明治ハレー彗星狂騒曲 第9話
とりあえず何もおこらないことが判ると、武三郎はキヨに「もう安心です」と言った。
キヨも安心した顔でその言葉に頷いた。
武三郎も、そもそも何も起こらないだろうとは思っていたが、それでも一抹あった不安がなくなり軽い足取りで家路につこうとした。
するとキヨは、今日はお店には誰も来ないようなので、今日はもう店じまいをして、買い出しついでにそこまで武三郎を送ると言った。キヨも武三郎といつまでも一緒にいたかったのだ。
武三郎は快く返事をして、二人は店の戸締まりをして一緒に店を出た。
しばらく歩くと、岸がさっきまで街頭販売をしていた所に、まだいるのが見えた。
さっき、その前を通り過ぎた時には、岸が黒くいぶしたガラス板を風呂敷の上に広げており、お客が大勢いたせいで、武三郎には気が付かなかったようだ。しかし今は人だかりもなく、岸からは通る人々が丸見えだ。岸に気付かれたくない武三郎は、彼の近くを通るとき自分の羽織の袖で顔を隠しながら、早歩きで通り過ぎようとした。
岸は店じまいをしているらしく、僅かに残ったいぶしガラスの板などを片付けていた。しかし、
「よう、武三郎」と、岸に声を掛けられてしまった。
知らない顔をしてそこを通り過ぎようと思った武三郎だったが、どうやらそうは行かなかったようだ。
「岸先輩。そこにおられたんですか。あれ?もう店じまいですか?」
武三郎はまるで岸がいた事を,今初めて気が付いたように言った。
岸は相変わらず人懐こい笑顔で
「おおそうや。ハリーはもう行ってしもたからな。この商売は終わりや。それよりお前がこんな綺麗な娘さんと一緒に歩いているなんて珍しいらしいやないか?」
多分そう言われるだろうと思ったが、案の定その通りとなった。
「いや、これはちょっとした知り合いで、さっきそこで会ったばかりなんです」
さっき会ったばかりの人とは当然思えないとばかりに岸は二人を見ていた。
するとキヨが、
「武三郎さんのお知り合いの方ですか?」
と小声で言った。武三郎も小声で
「さっき言った『商魂たくましい人』です」と返した。
キヨはすぐにわかったららしく、岸に向かって頭を下げた。岸もそれに合わせるようにして笑顔で頭を下げた。
「へぇ。武三郎がねぇ」などと,岸は感心したようだった。
そんな話しをしている時、岸に声を掛ける男がいた。それは皮肉たっぷりのようにこう言った。
「あんた、昨日までは人の不安を煽ってまがい物を売っていたクセに、今日になるとその不安を煽っていた彗星を観測しましょうっていうものを売ろうちゅうのかい。えらい商売やの」
その痩せた男は、岸に向かって威勢良く息をまいてみせた。年の頃は岸より少し上だろうか?
「なんですの?またあんたですか。人が何を売ろうが勝手でしょ。あっちへ行って下さいな」
岸は面倒くさそうにその男を適当にあしらった。それでもその男は岸に恨みでもあるのか執拗に文句を言っていた。
「俺はあんたの不安を煽る言葉を信じて、ゴムチューブをずっと先の街まで買いに行ったんやで。あほくさい」
などと、ブツブツ岸に文句を言っていた。
「確かあの男は……」
それはキヨの前の夫、末雄だった。
武三郎はその男が、あの末雄と気付いた時、キヨもすぐに気が付いたらしく、武三郎とキヨは顔を見合わせ、すぐにその場を立ち去ろうとした。
しかし、その男はすぐに武三郎やキヨに気付いたようでこちらの方をギロっと見た。そしてその男は何か獲物を見つけたような顔をして近づいてきた。
「お前、またこの男と一緒かいな。なんかどこかのボンボンのような男やの。こいつは金でも持っているんか?」
キヨにも皮肉のような言葉を吐く傍ら、その男は武三郎を舐めるように見た。
するとキヨは毅然とした態度で、
「もうあなたとは関係ありません。武三郎さん早く行きましょ」と言った。
しかしその男は執拗に
「ええやないか。二回も会うっちゅうことは俺らには切れん緣があるちゅう事や。え?もしかしてその男に、まだわしがお前の旦那だったという事を言うとらんのか?そりゃあかんな」
