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明治ハレー彗星狂騒曲 第8話

#創作大賞2024 #オールカテゴリ部門

武三郎は困った。

 突然、ツルからキヨに明日の葵祭の梅原家の手伝いをするようにと言われたが、それをどう伝えようかと悩んでいた。ツルのその言葉は嬉しかったものの、それをどうキヨに伝えるのか?そう考えながらも脚はミヤビに向いていた。気が付くと店の入り口に立っており、武三郎は仕方なく店のガラス戸を開けた。

「いらっしゃいませ……あっ、武三郎さん」
 店に入ってきた武三郎を見ると、キヨは一瞬気遣うような顔を見せ、武三郎に近づいた。
「武三郎さん。お兄さんは見つかりましたか?」と、心配そうに声をかけてきた。
 それもそのはずで、確かにさっき午前中はキヨに武二兄が行方不明で、明日の葵祭には行けないと言ったばかりだった。しかしその時、店にいた平岡の話しによれば、武二と朝早く京都駅で会ったという。その話しを聞きこの店を飛び出したのが数時間前だ。心配するのは当たり前だろう。
「え、ええ。武二兄さんは無事でした。お騒がせしてしもうて堪忍」
 武三郎はキヨに頭を下げ、テーブルに着いた。
 キヨも安心したようで、さっきの心配そうな顔から、一安心という顔になった。
「でも、明日の葵祭は……」
 武三郎がそこまで言うと
「そのことは気にしないで下さい。色々ご都合があるでしょうから」
「い、いや。それがその。どう言ったら良いのか……」
 どこから話しをすれば良いのか悩んでいた。
「そうですよね。お兄さんが見つかったと言っても、今日の明日ですから、祭り見物という訳にも参りませんよね」
 少し残念そうにキヨは言った。
「い、いやそうやなくて……明日はうちに来て欲しいんです」
 武三郎は慌てるように言った。
「うちって……武三郎さんの家と言うことですか?」
「は、はい」
 武三郎は全て正直に話すことにした。
 武二の行方不明の原因は、東京でかつての恋人と会ってその人の世話をしていた言うこと。そしてその人には武二の子供を宿している、つまり夫婦になるのではないかと言うこと。そしてそれを察してツルが、明日の葵祭では、色々お客様を呼ぶので梅原家の食事の準備などを手伝宇ように言ったこと。そしてそれにはキヨも連れてくるように武三郎に言ったこと。それらを順を追って彼女に説明した。
 キヨはその話しを聞いて
「そんな、わたしなんかが家にお邪魔しても……」少し困惑したようだ。
 キヨの気持ちとしては、先日会ったばかりのツルが自分の事を覚えていてくれて、そして武三郎の事を慕っていると察してくれたのは嬉しかった。しかし、とりあえずでも家の中に入ると言うことは、武三郎と夫婦になることを前提としているのではないか?自分は武三郎より年上で、それも出戻りである。そんな事はツルは知らないだろう。もしそれをツルや梅原の人たちが知ったらどう思うだろうか?そう思うと不安で返事が出来なかった。 
 キヨが困惑している表情を見て、さすがの気が付かない武三郎も何となくキヨの気持ちを察していた。するとそこへ、
「行ったらええやん。行って家の手伝いをするんやろ。そしたらお駄賃だちんがもらえるやろ」
 キヨに後ろで聞き耳を立てていたのか、そう言ってきたのは、女将の白木松子だった。
「女将さん」
 キヨは、松子がいきなり後ろから話し掛けて来たので驚いた。
「せやかてそうやろ。女中するんならお駄賃をもらわなあかんやろ。梅原の人もお祭りで忙しんや。手伝ってお駄賃をもらい」
 松子はキヨのやや後ろから話しているため、武三郎からは松子の顔は見えるが、キヨは振り向かないと松子の表情は見えない。松子は必死に武三郎に目で合図を送った。しかしそこは勘の悪い武三郎である。
「お駄賃って言うても……」
 武三郎がなかなか気付いて貰えない松子は、更に目で合図を送った。
 すると武三郎は
「女将さん。目にゴミでも入ったんですか?」と聞く始末だった。
 さすがにその言葉に閉口した松子だったが、
「ええから。明日はその葵祭やさかい、うちの店も休みや。キヨもよその家で手伝うて稼いだらええ」
 半分説得させるような形で松子に言われたため、キヨ仕方ないような顔をして武三郎に向かって言った。
「そしたらとりあえずお手伝いだけと言うことでお願いします。たぶん明日だけになるかと思いますが」と言った。
 武三郎はキヨが、とりあえず明日はうちの手伝いをしてくれると言うことで嬉しく思い安心した。
 そしてふと松子の顔を見ると渋そうな顔をしており、声は出さないが口を大きく開けて
「あ・ん・た・に・ぶ・い・な」と言っていた。
 そんな松子を見ても武三郎は(お給金はどないしよ)と思うのだった。

