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「トルコ語がわかれば、他のテュルク諸語もわかる」説はどこまで本当なのか?

かつて白水社から発売されていた、『エクスプレス トルコ語』(大島直政著、1988年。のちに2004年に『CDエクスプレス トルコ語』)の「まえがき」は、次のような文章で始まっています。

 “トルコ語はアジアの西端とヨーロッパの東端を領土とするトルコ共和国(人口約5000万)の言語だけではありません。ソ連の中央アジアの諸共和国、ウズベック、キルギス、トルクメンなどの住民の大半はトルコ系の人々で、中国のウイグル自治区のウイグル人の言語もトルコ語です。中央アジアの別名をトルキスタンといいますが、これは中世トルコ語で《トルコ人の土地》という意味です。中央アジアがトルコ化されたのは、10世紀の半ばだというのが歴史学者の定説です。そして、今も中央アジアにはトルコ系の人々がソ連や中国にとっては《少数民族》でも、現地では《多数民族》として暮らしています。
 つまり、トルコ語は《シルクロードの国際語》であり、方言の違いも大きくはなく、話し手が合計1億人近い世界でも有力な言語なのです。…”

大島直政 (1988; 2004)『エクスプレス トルコ語』東京:白水社.p3.

なんもかんも「トルコ語」じゃあないんだよォ!!

大島氏は故人であり、また当時は今ほど(今もどうだか、という話はありますがそれもおいといて)認知度も人気も高くなかったであろうトルコ語学習のメリットということで、意識的に「風呂敷を大きく」して書かれたのであろうということも考慮して評価すべきではありましょう。

もっとも、果たしてその書き方をしたことで購読者が増えたのかどうかは不明ですが。
ただし冒頭の一文、「トルコ語は…(中略)トルコ共和国の言語だけではありません」という文は妥当であると言えます。ドイツをはじめとするヨーロッパ諸国には数多くのトルコ語話者コミュニティが認められますし、アメリカ、日本にもトルコ語話者がすでに定住しています。言語と言語話者のいる国とは一致しないのが常、とも言えます。

しかしそれらの事情、また「トルコ語」の定義の仕方次第の部分もあるとはいえ、厳密にはツッコミどころ満載ではあります。

そもそも、大島氏のいう中央アジア諸国で話されている言語を「トルコ語」と呼んでしまうこと自体が大変危険をはらんでいるということを指摘できます。

彼らの言語には、固有の名称がある。このことはすでにご存知のみなさんも多いでしょう。トルクメン語、カザフ語、ウズベク語、キルギス語、ウイグル語…etc.

それぞれに特徴があり、トルコ語と文法・語彙の両面で異なる部分も数多く指摘できます。

全てを「トルコ語」と呼んでしまうことで、呼んだ本人の意図がどうあれ、これら諸言語の個性を結果的に否定してしまう可能性があるということはどれだけ注意しておいても損はないでしょう。

今この記事を書いている私自身は(時機的に幸か不幸か)アゼルバイジャンの首都、バクーに滞在中なのですが、今現在外に出て人々と話すときはトルコ語を話しているという感覚はまったくありません。できる限り、アゼルバイジャン語を使って意思疎通を図ろうとしています。

困ったらトルコ語に切り替えてみて、相手が理解してくれたら幸運、という状況なのです。

個人的感覚ですが、アゼルバイジャン語話者は、同時にトルコ語を理解できる人が多いのです。ところが、ではトルコで同じ状況かというとそうならないというのが世の中のきびしいところ…

トルコ語の知識だけで、この看板がどのくらい理解できますか?
(写真:バクー、アゼルバイジャン.2021年12月2日撮影)

私は自分自身に多少なりともトルコ語の運用能力があると自負していますが、少なくとも私自身は「アゼルバイジャン語はトルコ語である」という感覚は持てません

大島氏は上記の通りテュルク諸語を「方言の差も大きくはなく」というのですが、何を持って大きい(小さい)とみなすかは、どれだけ突き詰めたとしても多分に主観が関与する領域の話でしょう。極端な話、/b/と/p/の違いや/t/と/d/の違いを大きいと見るか小さいと見るかについてすらも、その差を大きいと感じる可能性は状況や場合によって十分ありえるはずです。

なんなら、トルコ国内の「諸方言」(キプロス方言、ガズィアンテプ方言などと呼ばれる多くの地域方言があります)とて、標準語・共通語のベースとされるイスタンブル方言と比べてみたときに違いを大きいか、小さいと考えるかは人それぞれでしょう。

本記事のテーマをはじめ、トルコ国内の諸方言に興味のある方は以下の過去記事などもぜひご覧ください!

