもしきれません。だからこれから違う形でできることはしっかりやっていかなきゃなと。それは言葉でありがとうございましたということではなくて、北海道に対して自分がどういう恩返しができるのか、しっかり考えてやっていきます。
――新庄剛志・新監督の就任が発表されました。新庄監督への期待、そして新庄監督とともにさらに前に進むファイターズへの期待を教えてください。
野球観を話すとしっかりしてるし、ああいうみんなを喜ばせようという優しさや思いやりをぼくは感じます。それをファンの皆さんも喜んでもらいたいです。先入観にとらわれない野球をやりながら、選手のことを本気で考えて勝たせてくれると思っています。ファンの皆さんと一緒にこれから全力で応援していきたいと思います。
――今後どのようなかたちで野球と関わっていくのか、何か決まっていることなどあれば教えてください。
なにもないですね。『北の旅人』みたいな。そんな感じですね(笑)。北にいて旅人になってふらふらと歩いているうちに、なにか自分がやりたいことや、やらなくちゃいけないことが出てくるかなと思っていますけど、なにも考えていません。
――では、今後も引き続き栗山町にお住まいの予定ですか?
そうですね。もし何かやりたいことがあれば違うほうに行くのかもしれないですけど、見つかるまでは今のところにいるし、いろんなところに行ったとしても、帰ってくるのはあの場所かなと。鳥とかリスとか待っていてくれるかもしれないので(笑)。
――最後に、野球を愛するすべてのファンにメッセージをお願いします。
自分のなかでは1年目のあの必死な感じを、10年間必死になって続けてきたつもりです。ただ自分の能力がなくてここ数年なかなかいい報告ができなかった。選手にも言いましたが「ぼくの能力の無さは本当に勘弁してくれ」と。
誰よりも野球が好きで、野球を愛してみんなと野球を楽しもうと思って。楽しむためには勝たないと楽しくないんで必死になった10年間でした。いろんな意見はあるかもしれないですけど、ただただそれをやらせてもらったことに感謝しています。
これからファイターズは本当に強くなっていくはずだし、2023年に夢のような球場ができて野球を大きく変えてくれるはずです。どう作っていくかというのは、建物とかではなくて魂の部分。北海道の皆さんが魂を持って作って下さるとぼくは信じているので、ぜひその思いを持ってこれからもファイターズのことを応援していただきたいと思います。よろしくお願いします。本当にありがとうございました。