 翌日の十五日は朝から賑やかだった。
 キヨは梅原家の台所に入ったものの、さすがに緊張している様子だった。ツルとは一回会って面識があるもののほとんど初対面のようなものだ。さらに登志子などは全くの初対面だった。だが、そこはさすがにツルだった。料理の段取りももちろんだが、キヨにも的確な指示を出し、また登志子についてもお腹の子に触らないような仕事をテキパキと与えた。そして何よりも、気を遣うことのないぐらいの忙しさだった。おこわを蒸したり、鯛の煮付けや鯖の寿司。ふきの味噌汁に海老のフライなど色々な料理が作られた。また、家の者以外のお客様も十数名来るようで、家の者を含めると二十数名の料理を作りをしなければならない。親戚や知人のなどは葵祭の行列を見終えると梅原の家に来るため、それまでが彼女らの勝負であった。
 登志子はこのような事は初めてらしく最初は戸惑っていたが次第に慣れると意外にテキパキと仕事をするようになった。またキヨは、前に嫁いだ家でもこのようなことはあったし、また今はミヤビで厨房に入ることもあれば配膳もする。台所の様子がわかると慣れてきた。
 そしてツルは皆の食事のあとに何か軽くつまむもの、今で言うデザートで何か良いものがないだろうかとキヨに相談すると、キヨは
「パンケーキなどいかがでしょうか?」と言った。
 それは登志子もパリで食べたことがあったので二人でツルにそれを教えることもした。
 結局、三人は力を合わせて、この梅原家の宴を成功させ、色々な意味で大成功だった。