話が少しそれてしまいましたが、とりあえずトルコの首都、アンカラに滞在していたときの使用言語、トルコ語とは完全に言語モードを切り替えているつもりでバクーに滞在している、ということは言えます。

それだけに、上記の大島氏の「まえがき」には到底同意できないな、という感想を持つわけです。でなければ、コミュニケーションに齟齬をきたすシーンをアンカラにいるときよりも数多く経験している自分というこの事実はどう説明するのか、とも。

ケース1:トルコ語とアゼルバイジャン語

ただし、ではトルコ語を一例に(筆頭に、ではないですよ!この点意識しましょう)、アゼルバイジャン語やウズベク語、ウイグル語からサハ語(ヤクート語とも。北東シベリア、サハ共和国を中心に話されている言語です)などを総称するターム(用語)はないのですか?と言われたら、それはもちろん存在します。

これらは言語的に共通の祖先を持つ、いわば「親戚の言語」たち。総称して、「テュルク諸語(学術領域によっては「チュルク諸語」とも表記されます)」と呼ばれています。人によっては「広義のトルコ語」と呼ぶ場合もあるかもしれません(個人的にはあまり好みませんが)。

テュルク諸語は、地理的な分類という観点でさらにいくつかのグループに分かれます。音韻の特徴や単語の変化する形などで、同じグループ内の諸言語は似た特徴を持つとされることが多いのですが、その中でトルコ語とアゼルバイジャン語はテュルク諸語内では南西語群、別名オグズ語群(オグズグループ)に属するとされています。

数あるテュルク諸語の中でも両者は極めて近い言語であるとされており、私自身もとある本に両者の類似点と相違点について寄稿したことがあります。そこで使った文は、次のようなものでした。

(1)(トルコ語)
Ben kütüphane-de kitap oku-yor=um.
私 図書館-位置格 本 読む-現在=1単
「私は図書館で本を読んでいます」

吉村 大樹「トルコ語とは似て非なりーアゼルバイジャン語のすすめー」
廣瀬陽子(編)『アゼルバイジャンを知るための67章』(明石書店。285ページより例文を引用。例文へのグロス表示、和訳は筆者によります。

(1)がトルコ語の例です。
ちなみにですが、語順(ここでは単に、語の並ぶ順番と考えてください)や語幹に接辞や付属語が付着していくという形態構造が日本語と共通しているということにも気づきます。それはよいとして、

(2) (アゼルバイジャン語)
Mən kitabxana-da kitab oxu-yur=am.
私 図書館-位置格 本 読む-現在=1単
「私は図書館で本を読んでいます」

吉村 大樹「トルコ語とは似て非なりーアゼルバイジャン語のすすめー」廣瀬陽子(編)『アゼルバイジャンを知るための67章』(明石書店。285ページより例文を引用。例文へのグロス表示、和訳は筆者によります。

(1)とアゼルバイジャン語の例(2)だけを見ると、確かに「似ている」ようには見えるかもしれません。しかし、直感的に似ていると思しきところを探し出してきて「ほら、似ているでしょう?」というのは実は簡単なことなのです。たとえば、別の文ならどうか?

