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どうして全裸はいけないのか、考えてみた

なにげないことからテツガクは始まる。固く考えすぎなくていい。今回は「全裸」について考えてみた。

わたしはジムに通う際に、運動用の服に着替えている。Tシャツとハーフパンツの軽装だ。

しかし、最近は涼しくなってきたため、その格好で移動すると寒い。そうなると、移動用の服装で、ジム用の服装も持っていかないといけない。

「面倒くさ」ここで思ってしまうわけである。そうなると、せっかくジムに行こうという貴重な心が失われる。怠惰野郎に芽生えた運動しようという意識は失ってはいけない。

そこで発想を変える。

着替えるという手間をなくせばいい。

そう、全裸だ。全裸になればいい。全裸で移動し、全裸でジムする。そうすれば楽じゃないか。

でも全裸はいけないことらしい。

どうして?

どうして全裸ではいけないのか。意外と真剣に考えたヒトは、いないんじゃないか。

あまりにも当たり前すぎることに、疑問をもつ。これが哲学のはじまりだ。

まっとうな人は言う。「いや、捕まるじゃん」至極真っ当。普通はここで議論は終わる。

けれど、わたしは考える。

全裸の人は2つに分けられる。

積極的全裸

消極的全裸だ。

積極的全裸は、全裸になることが目的であり、そのために快感を得ようとする人たち。露出狂なんぞはその典型で、自分の局部を他人に見せることで快感を得る。あるいは見られるか見られないかの快感を得る変態たち。能動的ともいえる全裸行動。

これが積極的全裸。これらは逮捕だろう。自分の快感を得るために、他人に不快を強いる。社会規範から外れている。しかし全裸にはもう一種ある。

それが消極的全裸だ。これは別に他人に裸を見せたいわけではない。そうではなく、あくまで効率を考えた結果、全裸がもっとも合理的だと判断し、全裸になったという人。全裸が目的ではない。

いわば獣と同じ。獣もよくよく考えれば全裸だ。服を来させているワンちゃん、猫ちゃんには違和感をもつ人間だ。本当にそれ、ワンちゃんが着たいと思ってるのかな。飼い主のエゴでは?と思ってしまう派だ。彼らの自然は全裸。人間も自然は全裸といえるのではないか。

他人の不快を押し付け快楽を得るというプロセスはない。
あくまで自然になるという全裸。服を着るという文化は類人猿のときはなかった。初期のヒトたちは自然と一体だった。文化を築くと同時に服装という不自然を着るようになった。


ここまで考え、普通に外寒いなと思い、長袖のスウェットでわたしはジムへ向かった。

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