 それから四日経ち、五月十九日になった。
 武三郎は寝不足だった。ハリー彗星の現れるのは午前三時ぐらいからなので、ここ二日間はそのハリーを見るために午前二時ぐらいには起きていた。
 ただ、その時間帯に起きていたのは武三郎だけではなかった。多くの人がその時間に起きてハリーの大見学会をしていた。
 ミヤビは吉田山の麓付近にある。キヨの話だと、空が広い吉田山に登ってハリーを見ている人も多いという。朝になると吉田山から帰ってくる人を、店の前で見かけるというのだ。
 そして、今日はいよいよハリー彗星が地球に大接近する。
 いや、もしかしたら接近ではなくてハリーの毒ガスに包まれるかもしれない。人類滅亡なんてあるはずがないと思いながらも、いよいよこの日がやってきたと武三郎は思った。
 梅原紙店では、葵祭の前日から色々あったが、それよりも今日の話題は全てハリーで持ちきりだった。
 奉公人の中には店の電話を借りて、故郷の父母の声を聞こうとする者も現れた。もちろん最後の別れと言うわけではないのだが、それでも万が一の事があるかもしれないので、一応声だけでも聞いておこうという事のようだ。
 あの小助も故郷の実家に電話をしていて、話しの終わりの方は涙声だった。
 騒ぎは店の中だけではなかった。街中がハリーの事で持ちきりだった。
 季節は観光に丁度良い季節だが、普段賑やかな三条や四条の河原町でも観光客の歩く姿が少ないように見えた。
 ある者は寺や神社に参り、家族が京都が、そして人類が無事であるようにと一生懸命祈祷きとうや念仏を唱える者もいた。しかし、それより多かったのはハリーの見物者であった。
 街にはにわか天文家が集い、ハリー彗星の核の部分が今日、太陽面を通過すると言うので、黒くいぶした板ガラスで太陽を見る人の姿が多く見られた。
「今日、ハリーが太陽面を通過するらしい。そしてその尾が地球まで届くような長い尾で、壮大なホウキ星が見えるはずや」
「その尾が地球まで届いたら、人類は滅亡するんと違うか?」
「そんなわけあらへんやろ。それはただの噂や」
 にわか学者となった人々は、空を見上げながら、あれやこれやとそれぞれの議論に花を咲かせた。
「あっ、見えたで。ハリーや、ハリーが見えたで!」
 一人がそう言うと、多くの人がどれどれと黒いガラスをかざしながら太陽を見る。
 しかしそれは太陽の黒点だった、なんてことはしばしばだった。
 ハリー彗星が来る前は様々な噂が飛び交い人々を不安にさせたが、直前になると案外人という者は興味の方が先になるようだ。
 その頃、武三郎はミヤビにいた。
「この前は堪忍でした。うちの手伝いなんかをさせてしもうて。思うてたより忙しかったんで、びっくりしはりませんでしたか?」
「いえ、かまいません。それより楽しかったです。ツルさんも丁寧に料理や段取りを教えてくれはりましたし、登志子さんもパリの話しなど色々うかがいまして」
 キヨはあの日の事を思い出すと本当に楽しそうだった。
「それからお駄賃の事やけど……」
 武三郎がそう言おうとすると
「そんなもの受け取られしません。バチがあたりますよって」とはっきり断った。
「でも……」と言うと
「あれは女将さんがでまかせで言っただけですよ」
 キヨは笑った。
(なんだ。お駄賃の件はでまかせなのか)
 その時やっと武三郎は気付いた。そして
「おおきに。来年の葵祭は、きっと二人であのきらびやかな行列を見られたらええんですね」と言うと
「わたしは、できれば来年の葵祭の日も梅原でご馳走を作ったり、親戚のお客様のお相手などが出来たらと思うております」
 少し恥ずかしそうにキヨは言った。
 それにはさすがの武三郎も
「それはつまり……」
 訊こうと思った時、キヨは
「でも、まだわたしの事をツルさんを始め、お父様やご家族の方には何も言っていないので、もしかしたらそれはないかもしれません」
 キヨは少し淋しそうな顔をした。
「いや、そんなん全然関係ありません。今度会うときは、以前結婚していたことなど全部話して僕たちの事を……」
「僕たちの事を?」
 キヨは聞き返した。武三郎も一瞬戸惑い、これは両思いと言うことで良いんだよなと、自分に言いきかした。そして、ここまで言って話しの勢いを止めることは出来なかった。
「……僕たちの事を許してもらおうかと思っています」
 いつもの武三郎と違い、決意のこもったその言葉に、キヨも嬉しそうに頷いた。
 それにしてもこんなに自由に、この店でキヨと話ができるのが幸福でたまらなかった。 
 今日のミヤビには他に客もなく、ガランとしていて開店休業のようだった。女将さんを始め、ほかの女給達や客は家でひたすらハリーが通り過ぎるのを祈って籠もっているか、或いは昼間にハレー彗星が見えるのではないかと期待して、いぶしガラスで空を見上げているかだ。どちらにせよ、運命の時間をみんなで待っていた。
 先程は先走ってしまい『僕たちのことを……』などと言ってしまったが、きちんとした交際の申し込みなどはまだしていない。ここは自分の胸の内をキヨに打ち明けて、正式に交際をしたい。告白するのは今だ。幸い自分たち以外はこの店には誰もいない。
「あの、キヨさん……」
 と、武三郎が意を決して言おうとした時、
「お昼前の十一時二十分頃ですよね。ハリーが太陽面を通過して、尾っぽが地球を覆うのは?」
 キヨが武三郎に訊ねた。
 武三郎は、さっきまで自分の意を決していたが、キヨの質問にそれを言い損なった。
「ええ……。正確には十一時二十二分です。あと三十分でハリーの尾に覆われるはずやと思います」
「ほんまに大丈夫なんでしょうか?」
「何がです?」
「もしかしてハリーの毒にやられるって事はないですよね。そんな事はないとは思いますけど、だんだん心配になってきました」
 キヨは少し不安げに言った。
