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一生とは言えないけど、とりあえずアラサーでもまだ青春

 文芸評論に触れることが仕事柄よくある。最近、竹田青嗣さんの「陽水の快楽」を読んだ。青春について井上陽水さんの歌詞の閉じ方が、定型とは微妙にずれていることを論じていて興味深い。

 一般的に、青春は若者によって生成されて、為されていくものと思われている。その時代に「あるもの」を真似して消費していくと捉えられるかもしれないが、僕はそうは思わなかった。流行り廃りはいつの時代にもあって、きっかけはひょんなことから起こる。技術の進歩だったり社会情勢だったり、ある時偶然に発生する。もう還暦を過ぎた僕の父は、バンのジャケットやキャプテン・サンタを好み、冬にはピーコート。時にはアイビールックでレジメンタルタイを閉めていた。足元にはローファー、コルテッツ。今でも誰かがかっこいいと思うものばかり。僕の大学時代にはドクター・マーチンとモッズコート、そしてレギンス男子やローテクスニーカー組み合わせが流行った。

 誰かがかっこいいと思うものに共感する人はいつの時代にもいて、それが何かの偶然でカルチャーを生み出してきた。その筆頭が若者だ。なぜ若者かというと、今までに経験したことのないものに対する興味関心、ワクワク感がそれをより魅力的なものにしているためである。それを通り過ぎた大人は、「苦虫を嚙み潰して、その魅力を俺はもう知っている」と若者に優越感を感じる。これが一般に言われる「大人の余裕」みたいなものだと思う。

 確かにこういう側面はある。アラサーで数年経てばアラフォーになる自分からすると、20代前半あんなに楽しかった飲み会もカラオケオールも今となっては仕事と予定を鑑みてどうするか考えるおっさんなんです。

 ただ、それでもやっぱり楽しいものは楽しい。これは僕が楽しいと思ったものを若者が楽しいと思ってくれてるからなんだけど。これは陽水の「それでも憧れてしまう」に繋がるように思う。分かっちゃいるけど止められない、と植木等は言ったけど、それと同じ。かっぱえびせんです。

 だって楽しいんだから。その楽しさに年齢は関係ない。思えば、東中野でよく行ってたバーに来てたご夫婦は還暦超えてた。でも、僕らと飲んで楽しくて、てっぺん超えたらタクシーで帰る。お二人ともワインが好きでボトルを入れて僕らにふるまってくれた。

 そんな大人になりたい。勝手になってるかもしれない。少なくとも落ち着いて誰かの人生を背負っているわけでない。それが上記のご夫妻とは違うんだけど。でもね、アラサーなっても青春だよ。

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