その棘がある言葉に、さすがの武三郎も|苛ついた。
「なんなんですか?さっきからあなたは」
武三郎がそう言うと
「上品な言い方やな。その女はそんな上品な女とは違うで」
その言葉に武三郎はもう一回ガツンと言おう思ったその時
「もうええ加減しいや!」
と、岸が怒鳴った。しかしその言葉にも動じず
「あんたみたいなまがい物を売るような人間に言われる筋合いはないわ」
そう言われた岸はその男の胸ぐらを掴んだ。その男は威勢の良いものの小柄で痩せていて、それに対して岸は大柄の男だ。その男は胸ぐらを引っ張られ、つま先で立っているような状態になった。するとさすがにその男は、
「ちょ、ちょっと待ってくれ。暴力はあかん」と言った。
その状況に武三郎は
「岸さん、やっぱり暴力はあかんです」
と、割って入った。
「ええやろこのぐらい。まだ殴ってもおらんし、締め上げているだけや。それにこの男、その女の人にも失礼やろ」と、岸はチラッとキヨを見た。
「それでもこう言うのは良くないです」
と武三郎はなんとか岸をなだめようとした。するとその男は手を首元にやって苦しそうに
「ええやろ。別に前の嫁に声をかけるぐらい」と言った。
「前の嫁……?」
岸は締め上げていた首を緩め、腕を降ろした。すると末雄は「ふぅー」と一息ついた。
岸はそうなのかと言う顔で武三郎を見た。
すると武三郎は岸の表情に「そのようです」と答えた。
末雄は武三郎の方を見て、
「そちらの坊ちゃんはキヨの前の旦那がこんなので驚いたようやの。でもキヨには俺のような男の方が似合うんやで」
岸の腕からやっと解放されたくせに、まだその男は威勢が良かった。
「もうやめて下さい。そんなバカな事ばかり言うて。そんなんやから、そんなんやから……」とキヨは泣きそうな顔をした。
「キヨさん……」
武三郎がキヨを気遣うと、
「堪忍。武三郎さん。わたしのせいで嫌な思いをさせてしまって」
キヨは武三郎に詫びるように言った。しかし、武三郎は、そんな事は気にしなくてもいいとなだめた。
すると末雄が
「なんやそう言われると、わいが悪もんみたいやないか。そもそもその男は誰や。お前、出戻りの上にその年になって、またええとこのボンボンを捕まえたんか」
末雄の恨み節なのかなんなのか。彼はキヨに皮肉たっぷりに言った。
その言葉に、側にいた岸は苛立ちを隠せず、
「なんやお前。もう別れた女やろ。いつまで未練がましくいつまでブツブツ言うとるんや!」
そう一喝すると、末雄は一瞬ビクッととなり押し黙った。
その隙に岸は武三郎たちに言った。
「ええからもう行き。この男はわしの方でなんとかするさかい」と言った。
キヨは岸の言葉をありがたく思ったようで、武三郎と早くこの場を立ち去ろうとしたが、武三郎は動こうとはしなかった。
「武三郎さん、行きましょ」
キヨがそう言ったが、武三郎はいきなり現れたこの男が、どうにもキヨの前の旦那と言うことが信じられなかった。この男の言動もなりふりも全てが不快であり、ここを早く立ち去りたい気持ちがあったが、この男は昔のキヨの事を知っている。自分が知らないキヨの事を知っている。そう思うと簡単に立ち去るわけにも行かなかった。しかし、昔のキヨの事を知ってどうすると言うのか?今の、このままのキヨのことが好きになったのではないかと、もう一人の自分が言っている。もし、あの男が言うようにキヨが昔、自分が思うような人でなかったらと、ほんの僅かだが考えたりもした。いやそんなはずはない。あの男のでまかせだ。武三郎は無意識に首を振り、末雄という男を睨みつけた。武三郎の顔は紅潮していた。しかしそれはいつものように恥ずかしくて赤くなるのではなくて、何か怒りに満ちているようだった。
その武三郎は、末雄に一歩近づくと
「キヨさんにはもう話しかけんで下さい。キヨさんはあなたのような人とは関わりたくないんです」
その言葉はいつもの武三郎とは違っていた。
すると末雄はその武三郎を睨みつけ、
「なんやお前。女の前やからといって、格好つけてんのか」
相変わらず末雄は威勢良く言い放った。そして付け加えて