 キヨの気持ちは今は、ハリー彗星にあるようだった。
 武三郎はキヨの不安を少しでも和らげようと
「それは大丈夫やと思います」
 武三郎は不安そうなキヨにそう言い切った。 それでも一抹の不安を抱えているキヨに、
「山川先生がハリーに万が一毒があったとしても、それは地球の大気には入り込めない希薄さと言うてはりましたから」
 武三郎がそう言うとキヨは少し安心した顔になった。
 キヨが安心してくれたのはいいが、自分自身の胸の内を言うタイミングを失った武三郎はもう一度、その話しをするようなタイミングを掴もうと、とりあえずまた世間話からし始めた。
「それにしてもこの店はえらい人がいはりませんね。あっちの帝大の方は新聞記者などがぎょうさんいてはるようですが」
 そう言うとキヨは
「今日はうちだけやないんです。よその店もみんなガラガラみたいです。みんな外で空を見上げているか、うちの中でひたすらお経を唱えているかどちらかです。武三郎さんは山川先生の所でハリーの観測をしはらへんのでもいいのですか?」
「山川先生は家にはおられません。なんでも帝大の学者友達の先生の所に行ってはります。その先生はハリーが通過した後に、ハリー彗星についての講演会をされるそうで、そのための観測の手伝いをされているみたいです。この前から数日間も資料をまとめたりして、しばらくは家には帰られませんと言うてはりましたから」
 するとキヨは一応周りを確認して、
「そうですか。新聞記者の平岡さんも忙しんですかね?」
 もしかするとまた平岡がどこかで聞き耳を立てているのではないかと思ったようだ。
「平岡さんは一昨日から神戸に行ってはるみたいです。なんでも帝大の発注したドイツの天体望遠鏡が神戸港に届いて、それの密着取材だそうですわ。望遠鏡はもう帝大には着いている頃やと思います。たぶん今頃はその望遠鏡を観測台に取付中やと思います。せやけど、その望遠鏡口径……つまりレンズの直径が七インチなんやそうですわ。山川先生の話やと七インチの口径なんかでは、ハリー観測では役にたたんそうですけど」
「口径……?七インチ……?」
 キヨは武三郎の口から口径とか七インチとかと言う言葉が出てきたが、それが何のことか判らなかった。
 そんな不思議そうなキヨの表情を見て、武三郎は少し望遠鏡の説明をした。
「堪忍。インチって言うのは長さの単位です。直径七インチっていうたら……ほらこの皿ぐらいの直径です」
 武三郎は、さっきまでパンの置いてあった小皿を持ってその大きさを説明した。七インチとはおよそ十八センチ近い長さである。
「およそ直径が六寸ぐらいのレンズやということです」
「レンズの大きさの事を口径って言って、それが大きいと彗星が良く見えるんですか?」
「簡単に言えばそういうことです。もう一つ言えば、望遠鏡には倍率というものがあって倍率を上げれば、星が良く見えるのですが、口径が小さいと像がぼやけてしまうんです。なのでいくら倍率を上げても口径が小さいと使い物にならんのです」
「武三郎さんは博識ですね」
 キヨに褒められると、武三郎は少し照れてしまった。そして自分の趣味でもある天体観測の事をキヨに説明するのが嬉しかった。
「でも、その望遠鏡の口径が七インチでは役に立たないって……そんなお役にたたんような望遠鏡をどうして?」
「まあ、お金を出すのはお役人やさかい。役に立つかどうかと言うことより、望遠鏡を導入したという実績を優先させたんやろうと思います。戦争でロシアに勝ったとはいえ、文化や学術ではまだまだ日本は一等国とは言えませんから、学術の面でも早く一等国の仲間入りをしたいのではないかと思います」
 珍しく誰もいない店内で、キヨはお盆を抱えたまま武三郎の対面の椅子に座り、その話しを楽しそうに聞いていた。
 すると武三郎は思い出したように、
「そう言えばさっきここに来る途中、いぶしガラスを売っとった人がいてはりましたわ。でも、その人はこの前まで、ハリーの毒除けの薬みたいなものや、毒ガスを吸わんでも息ができるゴムチューブなんかを売ってはった人なんです。ああいう人を商魂たくましい人って言うんかなぁ。どう思います?」
 武三郎はミヤビに来る途中、岸が黒くいぶした板ガラスを売っているのを見た。先日まで人類が滅亡するかもしれんと不安を煽るだけ煽り立てて、ゴムチューブや怪しげなゼムとか言うものを売っていたくせに、今度はハリー観測用のいぶし板ガラスを売るとは。武三郎は呆れるを通り越して感心していた。半面、そう言う人をキヨはどう思うのだろうかと聞きたくなった。
「そうですね。人の不安につけ込んで商売するのはあまり感心はしません。せやけど、きれい事だけでは世間は渡って行かれへんと思います。だから、そのたくましさは見習いたいと思います」
 武三郎としては意外な答えだった。この問いにはキヨは当然『そんな人は絶対許せません』と言うはずだと思っていた。しかし、返ってきた答えは全てを否定するものではなく、一部は認めるものだった。
「たくましさを見習う……ですか?」
 武三郎はもう一度訊いてみた。
「ええ。でもその商売方法を褒めているわけではありません。ただ、生き抜く知恵って言うか、そう言ったものは見習わなければと思います」
 それは今まで色々苦労してきたキヨだからそう言えるのかもしれない。裕福な商家に生まれ、二人の兄に守られながら商いをしている武三郎の人生観とは違うのだ。
「そうですか……確かにあの人はたくましいですわ」
「あの人?」
「いえ、ちょっと知り合いの人ですねん」
 武三郎はそういうと、もう一度岸のことを思い返してみた。
 それは、きれい事だけでは、商売の世界を渡っては行けんとキヨが自分に知らせてくれているのではないかと思った。確かに武三郎が経験した以上の人生経験を持っているキヨとしては、当然の答えだったかもしれない。