(3) (アゼルバイジャン語)
Müəllim uşaq-lar-ın sual-lar-ı-na cavab ver-ə bil-mə-di.
先生 子ども-複数-所有格 質問-複数-3単-方向格 返事 与える-連用 できる-否定-過去
「先生は子どもたちの質問に返事ができませんでした」
 

吉村 大樹、ギュリエヴァ カマラ(近刊)『アゼルバイジャン語文法教本』より例文引用

トルコ語では、「先生」を指してmüəllimという語を使うことはまず稀と言えます(ゼロではないようですが、古風に聞こえるという趣旨のことを聞いたことがあります。ただしこの点はうろ覚えです)し、「子ども」を表す語uşaqも、トルコ国内の一部地域方言で使用されている語彙ということで理解はできるでしょう。

ただし、最後の助動詞部分、”verə bilmədi”にはトルコ語との違いが明確に出ていると言えます。アゼルバイジャン語のほうが、文法的意味を表す部分をそれぞれの接辞で明確に担当しているのです。以下の(4)で示すトルコ語の例と見比べてみてください。

(4) (トルコ語)
Öğretmen çocuk-lar-ın soru-lar-ı-na cevap ver-eme-di.
先生 子ども-複数-所有格 質問-複数-3単-方向格 返事 与える-可能否定-過去
「先生は子どもたちの質問に返事ができませんでした」
 

語彙の分布が異なるというのは当然想定されるとしても、文法の細部にも違いが出てくるとなったとき、耳にして仮に理解できたとしても、それをもってして「両言語は(ほぼ)同じ」と言い切ってしまって良いでしょうか?

少なくともトルコ語話者といえど、母語の知識から多少のことを類推して理解できた(気になった)としても、ではうまくアゼルバイジャン語として切り替えて発話できるかどうかという話になってくると、極めて怪しいと私は考えます。彼らトルコ語母語話者とて、アゼルバイジャン語を運用するためにはかなりのトレーニングを積む必要があるはずです。

みなさんの中にも、「今すぐに長崎方言で話してみてください」と言われたら困る人は多いでしょう?それと少し似ている感覚とも言えます。

かつて私は、トルコ語とアゼルバイジャン語を「似て非なり」と形容したことがあります。
我ながら的を得た言い方だと自画自賛しているところですが、どこが似ていて、どこが似ていないのか。そこをできるだけ客観的に見極め、記述していく必要があるといえます。まさしくこれが、今私がバクーに来てアゼルバイジャン語に執着しているたった一つの理由でもあるのです。

ケース2:トルコ語とウズベク語

ここで言語の対象を少し変えて、ウズベク語に登場してもらいましょう。

ここ数年、日本でも学習環境の整備が著しいテュルク諸語の一つがウズベク語ではないでしょうか。ウズベク語は上記の地域的なテュルク諸語の分類では南東語群(カルルク語群、チャガタイ語群とも呼ばれることがあります。カッコいい名前ですね?反論は認めません!)に属します。言語話者もテュルク諸語の中では多く、トルコ語に次いでアゼルバイジャン語としのぎを削る(か、ウズベク語話者の方が多いかもしれません)ほどです。

トルコ語とウズベク語も、似ているところを探すのは簡単。トルコ語の言語知識だけをもって、初見でどのくらい理解できるかを図ろうと思えば、いくらでも適例が出てくるでしょう。
なんなら、両者の似ている部分(数詞が似ているという部分が出題されました)を題材に、大学入試のセンター試験でテュルク諸語のことが出題されたことだってあるくらいですから!

しかし試しに今、ウズベク語版の『星の王子さま』があります(わざわざバクーまで持ってきたワイはえらいですね!!?)ので、その中から例文を一つ出してみましょうか。

(5) (ウズベク語)
Eng asosiy narsa-ni ko’z bilan ko’r-ol-ma-y-san.
最も 本質的な もの-を 目 で 見る-可能-否定-非過去-2単
「最も大切なものを、目で見ることはできない」

Sent-Ekzyuperi, Antuan de (Sulton, Xayriddin訳) (2016) Kichkina Shahzoda. Toshkent: Ma’naviyat. p71より引用 

 文頭のengは、トルコ語のen(最も)から類推できるかもしれません。続くasosiyも、トルコ語のesasi(根本的な、本質的な、etc.)から類推できるでしょう。

しかし、narsaは果たしてどうか。名詞narsa(「もの、こと」)の語源は今手元の資料では調べようがないのですが、おそらくトルコ語の知識だけでは意味を予測できないでしょう。同様に、共同行為者や手段などを表す後置詞のbilanも、トルコ語からでは推測が難しいはず。