「だいたいお前はキヨの何や。お前なんかよりうちの方がキヨのことをよう知っているんだ。身体の隅々までみんな知っとる」
嫌らしそうな笑顔を浮かべて言った。
そんな言葉を無視したように武三郎は
「僕は、キヨさんの婚約者です。さっき婚約したばかりです」とはっきりと言った。
しかし末雄はそんな言葉にも「フン」と鼻で笑い、
「何?婚約者?そ、それがどうしたん。お前そんな出戻りの年増を貰うて嬉しいんかい」
と嘲るように言った。
「そう言うあなただって、キヨさんに未練たっぷりじゃないですか?」
武三郎は言い返した。しかし末雄は、
「うちは未練なんかあらへんわ。第一そんな女なんかいらんわ。今、ここで会うたからちょっと話しかけただけや。あ~あ、時間の無駄遣いだったわ」と、吐き捨てるように言った。続いて
「それと、こんな怪しいもん売っている奴やつの仲間やし、別れて正解やったわ」
末雄は横目で岸を見ながらそう言って、そそくさとその場を離れた。
「堪忍、武三郎さん。なんか嫌な思いさせてしもうて。それとそこの武三郎さんの先輩の……」
「岸です」
「あ、岸さんも。ほんまに堪忍です。あの人も前はあれほど酷くなかったのですが、風の噂によると、わたしと別れた後に結婚した人ともしばらくしてから別れてしまったようです。その上あの人は二男坊なんですが家業の薬屋の仕事も怠けがちで、奉公人の手前あの人は実家の店も追い出されたようです。その為ずいぶん荒んだ生活をしていると聞いておりましたが、あんな風になっているだとは知りませんでした」
キヨは前の夫に少し哀れみを感じているのか淋しそうに話した。
すると岸は
「そうかぁ。だったらわしの使いっ走りにでも使ってやれば良かったかもな。奴は人生の目標を失っているだけかもしれんな」
岸は何か思うところがあるのか、遠い目で末雄が歩いて離れていく姿を見ていた。しかしその目はすぐに武三郎の方に向かい、
「ところで武三郎。お前いつ婚約したんや。そんなめでたいこと、どうしてわしに言わんかったんや」
すると、やっと紅潮から冷めたばかりの武三郎だったが、その顔は再び真っ赤になり、今度は耳まで真っ赤になった。
「い、いや。それは……堪忍。ほんまに堪忍です。キヨさんもほんまに堪忍してや。僕はあの時は口からでまかせで。あの男を追い払いたいばかりに適当な事を言ってしまって……ほんまに堪忍です」
武三郎は平謝りだった。そしてその武三郎の言葉に、岸は首を傾げながら
「なんや、口からでまかせなんか?わしにはそうは思えんかったけどな」
武三郎は岸に頭を下げ、そしてキヨにも頭を下げた。しかし、頭を下げられたキヨは
「でも、少し嬉しかったです。あんな風にはっきり言われて……でも口からでまかせと言われるとちょっと残念な気持ちですけど」
言われた武三郎は、キヨの言葉がすぐには理解できずポカンとしていた。
「相変わらず勘の悪い男よのう。もう少しキヨさんに気を使こうたれや」
そう言われてやっとキヨの言うことを理解した武三郎だったが、今度は照れてしまって何も言えなくなってしまった。
岸はキヨに向かって言った。
「武三郎はこんな男ですが、長い目で見てやって下さい。ええ奴なんで」
するとキヨは
「はい。承知しております」と優しい笑顔で言った。
岸は、先程片付けかけていた品物を再び片付け始めた。
「岸さん、これからどうされるんですか?」
と武三郎は訊いた。
「そうやな。なんか次の商売を考えなあかんわ。どうするかはまだ考えてへんけど、ハリーのおかげで何とか資金もできたよって、ゆっくり考えるわ」
「そうですか」
武三郎は岸の姿を見て、商売方法は違うものの岸と武雄はどことなく似ているのではないかと思った。
「武三郎。どないしてん。ボーッとして」
「いや、なんでもありません」
武三郎はさっきミヤビでキヨの言った(そのたくましさを見習わないと……)と言う言葉を思い出していた。
しばらくして、岸が思いついたように言った。
「そや、武三郎。お前んの所の店を見学させてもろてええか?」
「うち……ですか?」
