3・11から6年 津波に破壊されたままの姿で 小学校は眠る
2017年2月3日から5日にかけて、福島第一原発事故の影響で放射性物質の汚染を受けた福島県浪江町などを取材に訪れた。
同原発から4〜10キロ北にある浪江町は、今も高濃度の汚染が残る山側(下地図のC地区)をのぞいて、太平洋沿岸の居住制限を2017年3月末で解除することを宣言している。原発事故直後、浪江町は全町民約2万5000人の避難を余儀なくされた。事故後6年にして、ようやく「ふるさと」への帰還のドアが開くわけだ(下記地図のA、B地区が解除される。同町ホームページより)。
それに先立って、これまで立ち入り禁止で入れなかったエリアに、私のような記者も入れるようになった。帰還準備のための住民の宿泊も許されるようになった(それまでは立ち入りはできるが宿泊はできなかった)。
「原発の隣町」である浪江町は、地震・津波や原発事故から立ち直ろうとしているのか。私が現地で取材したかったのはその点だ。
結論から言えば、街は2011年3月11日に地震と津波で破壊されたまま、ほとんどその姿で動きを止められていた。事故から約6年間、放射能汚染で無人のまま片付けすらほとんど手付かずなのだ。
海岸から500メートルほどの至近距離にあった請戸小学校に行ってみた。
地震発生当時、校舎には給食後に下校した1年生を除き、2年生から6年生までの児童77人が残っていた。避難場所に指定されていた「大平山」まで約2キロを走って逃げた。幸い、子供たちに犠牲は出なかった。
しかしその後、福島第一原発の事態が悪化して、町民はそのまま避難。小学校は津波で破壊されたままの姿で6年近く封印されることになった。
その様子を写真で報告する。
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