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夜を送る─teto、榊原紘、kemio

tetoというバンドが好きで定期的に聴いている。激しいテンポのメロディに言葉をこれでもかというほど詰め込んでいるのが特徴で、音量を大きくしてイヤホンで聴くと、脳の中が冷たい水で洗い流されたようにスッキリとする。

独り言が多い。ドライブの時や自転車を漕いでいる時、歩いている時、つまり移動の時、頻繁に独り言を言ってしまう。人と会話をした後しばらく経ってから頭の中で「あそこのトーン、怒ってる感じに聞こえたかな」とか「もっとウィットに富んだ返しができたのに」といった考え事をするのが癖になっている。一番多いのは「あの人は何を考えてあんなことを言ったのだろう」という人の動機や思考についての考え事で、その時に頭に浮かんだことが声に出る。車で事故を起こしたくないと思う。ドライブレコーダーには休むことなく喋る音声が記録されている。

ストレスが溜まると自然とイヤホンの音量が上がる。上げるのではなく、勝手に上がる。頭の中を洗いたい。その時に聴くのがtetoで、「蜩」という曲を最初に流す。ちょうど今の季節に合っている。

最初で最後の覚悟で
まだ見ぬ愛を探している
あの蜩のようにあなたもあの日鳴いていた
掠れてく鳴き声で短い蝋を灯していた
夏が終わりゆくように
あなたのことを思い出しています
––「蜩」teto https://youtu.be/v4Hgp1Vvuo8

2番のサビの歌詞をずっと勘違いしていて、「掠れてく鳴き声で短い夜を灯していた」「夏が終わりゆく夜に」だと思っていた。歌詞の勘違いを知った今でも、僕にとってこの歌は夜の歌だ。

クリックで買った映画を暗くした部屋にひからせ夜を送った
––「生前」榊原紘

榊原紘の短歌を読んでいるとtetoを思い出す。tetoの楽曲を聴いていると榊原紘を思い出す。この短歌とtetoの蜩は「夜」で繋がっていて、何度も何度も循環するうちにいつの間にかこの二者を繋ぐ回路が出来上がった。

多分「夜」以外にも共通点があるのだと思う。例えば「蜩」は、「あの蜩のようにあなたもあの日鳴いていた 掠れてく鳴き声で」と、A音の頭韻が軽妙でかつ力強く、そのまま「夜(蝋)を灯していた」のO音の頭韻がサーブされてくる。それは「クリックで買った映画を暗くした」の撥音とK音の軽妙さから流れてくる「夜を送った」とリンクしているように感じられる。こじつけかもしれない。こじつけだと思う。でも、そういう回路がある。

また、榊原紘の「夜を送る」短歌には、kemioの要素もある。

「やなこと全部、スワイプして消すよ」
––『ウチら棺桶まで永遠のランウェイ』kemio

このスワイプ感。きっと「クリック」して買った映画を見ているところに引っ張られている。「クリック」だから使っているのはパソコンなんだけれど、ネットで買った映画を見るのはタブレットかスマホだという感覚があって、どうしてもこのクリックがタップに勝手に変換される。タブレットを操作する指先が出てくる。スワイプをするように夜がスイスイと送られていく。

『ウチら棺桶まで永遠のランウェイ』というタイトルのランウェイがハイウェイになる。夜のハイウェイを光が流れていく。

「あらゆる速度は墓場へそそぐ」
「ぼくたちにとって速さとは実存なのだ」
––『書を捨てよ、町へ出よう』寺山修司

ずいぶん長いこと墓場へのスピードを競い合っている。軽やかに夜が送られていく。その光には抗えない快楽がある。

本当はみんな記憶の中のこと ドライブレコーダーにハイウェイを見せた
雨月茄子春

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