「そうや。今、急成長している梅原紙店を見させてくれや。わしの次の商売の参考にしたいんや」
「別にかまいませんけど。参考になるかどうか分かりませんよ。なんもあらへんですから」
何もないどころか、今は武二の件でゴタゴタしている最中だ。表向きは普通に仕事をしているので他人にはわからないかも知れないが、今はとても人様に参考にして貰うような状況ではない。
「それでええんや。何もあらへんと言うやつが一番凄いことしてるかもしれへんしな。どういう経営方針かお兄さんと話しが出来たらええんやけどな」
武三郎とキヨは顔を見合わせた。今はとても武雄に話しを訊けるような感じではないだろうと思ったからだ。
「キヨさんも武三郎の所に行くつもりやったんやろ?」
「いえ、わたしは買い物の途中でして」
「そうか。でもキヨさんを一人にしておくわけにもいかんしな。さっきの奴がまだそこらへんにいるかもしれんからな」
話し合いの結果、とりあえず三人で梅原紙店へ行くことになった。
キヨは先日のお礼をツルにしたいし、今日はもう店終いしたので、買い物は別に急がなくてもいいと言うことだった。
しばらくして、岸は商品の入っているカバンを持ち上げると
「ほな、行こか」と言った。
武三郎はあまり気乗りしなかったが、先程岸に世話になったこともあり、仕方なく店まで連れて行き案内する事にした。
「武三郎はわしが梅原の店を見学するのはあまり気乗りせんのか?」
歩きながら、武三郎の足取りが重いのを岸は察していた。
「いや、そないな事はないのですが・・・・・・」
と武三郎は言ったが、やがて簡単に次兄の武二の事を話した。まだ、家ではゴタゴタが続いており、あまり人様に内情をお見せするような状況ではないと。しかし、梅原が東京進出する事がその引き金となったことは話さなかった。
「なんやそんな事か」
「そんな事って……今、うちでは大変な事になっているんです」
武三郎は岸に反論した。
「そうなんか?そういう事はどこの家でもあるもんや」
「どこの家でもですか?」
「いや、全く同じ事があるわけではないが、似たような話は世間一般にはよくある話しや」
自分が若干世間知らず自覚している武三郎は、そんなものかと思った。
「でも、武三郎にはないんか?その自分でやりたいことは」
「自分でやりたいことですか?」
「武二さんは画家になりたいんやろ。一番上のお兄さんは梅原紙店を大店にしたいんやろ。武三郎はどうや?一番上のお兄さんの手伝いだけでええのか?」
確かにそんな事を思わない事もなかった。しかしこれと言って特にやりたいと思うこともなかった。
「武三郎やて、キヨさんと所帯を持ちたいんやろ」
そんなにストレートに言われると、また武三郎の顔は真っ赤になった。隣で歩いていたキヨも少し恥ずかしそうだった。(なんでこの人ははっきりものを言うのだろうか。もう少し気を遣ってほしいものだ)と武三郎は思ったが、確かに岸の言うとおりだと思った。
「はい。まあそうですが」
「確かに生活の為だけなら今の店の手伝いでもでも構わないと思うが、男ならなんか一つ大きな事をしたいと思わんか。わしならそう思うで。ただ、なかなか上手くいかないがな」
そういうと岸は大声で笑った。
岸はやや粗暴な所があって、武三郎は必ずしも岸が好きではなかった。ただどういうわけかいつも武三郎のことを気にかけてくれ、その上この男には人を引きつける何かを持っているような気がしていた。そしてこの男と話す度に武三郎は自分には何が欠けているのかを考えさせられた。
川端通りを上り、出町橋を渡ると梅原紙店についた。岸は店の前に立ち止まり、庇の部分にある大きな木枠の看板を見上げて、
「ここが梅原紙店か」と呟くように言った。
「そんな。大したことないですよ。店はまだ古いままやし。看板も古めかしいでしょ」
「そんな事あらへんがな。なんかこう威厳があるっちゅうか歴史があるちゅうか」
「おおきに」
武三郎は軽く礼を言って、岸を店の中へ案内した。
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