 そんな話しをしていても、じわじわと運命の時間は近づいてきた。武三郎もキヨも人類がハリーの毒でやられるとは本気で思ってはいなかったが、ハリーの尾が地球を包み込む時間が近づくに連れて、やや緊張してきた。
 しかし二人はあまりにも話しに夢中になっていて、運命の時間が過ぎたのを気付かなかった。キヨがふと店の柱時計を見ると、運命の十一時二十二分を十分も過ぎていた。
「あら、もうこんな時間です。でも息苦しないわ。ハリーはもう通り過ぎましたんか?」
 外では男二人が楽しそうな会話をしているのか、笑いながら歩いて行くのが見えた。
(あの人たちは体調が悪くないようだ)
 それを見て武三郎はそう思った。
 あの時、ハリー彗星と間違えて大彗星の事を山川先生に走って報告した夜。(人類が滅ぶかもしれないその日はキヨと一緒にいたい)と思った事を思い出した。そして現実にそうなった。しかし人類滅亡の兆しは微塵(みじん)も感じられなかった。それで良かった。これからの人生はまだまだ長い。キヨといつまでも一緒にいたいと思った。
「どうですやろ。ハリーは太陽面は通過して、尾を地球までなびかせているはずやけど、それはものすごく希薄なガスだから予測がつかへんらしいです。でも、何事もないみたいです。外はええ天気だし、ちょっと外に出てみますわ」
「武三郎さん。外へ出ても大丈夫ですか?」
 キヨがそう言った時には、武三郎は既にドアを開け外に出ていた。
 外に出てみると、初夏の爽やかな風と柔らかな暖かさが武三郎を包んだ。武三郎は大きく背伸びをして深呼吸をした。
「ええ気持です。キヨさんも外へ出られませんか」
 心配そうに店の中で様子を伺っていたキヨは、武三郎のその声に誘われて外に出た。
 恐る恐る外に出たキヨだったが、すぐに何もないと判ると、武三郎と同じように爽やかな空気をいっぱい吸った。
「本当。気持ちがええです」
 武三郎は澄んだ青い空を見つめた。
「結局、ハリー彗星は何もなかったみたいですね」
 日中そこから見る天空は、ハレー彗星の尾のようなものは全く見えなかった。
「そうですね。ほんまに人騒がせやわ」
「でも、うちでは色々ありましたけど」
「ハリーは、それも含めてみんな宇宙の果てに持って行ってくれはったんですね」
「ええ。そうかもしれません」
 武三郎はそれからしばらくミヤビにいたが、ハリーの影響はどこにも現れなかった。

第9話 明治ハレー彗星狂騒曲 第9話|Akino雨月 (note.com)


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