さらに動詞部分、ko’r-ol-ma-y-sanもなんとなく意味が想像はできるでしょうが、時制はどうなっているか、ol-の部分は本当はどういう意味なのか…

…といった細部を正確に把握するのが、果たして本当に「容易」かどうか。こんなふうにアゼルバイジャン語ならまだしも、ウズベク語を初見で理解するというのは、トルコ語母語話者でも付加的な背景知識がない限りは相当難しいはずです。

まして、トルコ語あるいはほかのテュルク諸語のどれか一つを学習したにすぎない非母語話者の私たちにとってはなおさら、ということではないでしょうか。

テュルク諸語があまりにもバリエーションがありすぎてフテ寝してしまったトルコ出身のねこ(茶トラオス、4歳;長崎在住)

バリエーションをこそ愛そう

ここまで、トルコ語と「近い」とされるアゼルバイジャン語、あるいは中央アジアを中心に言語話者がいるウズベク語を引き合いに出して、テュルク諸語のバリエーションの世界について書いてみました。

が、細かい文法の話も含めて全てを紹介するというのは、到底簡単にできることではありません。

そういえば、冒頭で引き合いに出した大島氏の巻頭言。

彼がかなり広く解釈して用いた「トルコ語」を「テュルク諸語」に置き換えて、それら個々の言語をもう少し細かく観察し、記述し、ひいては理論化に貢献していこうではないか、と。

それこそが私たち、テュルク語学徒に引き継がれた研究テーマなのかなと思って私自身は活動しています。もっとフランクな言い方をするならば、

どこが似ていて、どこが違うのか。

その追求の過程で、興味深い発見がきっとたくさんあるはず。

それを信じ、あるいは実感しながらテュルク諸語のバリエーションに触れるというのは、それなりに刺激的で面白い世界なのです。

少なくとも言語に関しては、多様性(バリエーション)を受け入れましょう。なんなら、愛してもよい。(見返りがあるとは限らないけどな!!愛ってそういうとこ…あるじゃん…???)

今回の記事で引き合いに出したアゼルバイジャン語やウズベク語はまだ、実はトルコ語と「似ている」、あるいは「近い(ように感じやすい)」と言えるほうなのです。自分が勉強して、トルコ語の知識がある程度身についたと仮定しましょう。そこでたとえば「トゥヴァ語」、「チュヴァシュ語」、「サハ語」といった言語をぜひ見てみてください。

時間や執筆環境の都合上、これらの言語にはこの記事では詳細に触れられませんが、はたして何割理解できるか、上記の諸言語を一度ご覧になってみてぜひ正直に申告してみてください。絶句すること請け合いですから。

ということで、テュルク諸語のお話、ひとまずはここで一区切りといたしましょう。

え?続き??
続きは…また今度ね…İnşallah

アゼルバイジャン語ならここはトルコ語と同じく”inşallah”, ウズベク語なら”insholloh”となるところでしょう。あるいは確か、ウズベク語ではこういうときは”Xudo xoxlasa”(神が望めば)、というのでしたっけね?間違っていたら日高さん(アドヴェントカレンダー12月20日執筆予定の人です!)、教えてくださいな。

日高氏から、”Xudo xohlasa”が正しいですとのご指摘を賜りました。やはりそうでありましたか(自信なかったんだそこが。手元に辞書もなかったしで)。ご指摘感謝して訂正いたします。

(2021年12月3日追記)

(次回に続く?)

本記事は、「まつーら」さん企画の「言語学アドヴェンター」への参加ということで寄稿いたします。語学・言語学に関連した楽しい記事がクリスマスまで続いていくと思います。みなさんもぜひ、要チェック!
また、私自身も「テュル活」と称して日頃から「テュルク」に関連する活動を行っています。本記事のような内容の執筆もその一環。ここnoteやTwitterなどで情報を発信しています。テュルク諸語、テュルク世界にご関心の方はぜひ今後もフォローしてみてください。みなさまと交流ができるのを楽しみにしています。

Milad Bayramımız mübarək!(クリスマスに祝福あれ!)

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