当たり前は続かない。終わらない日常を生きよう。

 明日からまた仕事だなあ。でも今日は半年ぶりの部活の公式戦で勝ったからいいんだ。生徒の頑張りで僕も頑張れる。

 昨年の1月でしたか。新型コロナウイルスはどうやら広まっていると。最初は、へーそうなのかくらいだった気がする。ダイヤモンドプリンセス号の集団感染があったけど、同じ国内で起きているその事さえも実感が沸かなかった。このまま増えていったら大変なことになるんかいなと思っていても、実際にそうなるなんて思ってなかった。なぜならば、そうなる経験が完全に確実に欠如していたから。不安な気持ちとどこかで何とかなるんじゃないかって思う所があった。

 この何とかなるだろうってのは、結構厄介なものだなってしばらく経って気付いた。きっかけは諸外国との対応の違い。お願いベースの日本と強制ベースの他国。だからパンデミックまではいってないんだけど、その分実は流れも悪いんだな。もともとは我慢する、周囲を気にする日本人だと思っているけど、その分ある種の楽観的な感じがある。だから物事が上手くいっているように捉えてしまう文化がある。議論を回避する。分かり合えると思ってるのはいいことだけど、根本的な議論をせずに問題をすり替えていくんだ。根本的な問題に内在する問題に関しては対話をしようとしないし、我慢も慣れれば守らなくなっていく。

 「みんな大変だよね」「わかるよ、俺も大変だ」「そうなんだね。立場は違うけど、皆大変なんだから頑張ろうよ」

 どうやって?

 立場は違うけど、みんな大変。これは便利な言葉。だってその通りだからら。でも、大変だから大変ってのは議論じゃない。じゃあどうすればいいのってとことん詰めたりする手間をなるべくしたくないんだ。そのくせ、文句は言う。

 そのためのぶつかり合いって必要なことなんじゃない?

 もっと客観的にならないといけないけど、この状況なら仕方ないか。でも、それだと無限ループになっちゃって根本的な解決にならない。そもそも想定外の出来事(シン・ゴジラ)に対しては従来型の対策に準ずることしか出来ない。たとえその効果が薄いと分かっていても。

 強力な発言力とか正しい方向に導いてくれるものには協力する。ただ、そういう人がいないのが現実。終わらない日常。でも変わらない日常では決してない。それでも生きていかないといけない。生きねば。僕は生きていくし、皆も。

 誰にも結末はわからない。だけどたったひとつ分かるのは、一人ひとり考え方は違うけど、みんな必死だってこと。

 マスクにも慣れた。生徒の顔をなかなか覚えられないことにも、検温にも、消毒にも。これが終わらない日常。授業中も座席の移動は禁止。昼は声を出さずに黙食。部活動では声も出せない。喜び合うことも悲しみ合うことも。これが今の日常。

 でも終わらないんだ日常は。この後寝れば明日は来る。明後日も。終わらせない日常にしたいよ僕は。

 

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