語学の濃淡
これは去年の今頃書いた雑文ですが、
我ながらええこと書いてる…(と思います)。
私の身の回りは、いろんな言語に囲まれています。
トルコ語が生業の現在ですが、それに関係する書籍はもちろんのこと、気がつけば言語的・地理的「お隣」のアゼルバイジャン語は当然として、先日多数いただいたウイグル語、ウズベク語関係の書籍にその他テュルク諸語、あとは語学としてやりかけになっているもののエスペラント、ペルシア語、ロシア語等の各種語学教材。仮にですが今突然自分がこの世から姿を消してしまったなら、蔵書の処分に来る方は自分のある意味での節操のなさにあきれる可能性もなくはないかもしれませんね…。
まあしかし、このような多言語に囲まれる生活を送る人々は、私自身が知る限りにおいても一定数いるはずです。そういった人々の中には実際に多くの言語を使いこなす超人的な能力をお持ちの方もきっといらっしゃるでしょう。が、少なくとも私に「この言語、すべて読めるのですか」とお尋ねになるなどという無粋なことはどうかなさらないでいただきたいと願う所存です。
もはや、読めるかどうかなどは問題ではないという領域に私は足を踏み入れてしまっているのです。その最たる例はLPPの蒐集でありますし、語学書として所有しているトルコの周辺地域の言語の本もまた、その気になればいつでも勉強したり参照したりできる状態にあるということのほうが今の自分にとっては重要です。
かつて、こういうことをツイートしたことがあります。
このツイートの対象は語学書に限っているわけでもないのですが、語学書もまた当然この対象に含まれます。これにさらに何種類か別のタイプの本もあるよ、と当時はコメントをいただいたことでしたが、まあともかく、読むためではなくて「ただ単にほしかったから買う」本という存在が上記の中では一番業が深い。ただ単にほしかったから買った最新の語学書はですね…
動機も弱くて、近所にインドネシアからいわゆる技能実習生としていらした若い人たちがいるもので、わずかな内容のことでもインドネシア語で話しかける機会があったら喜んでくれるのではないかとか、その程度のものなのです。そんなわけで今のところ、まだページも開いていないありさまですし今後まとまった時間をインドネシア語にかける予定もまったく立ってはいないのですが、ともあれ自分の中では、冒頭のタイトルのように語学に濃淡が存在しています。
最も濃いのがトルコ語、次がアゼルバイジャン語…ロシア語はやや薄く(かなり薄い)、最も薄いのがインドネシア語。実際まだ手を付けていないので薄いどころじゃないの(というか、ほぼ真っ白)ですが、いいのです。
本棚にそれがあることに意義があるのですから。ああ、そういえばインドネシア語版のLPPでしょ?もちろん入手しましたがな。
ひょっとしたら、このインドネシア語を見たときになんだこの文法?みたいなことになるかもしれませんわな。その時のために、白水社のニューエク1冊持っていても損はしないと思うんですよ…
ああ、ひょっとして自分が貯金できない理由ってこういうk
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